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2012年 11月 29日

追悼記事(27) 藤本義一氏

藤本義一氏が亡くなられて1ヶ月近くが経過してから、
だんだんと寂しくなってきたぞ。

数日前に「有吉ジャポン 」という深夜番組で写真以外の壇蜜(だんみつ)を初めて見た。
深夜番組とはいえテレビには出てこない人だと勝手に思っていた。
テレビに出てきた壇蜜を見たら、何だか懐かしい気がしてきた。
しいてその懐かしさをたどれば30年前のかたせ梨乃だろうか?
懐かしさと同時に新鮮さのようなものも感じたのは、
あまりにもマスコミがもてはやす女性像が少女系アイドルと
スポンサー受けが良い健全系に満ち満ちていたからかもしれない。
テレビという極めて日常的な家庭用電気製品から久々にフェロモンが出た。

もしも20年以上前だったら大橋巨泉司会の日本テレビか、
藤本義一司会の読売テレビか、壇蜜はコメントもできるカバーガールとして
まず間違いなく起用されていたように思える。

「11PM」という深夜番組は、大学生になってからは
毛布をかぶってこっそりと見なくてもよくなったのだが、
21歳の時に捨ててあった白黒テレビを拾ってくるまでは
テレビなしの生活をしていたため、
友人の家や下宿やアパートで麻雀をやりながら観ていたことが多かった。
それがかなりの頻度であったので「11PM」は
新聞報道的なニュースが終わり、スポーツ新聞的なニュースが終わった後の
週刊誌的な時間であった。
そこには今で言う「袋とじ」的なコーナーもあったが、
今、思わず四人の男が麻雀を打つ手を休めつつ画面に見入ったことを
思え返せば、それは必ずしも「袋とじ」の時間帯だけに限らなかった。
かなり硬軟取り混ぜ緩急つけつつ世の中の空気感をレポートしていた。
そして、東京の大橋巨泉の強い仕切りとはまた違った
柔らかい語り口のなかで毒舌を流し込む藤本義一の仕切りは見事だった。

実は、19歳の時に藤本義一が司会をしている読売テレビの「11PM」に出たことがある。
なんせ藤本義一は1965(昭和40)年から「11PM」の司会を努めていた。
そこに自分の姿とコメントについて藤本義一が語るということに不思議な気持ちだった。

とはいってもスタジオ出演ではなく、京都にかつてあったカントリー&ウエスタンの
ライブハウスの客で居た時にカントリーミュージックの魅力とは何かを
インタビューされたのだ。
「酒がなくても酔える!」
というようなことを言ったが、わははは、当時のメインスポンサーはサントリーだったが
よく電波にのったものだったなぁ。

ただ、スポンサーとの兼ね合いについて言うならば、
もっとスケールが大きなことがあった。
昔からずっと一貫して原子力発電所の危険性を訴えていた広瀬隆氏がゲストで、
生放送のCM中に「何か」があったのだろう。
「しゃべってもらうのを聞いてもらうだけなんやからええやないか!」
という、藤本義一の大きな怒声から生放送が再開されたことがある。
民放の番組のほとんどが広告代理店がスポンサーを見つけてこなければ
番組の制作費が出ないという仕組みになっているのだが、
「電通の電の字は電力会社の電ではないか?」
という感触を、この頃から、この藤本義一の怒声の勢いから感じた。

作家としての藤本義一は数本のエッセイが心に残っているのみだが、
それは父親に関するものであったように思う。
大阪大空襲で家を焼かれた45歳の父親は、
うつ病と肺病と拒食症を併発して閉鎖病棟に入院した。
「戦前はガチガチの固体のように生き、戦後は気体のように生きていた父を見て、
 男は液体のように生きていかねばならないと思った」

という言葉、そしてその父親が自分に言ってくれたという
「お前に渡す地位、名誉、財産をすべて失った。だからお前は失うものがなにもない」
という二つの言葉が印象に残っている。

マーヒー加藤
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by kaneniwa | 2012-11-29 00:02 | 草評


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