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2012年 01月 14日

読書感想文 芥川龍之介の蜘蛛の糸の意図

b0061413_021441.jpg 『蜘蛛の糸』はもちろん芥川龍之介の作品である。やはり芥川龍之介はたいした人だ。なぜこれほどの作家が芥川賞を受賞していないのだろうか?と、とぼけたことも言っておいてさっそく本題に入りたい。「蜘蛛の糸」の「糸」がスートラ、サンスクリット語で sutra (सूत्र)、パーリ語でsutta、中国語での音写・翻訳で修多羅(しゅたら)を指しているということがなぜ解説されていないのだろうか?語ることは野暮なことなのだろうか?野暮だとしても久しぶりに草仏教ジャンルでのブログ記事を書きいておきたい。お経の「経」の文字がなぜ糸偏なのかといえば、そのまんま「糸」という意味であるからだ。もうちょっと正確には「たての糸」という意味である。『蜘蛛の糸』の糸は極楽という上の位置から地獄という下方向のベクトルで降ろされてきた糸であるから、まさに見事な「お経」の譬え話であるという他はない。なぜお経の原語が「本」ではなくて「糸」であるのか?私はそこには深い味わいがあると思う。その深い味わいを料理のレシピみたいに書いてしまうと(1)お釈迦様がインド各地で数々の説法をされました(2)でも、お釈迦様は自分で原稿用紙にペンで執筆したわけではなく、その言葉を聞いた仏弟子が南国の葉っぱに樹液でかろうじて記し、それがまさに言葉という言葉の語源にもなったとかならなかったとか(3)その言葉(葉っぱ)を一本の糸をたてに通すことによって、お経というもの、あるいは本というものの原型のできあがりです(4)人々は、言葉を大事にすることは当たり前として、お釈迦様の言葉を一本の糸で「つなぐ」というはたらきを非常に重視してそれを「スートラ」と呼びました(5)そのことを重視したマーヒー加藤は長男が生まれた時、「絵」という文字は「糸に会う」と読めるぞシャラポア(妻・日本人)!と、女の子には多いけれども男の子にはなかなか付くことがない「絵」の文字が入った名前を与えました(6)日本漢字検定協会の「今年の漢字」に昨年は初めて糸偏の漢字が選ばれました… というような味わいがあると思う。ちなみに現在だって「経」の文字が「たて糸」という原意を残している例は少なからずある。地球は仮想のたて糸とよこ糸に満ちている。経度と緯度を計ることをもって今の自分の立ち位置や目標の場所を知ることができる。併せて「ものごとの経緯」という場合もそうだ。「経済」という言葉だって確かに「経世済民」の略語ではあるが、学問として「経済学」などと言った場合は複雑に流通(これも元は仏教の言葉だと思う)する人々の動きと交わりにたて糸を通していくいとなみである。

b0061413_021197.jpg さて、まず『蜘蛛の糸』はカンダタ(犍陀多)という大悪人の救いを問題としている物語であると言える。カンダタにモデルがいるとすればアングリマーラ(央掘摩羅)ではなかろうか?原始仏典に登場する悪人である。自分が殺した人々の指を集めて首飾りとしていたというから、それがもしも事実だったら口をアングリとさせる他ない大悪人である。お釈迦様に出会ってその教えを聞いてから、その首飾りはどうしようもない重さをもった懺悔のアイテムとなった。とにかく小説世界のカンダタはこの世で行った唯一の善行が「蜘蛛を救った」ことしかないという。小説には詳しく書いていないが他は何をやっていたのだ?しかも蜘蛛を救済したといっても己が踏みつぶして殺そうとしたことを止めたというだけである。ただ「ふと沸き上がった仏心」によっての殺戮停止である。悪人の救済を重要なテーマのひとつとしている『歎異抄』の第一章にも「念仏もうさんとおもいたつたこころのおこるとき」という表現がある。「やったるでぃ!」というよりもやはり「ふと沸き上がる」というニュアンスである。 東京、京都、新潟、三条(これは京都の木屋町や河原町三条と新潟の三条市の両方)などで、冬の時期にギターなどを片手に演奏をしている路上ミュージシャンに出会った時に「ふと沸き上がる気持ち」で近くのコンビニで発熱カイロ(要するにホカロン)を買ってギターケースに投げ込むということをやっていた。ホカロンはコンビニでもひとつ45円ほどで売っているので50円玉を投げ込む人の方が気前がいいというようなものである。冬でもサーフィンをやっている人はかなりの腕前の人が多いのといっしょで、冬でも路上で演奏している人やグループはやっぱり「何かもってる」ことがひとつと、私は寒さには基本的に強いのだが耳と指先という体のパーツが寒さに極端に弱いせいもあって、冬でもギターを弾いている人にふと同情と尊敬が入り交じった気持ちがわき起こってしまう。真夏にあぽろんという新潟県の三条市のスタジオ付きの楽器店でギターを眺めていると長い髪の美し過ぎると言っても決して過言ではないずっと年下のセクシーなお姉ちゃんから「あのぉ、間違っていたらすみません、1年半ほど前に、このギターケースにホカロンを入れてくださいませんでしたか?本寺小路のアーケードでです」と声をかけられたことがある。「うーん、僕じゃないかもしれないよ」と言ったのだが「いえ、あなたです!ありがとうございます」と、深々と頭を下げられたことがある。美しき蜘蛛の化身であるかのようなこの姉ちゃんに投げ込んだ「ふとホカロン」は、シャラポアと出会う前だったら赤い糸になっていた可能性もあるなぁ…ないか。 さて相変わらず脱線ばかりであるが、蓮の花咲く極楽のお池のモニターから一部始終を見ていたのがお釈迦様であるという結末があって『蜘蛛の糸』がシャクソン系小説であるということが明らかになるのである。ポイントは大悪人さえ救う一本の細いたて糸(スートラ)を「わたしのものである」というのならまだしも「わたしだけのものである」という我をはった瞬間に極楽と地獄をかすかにつないでいたパイプはカットされるのであった。この部分も悪人の救いを問題にしている浄土系仏教のセオリーに実に忠実ではないかと私は感じるのである。 「地獄は一定すみかぞかし」(歎異抄第二章)と親鸞聖人はおっしゃったが、ふとわき起こった善行はギターケースにホカロンを投げ込むことぐらいで、あとはロクなことをしていない私は地獄に堕ちる可能性が大である。そんな私には地獄に一本のギターの弦が降りてくるかもしれない。できれば切れやすい1弦ではなくベースラインの6弦か5弦、せめて4弦あたりが降りてきて欲しい。『蜘蛛の糸』でのご教訓は知ってはいても、実際に当事者となり、下を見下ろせば無数の群衆がギターの弦にすがっている光景を目にすればカンダタと同じく私もまたギターの弦の所有権を主張する可能性が大である。その瞬間、ギターの弦は間抜けな音をたてて切れることであろうし、極楽のお釈迦様はそんな私の醜い姿を蓮の池モニターで何度かリプレイしつつ悲しく眺めるのであろう。


マーヒー加藤
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by kaneniwa | 2012-01-14 06:19 | 草仏教


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