2013年 08月 24日

追悼記事(29) 藤圭子さん

まず、藤圭子さんの転落死についての諸報道が
国連の専門機関であるWHO・世界保健機関が定めた報道のガイドラインを
まったく無視しているということをお伝えしたい。
そのことについては法政大学の水島宏明教授の指摘に詳しい。

その上で、私自身の思い出を語りたい。

2001年の6月18日の毎日新聞の万能川柳欄に
埼玉県蕨市の あげあし鳥(柳名)さんの作品で

どことなく宇多田の歌にある演歌

という川柳が載った。
この作品に接して
「わ、ワシもずっーとそう思ってたんよ!」
という深い頷きというか、瞬時の肯定というような反応をした。
演歌といっても、あげあし鳥さんの作品のなかの演歌は
五木ひろしや北島三郎の演歌ではない。
言うまでもなく藤圭子の演歌である。
「歌謡曲」というと定義が広すぎ、歌謡曲のなかの演歌、
それも人によっては「ムード歌謡」「怨歌」「艶歌」と定義付けるところの
ギリギリで演歌のジャンルのファールゾーンからフェアゾーンの境目にある演歌だ。


なぜか私の周囲の10歳ぐらい年上の兄貴分たちには藤圭子ファン、
もしくは元熱狂的藤圭子ファンの方々が多い。
一方、10歳ぐらい年下の弟分や妹分には宇多田ヒカルファンが多い。
両方に接点があるのは辛うじて私の年代と、私よりちょっと年上の世代だ。
(面識はないけれどもたぶんあげあし鳥さんもそうではないかな?)

「どことなく宇多田の歌にある演歌」の演歌の世界はどんな世界か?
まずは女の感情の昂ぶりのようなもの。
ボーカルの音成分としてはかなり細かい起伏によるビブラート。
伸びやかでありながら力強く収縮していく負のパワー。
それはやってくるはずの幸せの感情を軽く拒否しつつ弾き飛ばしていく。
色彩的には夜の暗さと、矛盾表現であるが華やかな陰鬱さを感じさせる。
これらはボーカルを外して宇多田ヒカルの「First Love」が
春の選抜高校野球の開会式の入場行進曲となってマーチに編曲されてさえも
ビンビン感じてきたその線の演歌成分であった。

「演歌」と総括される広いジャンルでも他に似たようなものをあえて探せば
内山田洋とクールファイブの前川清の歌。
そして前川清と藤圭子はかつて夫婦でもあった。

「血」とか「DNA」とか言うのは嫌いなので、
その線の「演歌成分は何なのか?」ということのヒントになるような
キーワードが、

浪曲(歌手の父)
三味線瞽女(の母)
RCAレコード
前川清
岩手県一関市
北海道旭川市
ニューヨーク
新宿(亡くなられた場所でありデビュー曲も『新宿の女』)

などである。

私は昔、藤圭子と岸恵子の区別がつかなかったほどのはなたれ小僧であったのだが、
その歌の大人の世界観には魅せられてきた。
そして、その記憶が宇多田ヒカルの『Automatic』や『First Love』のボトムのところで
通底する成分がはたらいていたと感じてきた。

藤圭子さんには、たとえばスタンダード中のスタンダードだが、
ガーシュインの『SUMMER TIME』などを歌って欲しかったと心から思う。

幸せを拒否するような雰囲気をもった曲を歌い続けたって
それが骨身にまでしみこんでいたって
幸せになっても良かったじゃないか…
と、思ったりする。

マーヒー加藤
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by kaneniwa | 2013-08-24 07:14 | 草評


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