2010年 05月 20日

追悼記事(17)  ハンク・ジョーンズ

追悼記事を書くのは久しぶりで昨年11月の 森繁久彌 さん以来だ。
この半年間、作家の井上ひさし をはじめとして思い入れの多かった方々が
お亡くなりになっていったのだが、思い入れがあるだけにブログを書こうと思うと
何だかよくわからなくなり、追悼記事というものはしばらく書かずにいた。

ヘンリー・ハンク・ジョーンズ(Henry "Hank" Jones、1918年7 月31日 - 2010年5 月16日)
が亡くなった。

2010年2月28日の新潟市民芸術文化会館(りゅーとぴあ)で900人のファンの前で
弾いたピアノが、ハンク・ジョーンズの生涯最後の演奏となった。
痛恨だが、2月28日という日は命日が28日、29日、30日、31日の方々の
月命日のお参りが一気に重なるという僧侶ならではの多忙日であり、
ハンク・ジョーンズが新潟に来るということは知りつつ駆けつけられなかった。
おそらくこれが最後のチャンスと知りつつ。

それでも りゅーとぴあ という会場にこれから足を運ぶたびに、
私は誰のコンサートや演劇であったとしても、ハンク・ジョーンズのことを思うだろう。

私は1991年にニューヨークでハンク・ジョーンズと会い、
とても奇妙なめぐりあわせでいっしょにお酒を飲むことになった。






b0061413_06871.jpg ハンク・ジョーンズの音を聴いたいちばん最初は京都のJAZZ喫茶 しあんくれーる だった。 このお店で18歳から21歳になるまでアルバイトをしていたのだ。アルバイトといっても入っていた時間帯は一人できりもりしていたのでパートタイムながら 「未成年の雇われマスター」 であった。5000枚あるアナログレコードから、お客さんのリクエストに応じていろんなディスクをまわしていったのだが、さすがに長時間にわたってマイルスやコルトレーンを信じられないほいどの大音量で耳にしていると疲れた。マイルスなどは好きなはずなのだが精密機械の動きを見ているようで疲れる。その与えられる緊張感がマイルスの醍醐味なのであろう。しかし緊張が長く続けば良い音楽であるのに精神が吸い取られるように心が疲れてくる。

お客さんからのリクエストが途切れた際に、自然とかけている音楽があった。
当時、新譜も出ていた Great Jazz Trio などはその筆頭であった。
最初は、ただ単にサウスポーのピッチャーの投球フォームを絶妙な角度から写した
美しいジャケット写真に惹かれてアナログ・レコードにハリを落としたのだ。
(ライブ・アット・ヴレッジ・ヴァンガード)
そういう事情で、リクエストがない時にはハンク・ジョーンズのレコードをかけ
(そのマイルスとも共演した名盤は多かったと後で気がついたのだが)
皿を洗っている時も、コーヒーをいれている時も、指は何となくハンク・ジョーンズを
追っていた。
今まででいちばん多く耳にしたピアノの音は、録音物を通してではあったが
ハンク・ジョーンズが奏でたものであると断言できる。

そういう生活の8年ぐらい後、1990年の11月に私はニューヨークにいた。
なぜか 「ボーイズ・ビー・シド・ヴィシャス」 というダジャレのような天啓を受けて
23番街チェルシー地区のチェルシーホテルというお化け屋敷ホテルに泊っていた。
このホテルの100号室でセックスピストルズのシド・ヴィシャスは
ガールフレンドのナンシーを刺殺した。
泊っていた部屋番号までは忘れたが、ヘンな夢ばっかりをずっと見たので
もしかしたら100号室だった可能性もちょっとある。

そこで確か USA TODAY なんかだったと思うが、ぼんやり眺めていて
(NEWYORK TIMES などは高尚すぎて私は読めないはずだから)
そこの広告覧の下に小さく Henry "Hank" Jones と出ていた。
JAZZ喫茶でのバイト時代からアナログレコードのクレジットなどで幾度となく
目にしてきた名前なので英語の活字の塊のなかから自然に目に飛び込んできたのだろう。
ライヴの日付を見ると今日だ。
午後9時からと書いてあるのであと2時間後だ・・・と思った。

変人ばかりを相手にしていてヘンになってしまったようなホテルのスタッフに
そのファット・チュースディ(太った火曜日?) という店の住所と行き方を聞いて、
開演の30分ほど前にたどり着いた。

客はハンク・ジョーンズほどの巨匠がピアノ・トリオで出演するのにも関わらず
たったの15人ほどだった。それでも開演時間になれば50人ほどは入るものと
思っていたら、演奏途中にカップルがひと組入ってきただけで、
最初から最後までお客さんは15人前後だったのだ。
これは驚きであって驚きではない。
JAZZのピアノトリオのライブ盤の名盤といわれる
ビル・エバンスの 『ワルツ・フォー・デビー』 にしても
ヴレッジヴァンガードのあの店 (そこにもこのNY滞在中に行った)
のなかで、レコードのなかの拍手の音から判断してお客は多くて30名程度だろう。

JAZZ喫茶のバイト時代、学生バイトの先輩が夏休みにニューヨークに行き、
「普通のレストランで食事をしていたら、BGMを弾きに楽譜をもって
ヨタヨタと歩いて来て演奏しはじめたのがトミー・フラナガンだった」
という話を聞いて
「んなアホな!なんぼなんでもそれはソックリさんでしょう!」
と言ったものだったが、実際にニューヨークに来て、あの時の先輩が言ったことは
ホラ話ではないと思ったものだった。

