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2013年 06月 08日

コッヘル211番 温度差冷やしトマト

b0061413_1657533.jpg トマトの皮を剥くなんて面倒だしそのまんまかぶりつくのがいいのだ、などと思っていたのはちょっと前までの話であった。まずは「熱したトマトの美味しさ」というものに目覚めてしまった。代表はコッヘル111番のスケスケ(プチトマトのベーコン巻きの串焼き)であるだろうか。熱することでトマト自体の旨味が沸きでてくるような魅力がある。今やネッスル(熱する)がないトマトなんて…とさえ言いたくなるぐらいだ。ただし「冷やしトマト」という定番メニューがあり、これはもちろん熱いままでは冷やしトマトではない。そこで、熱湯のなかに軽く潜らすか、もしくは皮を剥くだけのために熱湯をかけた感じのトマトをすぐに氷で冷やすようなやり方が定着した。「温度差」という言葉は、通常はいい意味には使われない。特に人間関係をあらわす時の「温度差」とは「解消すべき」というニュアンスをそのセンテンスのなかで含まれながら使われることが多い。でも、この場合の「温度差」はたとえば熱々のサウナを「ああ、もうダメだ」と出て水風呂に入った時の爽快感を指したい。もしもトマトの立場にたてばたまったもんじゃないかもしれないが、熱したトマトが美味しいのは「ありゃ!えらい熱いぞ!」とその細胞から全体までが極限まで生命力を絞り出すからであり、冷やしても美味しいのは「ありゃ!えらい寒いぞ!」と生命力を出してくるからであると思う。詳しいことを理論的に説明する能力はないけれども、これは包丁でスパっと切った野菜よりも手でちぎった野菜が美味しかったり、あるいは真冬に積もった雪のなかに白菜や大根を埋めておくと非常に甘味と旨味が出てくることもそういうこと(生命力の表出)ではないかと思う。トマトにとっては、熱湯のなかで「アチチチ」となった後に急速に冷たくされて気を失いかけるなかで出してくれる生命力であるが、その温度差をもエネルギーとしていただく。ちなみに大きなステンレス製のボール(氷が溶けにくくていい)をコッヘルに見立てての撮影であったが、アップ画像となった。

マーヒー加藤

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by kaneniwa | 2013-06-08 17:35 | 草外道


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