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2013年 09月 13日

草仏教掲示板(56) ロベルト・バッジョの言葉

b0061413_14251568.jpg ロベルト・バッジョの言葉である。この言葉を映像的にとらえるとしてPK(ペナルティキック)を想像してみたい。PKがゴールに入るか入らないかという誰もが気になる「結果」とか「成果」はそれを蹴る直前までは未来の話である。誰が蹴るか、それを決めるのが「今でしょ」の話となる。1994年のFIFAワールドカップ(アメリカ合衆国開催)の決勝戦、怪我をおして強行出場したロベルト・バッジョは激しい延長戦を含めて限界まで闘い抜き、それでも決着はつかずにワールドカップ史上初めてのPK戦となった。テレビから見ていても疲労困憊(こんばい)などという表現を越えた状態であったバッジョがPKを蹴る5人のなかには入らない方がいいのでは?なんて思った。ただ、また同時に決勝戦まで勝ち抜いたプロセスからしてもバッジョ以外の選手にPKを蹴らせることに納得できない気持ちもまた多くの人のなかに交錯したことであろう。そしてバッジョが蹴ったボールはゴールポストのはるか上を通過してイタリア代表はブラジル代表に負けたのであった。ガンバ大阪の遠藤保仁のコロコロPK(相手ゴールキーパーはPKが蹴られた瞬間に左右のどちらかに跳ぶことがほとんどなのでど真ん中に転がして入れる)でも決まることが多いので(もっとも普段の遠藤選手があってこそ意外性のコロコロも決まるのだが…)「オレが蹴った方がよかった」と思ったイタリア人は多かったのではないだろうか。テレビなどで野球を見ていて「リリーフ投手が満塁ホームランを打たれるなんて最悪の結果になるなら、あの一球はオレが投げた方がよかった」なんて思うことがある。それを思ったり口にするにしても居酒屋でつぶやくぐらいなら無邪気なものであるが、実際にはそのマウンドにオレが上がる資格はまったくない。野球は大事な趣味ではあるが、それに人生を賭けているわけではない。1998年のフランス大会でPKを外してしまったイタリア人選手にバッジョはこう言葉をかけている。「PKを外すことができるのはPKを蹴る勇気をもった選手だけなんだ」と。 最後に、ロベルト・バッジョもそうだが仏教系新興宗教(正確には新興から世代を重ねて既成教団へと移行中ではないかと思われるところ)と深い結びつきがあることで、そういう人の言葉を選んで法語として掲示することに苦言を呈されたり揶揄(やゆ)されることがあるのだが、私は自分の思いを越えて響いていく言葉という壁のない世界にわざわざ壁を作ることはバカらしいと思っている。

文 マーヒー加藤
書 シャラポア(日本人)
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by kaneniwa | 2013-09-13 15:18 | 草仏教


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