2013年 05月 21日

名曲草鑑賞(37) バッハのブランデンブルグ協奏曲

b0061413_22234938.jpg 先日、お葬式のお迎えに来た車のなかでバッハのブランデンブルグ協奏曲(Bach: Brandenburg Concerto)を聞いた。ブランデンブルグ協奏曲は1番から6番まであるけれども、何番かはよくわからないのでたぶん2番か3番だったと思うのだが(今日、ブランデンブルグ協奏曲を1番から6番まで90分間通して聴いて3番の第一楽章だと確信した)、それが車のなかで流れていた。クラシック音楽の特にバロック音楽にはあまり詳しくない私でもバッハのブランデンブルグ協奏曲は何となく「ノリ」で分かるのだ。それはCDやハードディスクに収録されたものではなくNHKのFM放送であったのだが、お迎えに来られた方はクラシック音楽が大好きな方だったようで「これはブランデンブルグ協奏曲でしょうか?」と問いかけると「よくご存知ですねぇ、その通りですよ!」と嬉しそうにハンドルを握りながらうなづいた。その時に「何と車のなかで聴く音楽として相応しいのだろうか!」と感じた。バッハの時代は日本で言えば江戸時代中期のあたりであり、乗り物はせいぜい馬車ぐらいしかなかったと思うのだが、何となく「疾走する感じ」があったり「ミズスマシが滑らかに水面を進む感じ」があったりする。もっともこれは私の主観で、誰もがそう思うわけではないとは思うが、実際にブランデンブルグ協奏曲の5番の第一楽章の主題は、スズキのラパンだったと思うが自動車のCMにも使われたことがあった。とにかく、その「疾走する感じ」が、私が「あっ、ブランデンブルグ協奏曲だ!」とわかる「ノリ」とか「グルーヴ感」なのである。 というわけで、最初は「30Gバイトも容量があれば一生大丈夫だろう」と思っていたカーオーディオのハードディスクもけっこういろんな音源で一杯になっていたわけであるが、たとえばベートーベンの第九交響曲、しかもフルトベングラーが指揮をしているような重厚なものは「CDもあるし、だいたい車のなかで聴くというものではないな」と消去した。チャイコフスキーのバイオリン協奏曲なんかは好きな曲であり、スキー場に向う車のなかで流した時などは窓の外の雪の風景ともマッチしてなかなか良かったのであるが、息子から「スキーに行く時にはもうちょっと軽い音楽を流して欲しい」と、小学生ながらなかなか真っ当と思う意見を言われていたので「これも車のなかで聴くものではないなぁ」と消去する。そうした作業のようなものをしてみると、いよいよ「クラシック音楽のジャンルのなかで車のなかで聴くのにブランデンブルグ協奏曲ほど相応しいものはないなぁ」という実感がある。主観であるものの、この実感は何だろう?と問うてみると…車という様々な部品が咬み合ってはじめてスムーズに走り出せるもののなかに居て、それをハンドル、アクセル、ブレーキなどを操作する感覚とこの協奏曲の構造がマッチするからだろう…という結論になった。イタリアのイ・ムジチ(I Musici)合奏団の演奏で、第3番の第2楽章のアダージョがわずか16秒しかないのだなぁ…。このイ・ムジチの演奏を聞き直して改めて驚くのは第5番の第一楽章の終盤。この部分はイ・ムジチ以外の盤を聴いてあまりに演奏が違ったのでカデンツァというのか「ここは即興演奏だよ」という指示がそもそも楽譜にあるのではないかと思うのだが、それにしてもイ・ムジチと組んだMaria Teresa Garattiという人の (1965年の録音)のハプシコード(チェンバロ)のソロが凄い!時代からすれば逆だが、キース・エマーソンのようなロックっぽさとJAZZのピアニストが即興で高揚した感じの激しさで、ピアノの原型である楽器にこのような力強さが秘められていたことに驚嘆する。そのソロの即興性が激しさを増しつつ徐々に混沌の世界に入って行き「おいおい、何処まで行ってしまうのかい?」と思ったまさにその瞬間に統制のとれたイ・ムジチの合奏が主題を奏でてこの世に引き戻してくれるのだから、もうたまらないっす。

マーヒー加藤
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by kaneniwa | 2013-05-21 23:40 | 草評


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