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2008年 12月 22日

草仏教掲示板(19)  至徳の風静

b0061413_352489.jpg 「大悲の願船に乗じて、光明の広海に浮びぬれば、至徳の風静に、衆禍の波転ず」(教行信証行巻)  今回は道行く人たちに見ていただいている掲示ではなく、寺院の待合いの部屋に掲げている言葉である。 だから年末の番外編ということになる。  まず、救いというものを光にたとえる宗教は数多い。たとえない方がおかしいぐらいに多い。 救いを船にたとえるのは、勉強不足のせいもあるが、他にあまり知らない。 旧約聖書には 「ノアの箱船」 というものがあるが、あの船は救いというよりは淘汰(とうた)のようだ。 浄土真宗(大谷派)の全国の寺院名簿を見ると、願船寺や大船寺など、船という文字が付く寺院がけっこうあることに気がつく。地名に由来するもの以外では、船の文字は浄土真宗以外の寺院名にはあまりないような気がする。 全国寺院名簿を読むと寺院名という場の名のりを漢字の2文字か3文字に凝縮させている言葉に多く出会える。 だから、全国寺院名簿は私がもっとも愛読する仏教書だ。





b0061413_3274442.jpg 大悲の願船という名の船は、タイタニック号よりもはるかに大きな船のようだ。タイタニックのように船室の等級はなく、乗員と乗客の区別すらないようだ。それどころか、死んだ人も乗っているかもしれない。でも幽霊船というのではなく、生きている人もいっしょに乗っている。大乗仏教社の船らしく、文字通りとてつもない大人数に乗ってもらえることが旗印だ。 われわれが認識できる範囲ではシャバから浄土行きの船ということになるが、どうも浄土からシャバに来ることもあるようだ。本来ならば絶対に渡れるはずのない海を行くという船である。 エンジンは人力も少しは想定しているようだが、それは主力エンジンではない。大悲の願船という大船を動かすのは静かな風であり、これは鎌倉時代の親鸞聖人によって構想・設計がされている船なので帆船である。帆船であるからこそ、この譬喩(ひゆ)は成り立つことになる。



「他力」 という言葉があって、
どんなに崇高な仏教用語であったとしても
言葉というものが文脈のなかの記号であるという
側面がある以上は、本来の意味と遊離されて使われる
ことはある程度仕方がない。
近頃の日本では 「携帯」 という言葉がセルラーフォンを表わすと知った
記号論学者は大喜びするだろう。

渋滞の 「立ち往生」 というのはスゴイ造語だ。
なんせ立ち、往生なのだ! 
「行き詰まりニッチもサッチモ」
という状態であることはそうなのだろう。
道に立ち止まって考えることも必要だから。

自力優勝の可能性が消えそうなリーグ戦の
スポーツチームの監督が
「他力本願ではだめだ!」
などと言ったりする。

そういう用語例は当たり前のようになってしまい、
教団も僧侶も、抗議することもなくなった。

ある政治家が
「親鸞聖人じゃあるまいし他力本願ではだめだ」
と発言した時は、さすがに本派本願寺(西本願寺)は
抗議のコメントを出したようだ。

しかしながら 「他力」 という言葉があるからといって
「自力」 を象徴する 「努力」 まで否定する僧侶もいるが、
大学者と言われる人も含めて、そりゃ勘違いというものだと私は思う。
帆船を動かす 「他力の風」 がビュービュー強力な
絶対的ウルトラパワーだと感じているから起こる勘違いで、
ちゃんと 「至徳の風静」 と書いてある。
でも、静だから→微力だから→やっぱりダメ
というのも短絡的だ。

プレゼントはささやかなものほど嬉しいということがある。
100分の1秒を縮めるためにギリギリの努力を尽くした
ランナーにとっては、背中を押してくれるような
かすかな追い風が自力を尽くすための最高のプレゼントに違いない。
風速4メートル以上の強風であったなら、ただの参考記録だ。

抽象的だが、もうちょっと真面目な譬喩(ひゆ)をしよう。
努力を尽くしながら、西へ行こうか東に行くべきかで
ギリギリのところで迷っている人がいるとする。
ギリギリの決断をしなきゃいけない。
その時に、亡くなられた(生きている人でもいい)人が
かつて自分に投げかけてくれた言葉がふと思い出され、
それがきっかけになってその決断をしたとする。
その言葉そのものは微風である。
しかし、微風だからといって力がないものなのか?
違う。
ささやかだからこそ想像もできなかったほどの
大きな力になるのだ。

努力をする人の姿というものはこの上なく尊い。
早送りのVTR再生をすれば誰でもマヌケに見えるだけで、
人の努力は尊い。

ただ、努力を生み出す根元というものがある。
たとえば 「やる気」 である。

「やる気」 がないのに努力ができるという人は
いそうでいない気がする。

やる気は、テレビのドラマで ロッキーのテーマ曲のようなものが流れ、
♪ やる気ぃ、出すぞぉ~ (ロッキーのテーマにマーヒーが作詞)
というように起ることなどは実生活ではまずない。

自力でやる気が起こせるのなら、
「やる気タイマー」 のような製品が欲しかったものだ。
学生時代の夏休みの宿題なんてすぐに仕上げられたはずだ。

やる気は 
「ふと、思いがけずに起る」 ものであって起こすものではない。
自分で起こしたやる気はすぐに消えてしまう。
ふと思いがけずに起きたやる気の方は、
これがなかなか消えず、自分でも 「なぜ?」 と思う。

なぜ、そんな気持ちが起こったかについては、
ここがどうも自力ではない。
自力ではないけれども、自力(努力)を出す根底を
支えてくれている他力(やる気)である。

年末になった。
「宝くじ当たれぃ!」
を中心に、大まかに言って地位と名誉と財産のことを
相変わらずいつも漠然と考えている。

ただ、そういう私の日頃の心の壁を
針の穴ほどではあるけれども打ち破って、
ふと浄土からのかすかな風が吹き込んでくれることがある。
自分でも、なぜ、ふとそのような風が吹き込むのかわからない。
叱責でもあるように思え、
記憶のノイズであるようにも思えるのだが、
やっぱり密かに背中を押してくれる励ましに思える。

馬鹿は死ななきゃ直らない。

人のことを言っているのではない。

自分にとって大事な人の存在を
私という馬鹿は
失わないと微風とも感じない。

今年、「しずか」 という名の 大事な先生を失った。

失うまで 大事な先生だとは思わなかった馬鹿な私だ。


マーヒー加藤
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by kaneniwa | 2008-12-22 05:25 | 草仏教


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