とにかく、15人のなかで東洋人は私一人だけ。
ウェイティング・バーのようになっているカウンターでビールを飲んでいると
スタッフが話し相手になってくれた。
続柄は忘れたが、ディジー・ガレスピーの親戚だというその人に
「あんたはアーティストか?」 と尋ねられ、
変人アーティストのたまり場となっていたチェルシーホテルに
チェックインしたばかりだった勢いで 「YES」 と答えると、
「名前は?」 と尋ねられた。
私の名前は 音でいうと 「かとう まひと」 という。(ブログ初公開か?)
それを向こうは勝手に 佐藤允彦 (さとう まさひこ ・JAZZピアニスト) と
勘違いしたのだった。

それからの15分間、私は疲れていてビール一杯だけで恐ろしく酔ったのかと思った。
あるいは、自分の英語を理解する能力が著しく低下してしまったのかと思った。
まったく話がかみ合わなかった。

「あなたが今まで共演したアーティストのなかで
いちばんインプレッシヴだったのは誰?」

なんて尋ねられて

「うーん、中西保志かなぁ・・・」 (まあホントといえばホントだ) 

「それは誰? シンガーか?」 

「そう、シンガーだよ 日本一のバラードシンガーさ」
(1990年当時は無名だったが、これは本音)

「今日はお客さんも少ないし、ギャラは出せないけれども
2曲ほどハンク・ジョーンズに代わって飛び入りで演奏する気はある?」

「わはははは、Are you kidding? いいジョークだね」 

などと噛み合わない話を勘違いしたまま延々と続けていたのだった。

ハンク・ジョーンズが登場。
せっかくなのでいちばん前の席に座り、バーボン(ジャック・ダニエル)にも
ハンク・ジョーンズのピアノにも酔いまくった。
レコード盤で20歳前後の時期に しあんくれーる の改造JBLのスピーカーから
聞きまくっていたハンク・ジョーンズの演奏が目の前にあったのだ。

15人ほどの客のいちばん前に座っていて何度も演奏中のハンク・ジョーンズと
目が合った。
20歳前後の時期、無意識のなかでもあきれるほどハンク・ジョーンズの演奏を
聞いていたのだなぁと自分でも思ったのは、アドリブで
「ハンク・ジョーンズならこうくるだろう」 という予感が数秒後に当たり続けた。
しかし、目が合った時に意表をつく展開をした時には、軽く驚くような私の顔を
楽しむようなハンク・ジョーンズの表情があった。
これはうぬぼれのようなものかもしれないが、そう感じた。

ライヴが終わり、ほとんどのお客さんはサッと帰っていった。
私はハンク・ジョーンズがまだ店内にいるのでとても帰る気になれなかった。

ありがたいことに、ライブを終えてウィスキーを飲んでくつろいでいたハンク・ジョーンズに
私のことを佐藤允彦だと勘違いしたままの店員が引き合わせてくれたのだ。

「わはははははは、彼は佐藤允彦ではないよ。」
と、ハンク・ジョーンズは私と店員との勘違いを心から喜んでくれた。
それからしばらくの間、演奏を終えたハンク・ジョーンズは、その時すでに
70歳を過ぎたご高齢であったのに夜中から真夜中になるまで
私と会話してくれたのだ。

ハンク・ジョーンズの声はいい声だと思った。
たとえばルイ・アームストロング(サッチモ)の声と、彼の吹くトランペットは似ている。
ピアノという、息遣いは直接反映しない楽器でありながら、ハンク・ジョーンズの声と
ピアノの音は、周波数など関係なく何だか似ていると思った。
いい声だった。そして、難しい言葉は言わなかったのに、何だか
誠実で優しい大学教授と語り合っているような雰囲気だった。

「あなたの音がなければ、私はもしかしたら自殺していたような気がするんです」
などということを酔った勢いで言ったような気がする。
そんな酔っぱらいの私を潤んだ目で見つめてくれていた気がする。

ここまで読んだ人はさらにあきれると思うのだが、
その場を去りがたかった私は
「あなたと握手してお別れする前に、あなたが弾いたばかりのピアノに
タッチしていっていいですか?」 とリクエストした。
本当に思いだして恥ずかしくなる酔った勢いだ。

「どうぞ」

と言われ、スタインウェイのグランドピアノで
左手はボサノバコード(ボサノバのリズムは刻めないので一小節コード固定)で
右手でバラードのようなものを弾いた。

ハンク・ジョーンズは背中から拍手をくれて
「いい曲だねぇ、でも僕ならこう弾くね」
と、同じコード進行で実に美しいバラードを弾いてくれたのだ。

そのハンク・ジョーンズの演奏を聞いたのはわずか5名ほど。
メロディを覚えているのは私だけだろう。

それから20年、私は鍵盤楽器にさわるたびに、
そのメロディの再現を試みてきたのだ。
ちょっとずつ近づけてきているような気がする。
もちろん、真似をしたって足元以下にも及ばないが、
私なりに近づいた20年なのだ。

ハンク・ジョーンズとがっちりと握手をしてお別れをした。

店員が 

「本当にノーギャラで飛び入り演奏してくれたね、佐藤允彦はあんたのようには弾けないよ」

と、去り際の私に声をかけてくれた。

「わははは、ナイス・ジョーク!」

今度は話が噛み合った。

 
 マーヒー加藤


※ ハンク・ジョーンズが亡くなった前の日
  (時差もあるから亡くなった時に近いな)
  ロングヘアの美女が寺の本堂のピアノを調律してくれたことが
  偶然なのですが、偶然と思いたくありません。 
 
  私のハンク・ジョーンズ四十九日法要として、そのメロディの再演を試みたいと思います。
  動画を掲載できるかどうか(7月上旬) は、演奏の出来次第です。
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by kaneniwa | 2010-05-20 02:53 | 草評


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