2013年 03月 11日

新自由主義の欠陥が私のなかではこういう形で明白になった

今日はあの東日本大震災から丸二年が経過した日。
仏事としては東日本大震災が起こった日に亡くなられた方々の三回忌だ。
そんな日のブログ記事にふさわしいものではないとは思いつつ、
今思っていることを書き綴りたい。

世界の災害史のようなものに目を向けた時に
そりゃ記録にも残っていないような太古の世界はわからないけれども、
驚くほど日本という国は大規模な自然災害を経験してきている。
東京、神戸といった都市も大震災を経験し
気候が温暖で一見住みやすそうなところは台風の通り道だ。
「助け合い」という言葉だって、あまりにもお手軽に使われ過ぎることも
あるだろうけれども日本の助け合いには年季が入っている。
助け合いに歴史がある。
助け合わなかったら生き残ってこれなかった経緯がある。

いい話になりそうになったところで「金の話かよ!」「経済のことかよ?」と言われそうだが、
TPP交渉において「車」と「コメを中心とした農作物」が報道の焦点になっているが
(車が除外されたとすれば、カーナビやオーディオなど関連商品を含めて日本は何を売る?)
注目すべきは「保険」がどうなるかということである。
コメに関して、それが何万石という事実上の通貨であった歴史や
稲作や主食としての文化面で語られることと同様に、
この災害の多い国において「共済」というものもあるように
共に支えあって助け合ってきた伝統や文化としても、
保険には単なるシステムや金融商品では終わらない何かを託してきたのではないか。

さて、新自由主義( New Liberalism)といっても定義は難しいけれども
市場原理をもとに多くの個人の利益を追求していく思想であると、
まずは簡単に定義しちゃいましょう。簡単過ぎるかな?

採算を取ることが困難なものや
競争力がないものについてはダメの烙印をおされて
「はい、努力してくださいね、そして努力してもダメなら整理してくださいね」
と言われちゃう。
いろんなジャンルのいろんなものに
採算性だけでダメの烙印を押しては可哀想ではないか?と思っても
新自由主義の論客には弁が立つ人材も多く
「もっと競争力を高められるように努力をしてもらわないといけない」
という主義主張を要所では具体的なデータや数字なんかもあげられて語られる。
多くの個人の利益を追求することだから朗々と語られちゃう。

私も新自由主義への反論は語りにくかった。
というよりも、語りたくてもあまりにも自分のなかで漠然としていたのだ。
新自由主義は時には霞ヶ関など国の体制にも踏み込む。
そして多くの個人の利益を追求する。
「努力して競争力を高めることのどこがいけないの?」
と言われると、その「どこがいけないのか」について踏み込んでいくには
自分の思考がぼんやりとし過ぎていた。
漠然とコスト重視(長い目で見ればコスト軽視と言える場合もたくさんある)の
弊害や競争による疲弊、その結果の格差の拡大などをあげて漠然と
「とにかくいけないさ」
と言うにとどまっていた。

ナチ党が共産主義を攻撃したとき、私は自分が多少不安だったが、
共産主義者でなかったから何もしなかった。
ついでナチ党は社会主義者を攻撃した。
私は前よりも不安だったが、社会主義者ではなかったから何もしなかった。
ついで学校が、新聞が、ユダヤ人等々が攻撃された。
私はずっと不安だったが、まだ何もしなかった。
ナチ党はついに教会を攻撃した。私は牧師だったから行動した―
しかし、それは遅すぎた。

マルティン・ニーメラー(牧師・神学者)の言葉


新自由主義をナチスといっしょにしてしまったら
さすがに新自由主義の論客も怒ると思う。
怒らせることを目的の引用ではなく、
「自分に関係のないことであるとどこかで思っていて何もしなかった」
ことを言いたいのだ。

「多くの人々の利益」と言われたら、なかなか反論できない。
反論ができないままに洗脳さえされてしまって、
妙に効率的に行動することに拘りを深めたり、コスト計算にやっきになった。
「お得だ、お得だ」と言われたもので救われたり、商品で愛着ある宝物を得た
ためしがなかったくせに。
そして新自由主義のずっと以前からではあるけれども、
原子力発電所などは都市部に住む多くの人の利益のために
地方の過疎地がターゲットとなり建設されたのだ。
そして東日本大震災の天災の部分だけを取り上げても衝撃的なものばかりであるが、
原子力災害という人災において、
福島県飯舘村という電力会社から一円ももらっていないどころか
早くから太陽光発電などの自然エネルギー利用について意欲的であった村の大部分が
帰還困難区域となってしまった。
(事故直後から米軍関係者などアメリカ人に80キロ圏内をもって立ち入り禁止とした
 アメリカ合衆国は過去の核実験から憎らしいほど正確なデータを持っていたと
 今でも悔しくなることがある)

新自由主義の蔓延に無関心であったら大変なことになると、最初に思ったのが
「NHKのFM放送」
であった。

日本航空(JAL)に比べても何と経済規模の小さい問題を引き合いに出すのか?
と言われそうだが、実際にそうだった。

2006年の日本の総務大臣は竹中平蔵であった。
総務省は地方行財政や郵便事業も管轄であり、郵政民営化担当大臣を兼務の上で
総務大臣であることはおかしなことではなかった。
そして総務大臣は電波事業、つまりは公共・民放放送を担当する行政のトップである。
その竹中大臣(当時)の私的諮問機関である
「通信・放送の在り方に関する懇談会」が2006年の6月6日に、
「NHKのFM放送は廃止すべきである」
(数年前まで総務省のホームページでその報告は閲覧できていた)
という報告書をまとめたのであった。

これで目が覚めた。
確かに民放でのFMラジオ局がいくつも立ち上がり、
2006年の頃であればインターネットラジオというものもできていた。
NHKのFM放送は聴取率で言えば0,1%以下で計測不能の*が印された
業界用語で こめじるし【米印】 と言われる番組がとても多い。
当然、もしもこれが民放FM局であるならば、スポンサーが簡単につかない番組だらけだ。
聴取率をみればとても悪いNHKーFMは新自由主義の見解では
「不要で無駄なもの」だった。
速やかに切り捨てるべきものであった。
ただ、その主義主張をする側の問題点は
能楽、純邦楽、民謡、バロック音楽やメジャーではないクラシック音楽、オシャレではないJAZZ、
カントリー&ウエスタン、弾き語りのフォーク、合唱コンクール、ブラスバンドなどなど、
その分野に情熱を傾けていたりその分野の音楽を聴くことを
生きがいとする人々の姿が見えないことだった。
そして「少数だから、マニアックだから」と安易に切り捨てていく思想であった。
その思考がまったく文化的でないことも明白である。

特に地方において生活に密着していた鉄道、路線バスなども
「赤字であるから」と簡単に切り捨ててきた思考もこれに似ている。
毛細血管が詰まった体は、やがてその心臓部に致命的なしっぺ返しがある。

マーヒー加藤
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by kaneniwa | 2013-03-11 03:03 | 草評


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