2012年 01月 29日

ながら学問のすすめ

長女はまだ受験生というような頃合いではないものの中学生になっている。
私が中学生であった頃は、勉強といえば主にテスト期間中に
AMラジオの深夜放送を聴きながらの「ながら勉強」であった。

具体的にはニッポン放送の午前1時から3時までの
オールナイトニッポン第一部を聴いていることが多かった。
一番のお気に入りは火曜日(水曜早朝ともいえる)の
自切俳人(じきるはいど)であった。
この人の正体はフォークルセダーズの北山修であった。
北山修は精神科医、心理学者であり、現在はどうしているのか?
と調べると昨年の四月から
ICU(国際基督教大学)の教養学部の客員教授になっている。
1977年から1978年、私の中学生時代に
その深夜放送のエキセントリックな番組のDJを勤めていた。

また、私の中学生時代の水曜日(木曜早朝ともいえる)の
オールナイトニッポン第一部は、まだ密室芸時代の色が濃かった
タモリが担当しており、週の半ばは寝不足が続いた。



今、高校や大学や専門学校の入試シーズンのさなかであり、
正直いってそういう結果を出さねばならない試験勉強のためには
この「ながら勉強」というものはすすめることができない。
やはり、なるべく静かな環境で集中した方がいいと思う。

それでもトータルで考えて、私は「ながら勉強」のクセは
今では役にたっているのではないか?とふと思った。

というのは、
たとえば下宿をする大学生になって
いいマンションに住めるような環境が与えられているのならいいが、
家賃が安い長屋的なところに住んだ場合、
そしてそこの住人が通っている大学もまちまちである場合、
それぞれの試験期間だってまちまちであるから、
隣の部屋の住人がギターを練習する音や麻雀や宴会を楽しむ音なんかを
聴きながらテスト勉強をしたりレポートをまとめなければならない。

社会人になっても電話がひっきりなしに鳴り響くような
静かとは言えないオフィスでその時々にしなければならない付け焼き刃の勉強だったり
何かのとりまとめであったり、とにかくその騒がしい場所に資料や本を積み上げて
ひたすら読んだり書いたりしなければならなかった。

子どもができると、それも複数できると、
家庭にその仕事や勉強を持ち帰っても
これまたかなり騒がしい環境のなかで
それをしなければならない。


自動車でラジオを聴きながら運転をする、などということは
運転ができる人ならば誰でもやっていることだろうと思う。
野球中継をやっているとする。
野球場とはまったく違う空間(主に道)を走りながら、
目に見えるさまざまな情報を整理しつつ、安全に留意して
手でハンドル、足でブレーキとアクセルを操作しつつ
頭のなかでは今は何イニング目でアウトはいくつで
ピッチャーは誰が投げていてバッターは誰で
ボールカウントはいくつで、などという細かい情報を整理しつつ
運転をしている。

考えたら、そんな複雑なことをやっている。
AT車ではなくマニュアルミッションでやっている人も大勢いる。

それぞれに担当がいる大寺院ではないので、
鐘を打って読経をしながらパーカッション
(私の所属する宗派は木魚は使わないが、御木という拍子木スタイルの
 パーカッションを使う)
を打つということなどはけっこう日常的にしている。
これが、けっこうベテランでもできない人がいる。
努力が足りないだらしない人がそうなのか?といえばとんでもない。
むしろ声明(しょうみょう)に研鑽した実直な人ができない。
少なくとも私が知る限りはそうなのだ。
あんまり偏見じみたことを決めつけて書くと怒られるが、
野球ならMBLならアメリカンリーグ、日本のプロ野球ならパリーグの
野球を指示する人が多いような気がする。
ピッチャーは投げることに専念し、打つことはDHの打者に任せる。
私はピッチャーをやりつつ打って走りたいから
ナショナルリーグ、セリーグの方式が好きである。

的確なたとえではないかもしれないが、
ポッスプの世界でピアノやギターの弾き語りというものを
する人は大勢いるが、クラシックの声楽で自身がピアノを弾きながらの
弾き語りをする人というのをほとんど知らない。
音楽の先生などが見本を示すために自分で伴奏して歌う、ということはあっても
たとえばシューベルトの「魔王」なんていう歌曲を自分で伴奏して
オン・ステージで弾き語りをした人などまた見たことがない。
(見てみたい気はする)
ダニエル・バレンボイムというピアニストが
ピアノ協奏曲をピアノを弾きつつオーケストラを指揮していた光景は
見たことがある。
ただ、ピアノを弾きながらの指揮というよりも、
ピアノを弾いている最中はコンサートマスター(第一バイオリン)に
任せて、弾いていない最中だけ指揮をしている感じである。
手が四本以上あるわけでないからそうするしかない。

そういうことはあるけれども「ながら」に反対する人は真面目でありつつ、
さらに病院でいうならば総合病院の「専門性」を重んじるような厳格さを
気質としてもっていらっしゃる方が多いように思う。
そんな専門性を尊重したい気持ちも私のなかにあるのだが、
一方で震災などの非常時には何科だとかさえいっていられない状況で
複数の患者さん(もちろん限度はあるが)を診る医師、
または離島などに赴任されて多くの種類の疾患の治療に当たるような
お医者さんもすごいと思う。
日本の医療は総合医療を基本理念とするので、
確か医師の国家資格を得れば麻酔科以外の何科の看板でも
出していいことになっていたはずだ。

調理にもたとえることができる。
大ホテルの厨房、大きな老舗料亭ならば
それぞれに椀方、煮方、焼方など専門性の強い調理人が居て
それを花板が取り仕切っているようなシステムではなく、
こっちはスパゲッティを茹でながらサラダを作り、肉を焼き、
パスタソースを火にかけつつスープを暖めるなんてことは
まさに日常茶飯事である。


かつて、日本全国の小学校には二宮尊徳の銅像があった。
(この銅像を焼き覚えているのは私の同年代から上に違いない)
薪木を背負いつつ歩き本を読んでいる姿であった。
ながら勉強の権化というかアイドル(偶像)である。
スマートフォンを見ながら歩くぐらい危ない。
小さなお子さんは(やっぱ大人も)真似をしちゃいけない。
でも、あまりに厳格な専門性に凝り固まっている人ほど
ながら勉強というものをやってみたらおもしろいのではないかとは思う。
もっとも、私のような人間は集中して勉強をしてみた方がいいとも
少しは思っているのだが。

マーヒー加藤
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by kaneniwa | 2012-01-29 23:31 | 草評


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