2009年 02月 26日

抽象観念で観戦する早慶戦

たまに思いついた、ものすごくバカなことなのか案外哲学的ことなのか、
ただの夢想なのか、あるいは意外と常識だったりするのか・・・

そんなことが頭に思い浮かんだ時、書いておかないと忘れちゃうので
ブログに書いておくということがたまにある。

もはや、ブログは私の自由帳なのか?

自由帳の雑記やたわごとにもコメントという天の声が聞ければ幸いだが・・・



早慶戦というといろいろあるが、野球とラグビーを思い浮かべる人が大半であろう。
早稲田大学と慶応大学の攻防である。

抽象観念をもってこれを観戦するということはどういうことか?
ラグビーでいえば、大西理論と北島戦術のぶつかり合いというようなことか?
(これはちょっと古いし、だいたい北島戦術は明治大学だったな)

ちょっと違う。いや、だいぶ違う。
もっともっと抽象的なのだ。

発想の発端は連想ゲームみたいなことからだ。

早稲田大学というのは大学名を早稲田という地名からとった。
地名から大学名を名のるというのは国公立大学なら当たり前だが、
たとえば東京大学が東京のどこにあるかを知らない人でも、
早稲田大学は早稲田という地にあるということがわかる。
まあそんなことを言うと日本大学は日本のどこで東洋大学は東洋のどこか
わかんないけれども。亜細亜大学も然りだ。

また、特に東京の大学に多いことだけれども、地名を名のる大学が
現在は地名と校舎(キャンパス)の所在地が一致しないところが少なくない。

たとえば、このブログも読んでくれている 
なんちゃってヤンキースの背番号22番の奥野細道選手も
出身校は麻布大学であるが、
「ええとこに大学があるなぁ」
というと
「いいえ、キャンパスは神奈川県の相模原市です」
といった。
ただ、創設当初は現在の港区南麻布にあったことは間違いない。

早稲田大学は埼玉県の所沢にも校舎があるが
(場所を決める際に、教授会で都の西北方面に校舎をつくるべしという
意見があったとかなかったとか)
とにかく、早稲田という地名を大学名に採用している。

一方で、慶應義塾大学は、慶応という江戸末期の年号を大学名に名のっている。
このネーミングの手法はそれから明治大学、明治学院大学、大正大学、昭和大学、
昭和女子大学ときて、さらに平成国際大学など平成を名のる年号系大学が続く。
古いほどいいのか?というわけでもなく、弥生大学や縄文大学なんていう名前の
大学は、おそらくアウトドア教室や発掘の生涯学習系サークルのネーミングにしか
採択されていないと想像する。

ここで横道にそれてしまうのだが、大阪の桃山学院大学が気になってしまった。
桃山学院(ももやまがくいん)大学は英語名 St.Andrew's University。
キリスト教の大学で1959年に誕生しているので、安土桃山時代は関係ないようだ。
では地名なのか?というと、現在の所在地が大阪府和泉市まなび野で、
その移転前が大阪市阿倍野区の 「昭和町」 ということも発見してしまった。
桃山の由来が不明だ。
ご存じの方はご教授ください。

さて、話をせめて東京方面に戻すことにして、大学、特に私立大学の名前は
この 「地名系」 と 「時代系」 と 「観念系」 がほとんどだ。
東京六大学(野球リーグ)でいえば、 立教大学や法政大学というネーミングが
この観念系だ。 観念といっても、たとえば立教大学の 「教」 は 
具体的にはキリスト教の「教」 を示しているのだろうが、大まかにいって
大学の名前というのはこの3つにまとめられる。

ようやくこの幻想のような文章の本題に戻るとして、
野球やラグビーの早慶戦に、前述のような 「戦術の違いを楽しむ」 とか
「チームカラーというか、伝統の違いを見極める」 という観戦法はすでに
確立していると思う。 「戦術」 とか 「伝統」 とかいうのはけっこう抽象的な観念だ。
さらに抽象観念で観戦するならば、どちらかの応援というものを越えて
野球なら野球、ラグビーならラグビーの 「ルール」 を見るというものもありだ。
審判員なんかは、実際にそういう目で試合を見ているだろう。

さて、そこからさらにもっとグッと抽象観念で試合を観戦できないだろうか?

こういうことを考えてみる。

地名をルーツとする早稲田の選手は、「空間」 というものの権化(ごんげ)である。
年号をルーツとする慶応の選手は、「時間」 というものの権化である。

その人間の、しかもチームを組むという仮の姿をとりながら、
「空間」 と 「時間」 が攻防し、せめぎ合い、しのぎ合っている。

この抽象観念を自分の頭に深い瞑想のようなものをもって定着させたのちに
野球でもラグビーでもテレビ観戦してみると、案外と新鮮にうつったりする。
ラグビーの場合、早稲田の選手たちはトライに至るまでの空間を支配しようとし、
慶応の選手たちは制限時間とタイミングというものを制御しようと必死になっている。

野球でいえば、早稲田の斎藤佑樹投手のようなコントロールのいい投手なら
さらに面白味が増すのだが、
(ただし個人名が頭に浮かぶと、この観戦法では瞑想を邪魔される点もある)
早稲田の投手はイン・アウト・ハイ・ローのような空間への投げ分けに集中し、
慶応のバッターはそれにタイミングによって対峙(たいじ)している
というような図式である。

ともかく、空間を司る神々と時間を支配する神々との攻防として観戦するのだ。

何だか、モンスターエンジンの 
「暇をもてあました神々の戯れ」 
のコントのようでもあるような。

マーヒー加藤
[PR]

by kaneniwa | 2009-02-26 00:58 | 草評


<< すべる話 (1)      マクリオネとともにパニーニョも... >>