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2008年 12月 24日

サンガクロース

蓮如上人が、その84年の生涯を閉じようとした時、
その最後の願いは
本願寺関係者にメッセージを投げかけることではなく
下間安芸蓮崇(しもつま あき れんそう)
という人物に会うことだった。

蓮崇がやってくるのを待つように蓮如上人は
もちこたえ 
その面会を果たした後、四日後か五日後に
蓮如上人は亡くなられる。

蓮如上人が亡くなられた三日後か四日後に
蓮崇は服毒自殺をする。

最後の出会いの場面で交された会話の詳細はわからない。
わずかに
蓮如上人の孫の一期(いちご)が、
畳の上に落ちた蓮崇の大粒の涙を目撃したことが
『一期記』(いちごき)
という書物に記されている。



 









このことについて、私にとっては仏教書や歴史書よりも、
多くの癌末期患者の最後を看取られてきた
エリザベス・キューポラ・ロス 先生、
日本では鈴木秀子 先生 が書かれたものを読むことで
「蓮如と蓮崇の最後の会話」
を想像した。

死んでいく人々は、私たちが日頃考えるように 地位・名誉・財産に
ついてのことを考えはしないだろう。

いや、そうでもないかな?

12年前、母親が死にかけた時は、病院の集中治療室で
マーヒーの手を握りしめ
「冷蔵庫のヨーグルト、今日が賞味期限だからね」
と言った。
もうちょっとのところで、
それが最後の言葉になるかもしれなかった。

そういう愚母の息子なので、自信をもっては言えないが、
年末の今現在は、 「宝くじ当たれぃ」 が思考の中心にある私でも
自分が死んでいく間際の部屋に娘か息子が新聞をもって
「お父さん、宝くじ当ったよぉ!」
というグットニュースを届けにきたとしても、
日頃の心、日頃の煩悩で喜べるかどうか。
そのニュースは果たしてグッドなのか。

今感じているグッドはほんとうにいいことで、
今感じているバッドはほんとうに悪いことなのか?

煩悩まみれで死んでいくにしても、
日頃の煩悩とは違う煩悩が表出するのでは
ないかと思っている。
まさかヨーグルトではないとは思うが。

どちらにしろ、死を迎えようとする時には、
日頃の心に大きな風穴があき、
浄土からの風が吹き込まれる。

尊大な人間が謙虚になり、
お礼を言わなかった人が感謝のかたまりになり、
傲慢な人間が懺悔(さんげ・ざんげ)する。

そういう9回裏の大逆転や残り1秒でのタッチダウンというものはある。

因業親父が 「ごめんね、ありがとう」 と言って死んでいっただけで、
「あの馬鹿親父は早く死ね」
と常々言っていたバカ息子が
「あの親父は仏だった」
と言う。

「悪人正機」 だとか 「念仏成仏」 だとか観念で言うとバカらしいが、
凡夫が仏になった確かな実例は、バカバカといってはいるが、バカにできない。
「還丹の一粒」 (楽邦文類) の実例が、この9回裏の大逆転には
たくさんある。

「因業親父」 と 呼んでた人を 「仏」 と呼ぶことになったのだ。
それも、たったひと言で。

私は学恩というほど勉強はしていないし、それによる業績のようなもの
はまるでないのにこんなことを言うのは変なのだが、
今でも、
「死んでいく人々はどこに行くのか」
というテーマを学究された
ロス先生や鈴木先生のことは敬愛申上げているつもりだ。

しかし、紙一重のところで 「わずかに欠けているリアルさ」 のようなものを
感じずにはいられなかった。

ロス先生や鈴木先生が悪いというのではなく、
事実として、ロス先生や鈴木先生に最後を看取ってもらえた人は
上流階級、少なくとも中流以上であるか、もしくはお上品な人たちだった。
捨てなければいけないものをたくさんもっていた人々だった。

そして、鈴木先生にいたってはシスターでもあり聖心女子大学の
教授であるから当然なのだが、
根っからお上品なキリスト教とアカデミズムのオブラートに包まれていて
もどかしく思える部分が私には多かった。

いくら行間を読もうとしても読み取れない部分があり、
同時に、そこが私のもっとも知りたくて感じたいところだった。

今年(2008年)の3月5日に、ヘンリーさんという飼い犬の名前を
ハンドルネームにした合衆国の女性からコメントをいただいた。
愚ブログの超訳徒然草を読んでいただいているという。
今年の1月から 青い蝉 というブログを始められていた。

そこを見に行って、私は心底驚いた。
飾り気がないのにシンプルでディープな日本語の美文で、
私が感じたかったリアルさが満ちあふれていた。
情報としてのリアルさよりも、
自分の心の奥底の入り口を覗くようなリアルさだった。

その文章に、何かを触発される人は私だけではないようで、
一つのブログ記事に、常に50前後のコメントが記載されていた。

彼女は 「D という患者さんのことだけ、まだ書いていない」
と常々言っていたので、 D という患者さんの記述が
載った時が 青い蝉 の最終回であるとは思っていたし、
最近のヘンリーさんのコメントの言葉がすべて
パスト・センテンス(過去形)で区切られていたので、
その最終回の日も近いとは薄々感じていた。

まさか、ブログの他の記事を全部削除されるとまでは思わなかったが、
それだけに、この一文には 「これを書かずにいられなかった」
という彼女とDの魂をなおさら大きく感じ、その衝撃は止まらない。

先日、モンスターエンジンのM-1グランプリでの漫才を見ていて、
その時には 「暇をもてあました神々」 のコントはまったく
出てこなかったのだが、シャラポア(妻・日本人)は

 もしも本当に万能の神というのが存在するなら、
 キリスト教では 「それも試練」 というのかもしれないけれど、
 モンスターエンジンのコントのように人間の姿をしながら
 私たち人間をきっとおちょくりに来るよね

と言った。12名ほどで博多鶏鍋をつつきながらの戯れ言であったが、
ふとそれは卓見かもしれないと思った。

サンタクロースが実在するとして、
それはプレゼントをくれる白髭の好爺というだけではなく、
いろんな悪戯もするだろう。

ブログという世界のなかで、
時々おちょくりに来て (私もおちょくりに行ったが)
しかし、その時々の核心にふれていくヘンリーさんという人が、
「ほんとうに実在するのか?」
などと思ったことまである。

ヘンリーさんはいる。

別な名前を使われるかもしれないが、
たまには
「ヘンリーさんが読んでいるかもな」
と思いながらブログを続けていきたい。
私は
「これだけは書いておきゃなきゃ」
というものを全然見出せずに書いているもの。

ヘンリーさんにいつの日か会う時のために、
マーヒー加藤は 娘が可愛がっている ランちゃんというインコ を
不本意ながら怪鳥として育て、 肩にのせて EW&F の曲を
伽陀(かだ)よりもはるかに高い声で歌う。


マーヒー加藤
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by kaneniwa | 2008-12-24 06:21 | 草仏教


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