2013年 04月 16日

追悼記事(28) 三國連太郎

今日は朝から、まずは嫌なニュースがあった。
ボストン・マラソンのゴール地点での爆破テロ。
このような無差別殺人はもともと許されない卑劣ないもので、
どんな時間帯であろうとあってはならいが、スタートから5時間目という
制限時間6時間のレースにおいて多くの市民ランナーがゴールを
迎える時間帯を狙ったことに一層の怒りを覚える。

昨日、三國連太郎さんが亡くなった。
この草仏教ブログには
滋賀県のドライブインで食事をしていた最中に、
私の娘が三國さんが書いた色紙を見つけたという記事
で間接的に登場されている。
今、読みなおしても、400字詰め原稿用紙で2枚に収まる親鸞聖人の総序
の文のなかで三國連太郎さん以外の誰がこの箇所のみを抜書きするだろうか、と感じる。

実は、それまでにもご生前にいくつか接点があった。
『歎異抄』の朗読をされていた(カセットテープ時代は市販されていました)
ものに接したのが最初の接点であったが、
私の学生時代に親鸞聖人を描いた映画である『白い道』の監督・脚本をされることになり、
その取材(ロケハンも兼ねていたのかもしれない)の一環で私が今居る寺に滞在し、
「せっかくなのだから本堂でお話をしてもらおう」
ということになり、200人が本堂のなかにギューギュー詰めになったのが、
寺院の本堂の最多収容人数記録であり、それはまだ更新されていない。

学生時代の京都の下宿先に父親から電話があって
「三國連太郎さんが来ているけれども、お前も会いに来るか?」
と言われたが
「今、忙しい」
と断っていた。佐藤浩市のような口調で言ったのかもなぁ。
ところが、それから一ヶ月以内ほどの時期に、
京都の東本願寺の枳殻邸(渉成園)というところに、
これは実際のロケだったのかロケハンだったのか、
三國連太郎さんご本人が来ていたのであった。
この時は「どうも!」という挨拶すらせず、ただ単にすれ違っただけだった。
まあ「見かけた」という程度のご縁であるが、
三國連太郎という人の存在とご縁は意識せざるを得なくなった。

それから10年ほど経って、東京の練馬区の東本願寺真宗会館というところで
三國連太郎さんの公開講演会があり、私もその運営スタッフの一人であった。
時間ギリギリまで三國さんは登場されず(ご自宅は近くではあった)、
ヤキモキしているとタクシーではなくて自家用車で会館の正面玄関に乗り付けられた。
「いやぁギリギリになっちゃったねぇ」
と言いつつ会場に入っていかれたが、その自家用車というのが
レンジローバー。
イギリス製の四駆に乗られているということは大物俳優でもあり
別に驚くことも何もないのだが、
アメリカ向け輸出仕様かなんかをわざわざ手に入れたのか、
イギリス車なのに左ハンドル。
やっぱりちょっと変わった人だ。
その車を正面玄関から30メートルだけ移動させた。
この時以外にレンジローバーという車のハンドルを握った経験はないから、
本来は比較することができないのだが
「強烈な乗りグセ」
のようなものをわずか30メートルの間に感じて、
その乗りグセのようなものが、私が体で感じた三國連太郎という人。

さて、少しはちゃんとした追悼記事を書こう。
1972年から構想と撮影を開始して、つい最近までその完成に執念を燃やされていたが、
(ビザの発行が遅れて搭乗予定だった日航機がニューデリー近郊で墜落したという事件もあった)
『岸のない河』という作品は残念ながらご生前に完成することはなかったので、
今のところ『親鸞 白い道』という映画だけが
監督・三國連太郎としての唯一の作品ということになる。

この作品、試写を見て(その時も三國連太郎さんとスレ違い気味に接した)、
私自身としても難解な映画のように思え、実際に試写も不評(少なくとも私の周囲は…)で、
興行成績に至ってはさびしいものであったが、カンヌ映画祭で審査員特別賞を授与されている。
この事実に
「親鸞という人についての私の先入観が、勝手に難解なものとして眼に写しているのでは?」
と自問することがある。
ミシェランの外国人審査員のような目で日本料理を食べてみる、なんてこととは別次元で、
親鸞聖人への先入観を捨てて『親鸞 白い道』を見るべきなんだろうなぁと感じる。

三國さんが親鸞という人をどのように見ておられたのか?
そんなことは簡単には言えないけれども、
私にとっては実際に三國さんが道を歩んだ道具であるレンジローバーの独特の乗り味と、
滋賀県の長浜市のドライブインの色紙の独特の言葉の選びがヒントになる。

マーヒー加藤
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by kaneniwa | 2013-04-16 11:08 | 草評


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