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2012年 12月 30日

コッヘル194番 鯛茶漬け

b0061413_23133091.jpg 刑事コロンボのDVDボックスを持っているのであるが、1970年代のロサンゼルスはエキストラはもちろんのこと背景に映っている人々も実にスマートであるという気がする。対して、最近のメジャーリーグ中継のスタジアムの観客席はいかにも狭そうに映る。いろんな人がいる日本でも評論的に「日本人は…」などと言われると腹も立ったり首を傾げたりしたくなるのに多民族国家の典型でもありマルチカルチャライズであり日本の数倍の人口を抱えるアメリカを一絡げに「アメリカ人は…」などと一刀両断にしては申し訳ないのだが、それでも「アメリカ人は餓鬼道に堕ちている」と断言してみたい気持ちを禁じ得なくなる時がある。「豪快さ」というべきものがネイティブ・アメリカンからの伝統も含めてアメリカ文化の魅力であることは承知しつつ、子供用の洗面器ぐらいの大きさのカップでアイスクリームを食べまくっていたり、L寸のピザを各自が一枚づつ食べている光景などを目にすると、何だか餓鬼道であるという気がする。エキスキューズではなく、パーティなどで「たまにドッサリとガッツリ食べる」なんていうことにはほとんど問題がないような気がする。餓鬼道とは、メンタル面で食欲に限定してみれば「自分が何が食べたいのかがわからないままに、食べても食べても満足しない状態」と一応は定義することができると思う。偉そうなことは言えない。また、アメリカ人をバカにはできない。私もまた、餓鬼道に堕ちていた時期が確かにあったのだと思う。

b0061413_23134424.jpg (写真は出し汁と粉茶を注ぐ直前で、ハッキリ言ってこのままも美味しい!)その餓鬼道から抜け出す手段として「禁欲」や「節制」というものが思い浮かぶが、これまた私をはじめとして向かない人が多いように思う。満足できない心を自分の意思でコントロールしようとすればするほど、満足できない身を抱え心を抱えている事実がある以上、その反動というものがまさに心身ともにリバンドとなってやってくる。ストレートでは餓鬼道に打ち勝てないとして、変化球という手があると思う。この場合の変化球とは「コッヘル一杯で何だか満足しちゃうような食事をとってみる」という作戦である。私の場合、たとえばそれは「鯛茶漬け」であった。食べきれないほどのデカイ鯛をいただいたという贅沢がまずあった。食べきれない分を醤油漬けとしておき、翌日、出し汁をかけて薄めの粉茶(寿司屋さん仕様)を注ぐ。一応、一連の調理をしたのは自分であるが漫画の『美味しんぼ』の京極さん風に言うならば「か、海原はん、あんた、なんちゅうもんをワシに喰わせてくれたんや!」と言いたくなるような充実感。 新潟県柏崎市の「鯛茶漬け」は今年の1月に東京ドームで行われた「全国ご当地どんぶり選手権」において準グランプリに輝いた。(ちなみにグランプリは北海道・利尻島の丸善食堂によるうにめし丼)私はいわば関西から新潟県への移民であるので感じることであるが、私の年代から上の人は新潟のお米への思い入れと敬意が強すぎるために(でも、そのおかげでコンビニのお弁当でもおにぎりでも他の地方よりレベルが高い)お茶漬けというものを軽視してきた風土があったように思う。しかし、米の名産地であると同時に鯛の産地でもある新潟県がどうやらとうとう「鯛茶漬け」の魅力に目覚めてしまったような気がする。


マーヒー加藤

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by kaneniwa | 2012-12-30 23:49 | 草外道


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