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2009年 07月 13日

南無阿弥陀仏とアメイジング・グレイス(6) 由緒編(4) 越後七不思議

昨日言及したルドルフ・ブルトマンとその学派の
「非神話化」 もしくは 「非神話論化」 という考えを、
あまり門外漢が知ったように書き連ねてはと思うが、
私にとっては、要するにイエス・キリストの起こした奇跡をどう読むか、
処女降誕とか復活とかをどう読むかという具体的な問題に関与する。

それ(聖書)を文字どおり信じるのが信仰というものだ、ととらえる流れも昔からある。
ただ、「非神話化」 ではそういうことを 「象徴」 として解釈していこうという
ことのように私は思う。

つまり、イエス・キリストが歩けないものを歩かせたいう奇跡は、
「非神話化」 で読めば、自立できないものを自立させたという事実の神話化であり、
(これはアメイジング・グレイス試訳編の大事なキーワードのひとつになるが)
キリストが目が見えない者を治したという奇跡は、
狭い視野で生きてきた者に、その眼で見ようとしなかった世界を見せたということの
象徴が新約聖書には記されているということであると思う。

この考え方をもとに、親鸞聖人の 「越後七不思議」 のうち、
私にとっては 「非神話化」 する意義があるように強く感じられる
黒埼町(現新潟市西区)山田の 焼鮒(やきふな)の伝承を
とりあげてみたい。

ただ、ずっと、いつかは書こうと思っていたことなのだが、ここから先の記述には
若干の躊躇(ちゅうちょ)がある。
なぜかというと、この伝承を純朴に大事にする
地元の住職さん、副住職さん、ご門徒さんたちに
知り合いが多いということが正直言っていちばんの理由である。

聖書にしてもこの伝承にしても
「そのまま信じるべきである」 という純朴な気持ちを
決して否定するようなつもりはないということだけは記しておきたいと思う。



まずは、その焼鮒(やきふな) の伝承の内容をご紹介せねばならない。

1211年(建暦元年)11月、越後に流罪になっていた親鸞聖人が赦免され、
山田の地を去る際に酒宴が催された。その席に酒の肴として焼いた鮒が用意されたが、
親鸞聖人は近くにあった榎の木に袈裟を掛け
「わが真宗の御法、仏意にかない、念仏往生間違いなくんば、この鮒必ず生き返るべし」
と言って池に放したところ、生き返って焼かれた鮒が泳ぎだしたと伝えられている。
1796年(寛政8年)に、その親鸞聖人が袈裟を掛けたとされる榎の枝が折れて、
その切り口に親鸞の姿と鮒の形がくっきりと現れた。

というのが非常に簡略に記したが、越後七不思議のひとつの 焼鮒の伝承である。

これをブルトマン学派の聖書学者になったつもりで 「非神話化」 してみたい。
しかも、これをあえて箇条書きにしてみたい。
どうも、私は文章がヘタなのか、箇条書きの方が
考えていることが伝わりやすいようだ。

1、 親鸞聖人は事実として黒崎の山田に滞在していた。
2、 その山田の場を中心に親鸞聖人に直接出会って、あるいは間接的に、
   親鸞聖人の教えを喜ぶ人々が確かにいた。
3、 それらの人々は、○○に住む○○さん、というような形では特定できず、
   むしろ文字通りに 「名もなき人々」 というのに近かった。
4、 その名もなき人々が親鸞聖人の教えに感じた喜びの内容というものが
   あたかも死んだ魚が水を得た魚となるような実感をともなった感動であった。
5、 当時の 「名もなき人々」 はその感動を文字にして残すことができなかった。
6、 「名もなき人々」 は、その感動をエピソードとして象徴化するとともに
   5歳の子どもにも伝えられ、継承できるようにした。
   親鸞聖人という名前だけは残すように。

以上である。
もちろん最重要なのは4の項目であり、
「俺なんか生きていたって仕方ないよなぁ」 と自分のことを死んだ魚のごとくに
感じて卑下していた人々が、とにかく親鸞聖人の教えをきいて
水を得た魚のように元気になっちゃったのだ。
おそらく集団で。おそらく不特定多数で。

どうだろう、私はどうも 「非神話化」 した方が大事な 「事実」 をあらわにして
くれる気がするのだ。

言いかえれば、「非神話化」 は、記録の方面の確かさよりも
DNAのどこかに刻み込まれている記憶の確かさを浮き彫りにする気がする。

それでは、榎の木から出た親鸞聖人と鮒の形はどうなんだ?
ということだが、純朴な住職さんやご門徒さんの顔を浮かべながら
慎重なことを書くと、 これは伝承が先だったので姿が現れたのだ。
榎の木のなかの姿が先で伝承が生まれたというのはあり得ない話で、
事実関係の方もちゃんと伝承が先になっているから現れた姿なのだ。

信仰が奇跡を呼ぶということはあっても、奇跡が信仰を呼ぶのではないと言いたい。

ああ、慎重に書くのに疲れちゃったのでぶっちゃけた話を語る。
20年ぐらい前に山形県のあるお寺で 「人面魚」 といわれる鯉が
マスコミなどで連日のように紹介されて話題になったことがある。
観光客も多く詰めかけたみたいだった。
ところが当時、私の所属する寺の池にもっと人面っぽいデカイ鯉が
泳いでいたのだ。
門徒さんに、冗談半分ではあると思うが
「うちらのお寺の鯉の方が立派な人相をしている人面魚なので
これをマスコミに紹介してもらおう」
と言われたことがある。

それらしい神話を作ってマスコミに紹介すれば、
うちの寺にも観光客が押し寄せるようになったかもしれない。
しかし、神話はでっちあげるよりも 「非神話化」 した方により
大事な意義があると私は考える。

姿や現象をどう見るかは信仰の自由というものだ。


マーヒー加藤
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by kaneniwa | 2009-07-13 00:46 | 草仏教


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