2012年 05月 01日

AWAY比叡山延暦寺(1)

b0061413_17395765.jpg 僧侶のカッコはせず、一般観光客として、ポケットに念珠だけを入れて拝観した。
浄土真宗の僧侶である私が比叡山延暦寺を尋ねるということには一種のAWAY感覚があった。
それは、ただ単に「他宗派だから」ということではない。
また、天台宗や延暦寺に敵意をもっているわけではない。
ただ、私の自意識過剰といえばそれまでだが、
「浄土真宗の僧侶は延暦寺では敵意をもたれて当然」ぐらいのAWAY感覚を想定していた。
浄土真宗の開祖、親鸞はこの比叡山を29歳の時に意図的に去ったのである。





比叡山延暦寺は国宝である根本中堂をはじめ重要文化財、指定文化財の宝庫であり、
それだけでも見る価値は十分にある。
ただ、比叡山を去った法然、親鸞の比叡山での位置づけが
「比叡山が輩出した名僧」
として、どうも賞賛されていることで持っていたAWAY感覚が吹っ飛んでしまった。
AWAY感覚が吹っ飛んだ代わりに、どうも悶々とした違和感が残った。

伝教大師最澄がこの比叡山延暦寺を創始した時代の社会的な位置づけを
現代の感覚のなかで私は喩えてみたい。
ズバリ「国立の上智大学」である。
「全寮制」「男子校」という大きな特徴があった。
現在は仏教が異国から来た教えであるということが意識されにくいが、事実としてそうである。
みうらじゅんの表現を借りれば「ミッション系ではなくシャクソン系」というだけだ。
仏教精神をもって国を治めたいと願った聖徳太子以来の伝統から、当時の国がそれを
強力にサポートした。だから国立大学だ。
やっぱり上智大学はやめて「国立・立教大学」という名称にしよう。
国家プロジェクトとして、仏教という教を擁立し確立するための学場であるから、
この「国立・立教大学」という名称がいちばんスッキリする。
東京の池袋でなく、比叡山という山の全域をキャンパスとした男子大学で全寮制だ。
「国立・立教大学」は427年に創設されたナーランダ大学よりは新しいが、
1209年創設のケンブリッジ大学より古い歴史を持つ大学だ。
ケンブリッジ大学と似ているのは、ケンブリッジ大学というのは
31校のカレッジ(単科大学)の総称であり、同じく比叡山延暦寺というものは
比叡山全域にある複数の学場の総称である。

よく「修行」というとフィジカル面の修行ばかりがクローズアップされ、
確かにそれも質実剛健な形で存在していたが、中心となるのは「学問」である。

「国立・立教大学」のなかでの法然の位置づけを譬えてみよう。
法然は13歳〜15歳で「国立・立教大学」に入学した。
岡山の裁判官の息子で頭脳明晰であることは当初から知られていたが
3年後には法然を担当していた源光さんという指導教授に
「君はスゴすぎて、もう私が教えることは何もないよ」
と言わせている。
法然は「国立・立教大学」で43歳の教授ぐらいだった頃に
中国の善導大師の著作に出会い
「私が求めていたのはこれだった!」
ということになって町の方に出て拠点も設け、老若男女すべての人々を
教化の対象とした鎌倉仏教のニューウェーブを起こし、
ブーマーとなり、スーパースターとなった。

「国立・立教大学」のなかでの親鸞の位置づけを譬えてみよう。
9歳で入学している。同じ比叡山キャンパスのなかの付属校か?
29歳で比叡山を去っていくことになるのだが、ひとつ重要なことが
「20歳代後半になるまで法然という人の存在を知らなかったはずはない」
ということだと思う。
法然という人の存在はとっくに知っていた。
いちばん会いたい人になかなか会いにいけない20歳代後半の親鸞が居た。
会ったら、積み重ねてきたものをすべてリセットすることになる予感が
すでに充分にあり、そこで悶々としていたのだろうと推測する。
比叡山を降りて、すぐに法然のもとに行けばいいようなものなのに、
百日間、京都市中京区の六角堂(聖徳太子ゆかりのお堂)に参籠する。
それも、ホテルモントレーのような六角堂まで徒歩5分という場所から
参籠していたのではない。
どうも比叡山から徒歩で参籠する日帰りを毎日繰り返していたという説が
現在では有力である。
わらじではなく最新のハイテクトレッキングシューズながら、
次の機会に比叡山延暦寺から徒歩で京都市中京区を目指し、
六角堂から比叡山に帰るという「親鸞トレイル」をやってみたいと思う。
まさに「親鸞の足跡を探訪する旅」ということになる。

マーヒー加藤
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by kaneniwa | 2012-05-01 17:42 | 草評


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