草仏教ブログ

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2011年 11月 30日

草仏教掲示板(36) 願いのない私なのに願われて生きている

b0061413_22265091.jpg 現在掲示している言葉であり、もとになったのは 藤元正樹師の「己れに願いがなくとも如来の願いを受けた身だ」という一文である。故・藤元正樹師の言葉どおりにしなかったのは掲示板の前を高校生がよく通りかかるということも少し関係がある。「如来」という言葉はとてつもなく広く、深いものをあらわす言葉である。しかし文字通りの「道行く人」にとってはむしろ「如来」という言葉で「あっ、(私には関係のない)仏教の言葉か」と逆に広い言葉を矮小化して素通りしていくこともあると思うのだ。許してください藤元先生。 この言葉の伏線には1年ほど前に小学校の卒業文集に「自分の夢、自分の願いを書け」という命題を与えられ、娘が娘なりに悩んだということがある。 小学校の卒業文集なのだから、これはひとつの比喩として「寿司が大好きだから寿司屋になりたい」というようなものでいいと思う。それでいいのだが、私の娘はマセているというか妙に現実的なところがあり「寿司を食べることが好きなら自分なりの稼ぎの道を確立して寿司屋に通えるようになるべきで、その道は自分にあるのか?」と考え込むタイプなのである。ただ、「自分は何者になるべきか」という思索の根っこの部分にはエゴイズムもあるけれども「何者になったら自分の母親や父親は喜ぶのか」という模索めいたものも渦巻いていることだろうと思う。 その娘の中学校のクラスメートにとても勉強ができる男子がいる。お父さんは地元の福島県に残り、お母さんとともに今年の春から引っ越しをしてきた。テストの結果がいつも高得点なので娘は単純に「すごいよね」と声をかけたそうだ。彼は採点された高得点のテスト用紙をもちながら「これをもって帰れば、母親が喜んでくれるな」と言ったそうだ。そんな彼の(今住んでいる街も仲間も大好きだけれども)全国にいる以前の仲間とともに故郷に帰りたいという願いは、とてつもなく深い。

マーヒー加藤
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by kaneniwa | 2011-11-30 23:20 | 草仏教


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