2014年 03月 04日

追悼記事(31) ビル・ロビンソン

プロレス界のスーパースターだったビル・ロビンソンの訃報が入った。

4年ほど前に
「スピッツのロビンソンという曲の歌詞は、ビル・ロビンソンのことを歌っていると思えてならない」
という趣旨のブログ記事を書いたことがある。
実際は作詞・作曲を手がけた草野正宗(スピッツ)がタイを訪問した時にロビンソン百貨店に
インスピレーションを得たらしいのだが
「ロビンソン」のタイトルは「人間風車」でもいいと思うぐらいだ。

ウィキペディアで、亡くなられた日付が入り、情報(書き込み)も更新されているのだが
懐かしい名前がたくさん出てくる。
以下、懐かしい名前には 「」(カギカッコ)を付けておきたい。


1999年から2008年まではUWFスネークピットジャパンのヘッドコーチとして
ずっと東京の高円寺に在住(そして大浴場とサウナは荻窪のゆーとぴあの常連愛好者)
であったのであるが、本人がプロレスラーを引退した後は「ルー・テーズ」のオファーで
UWFインターナショナルに来日して「ニック・ボックウィンクル」との
エキシビションマッチを行うまで、ラスベガスのホテルのガードマンをやっていたそうだ。
ビル・ロビンソンほどの大物、スーパースターをガードマンとして雇っていたのは
一体ラスベガスの何というホテルだ?と思うとともに、
改めてプロレスの世界の厳しさを引退後ということも含めて感じる。

ビル・ロビンソンは私が生まれる以前からプロレスラーとして活躍していた。
初来日は1968年で日本レスリング協会の会長で
国際プロレスの発起人でもあった「八田一朗」の仲介であったそうだ。
さらに1970年のハワイ滞在中、同じ英国出身の「ロード・ブレアース」の紹介で
「バーン・ガニア」と出会いう。
日本の国際プロレスが、ガニア主宰のAWAと提携していてたことが大きな縁となる。
その国際プロレスで「寺西勇」「マイティ井上」「アニマル浜口」らを指導している。
国際プロレス時代の好敵手は「グレート草津」「チーフ・ホワイト・ウルフ」
「スタン・ステイジャック」「ラッシャー木村」「ストロング小林」「サンダー杉山」など。
さらには「カール・ゴッチ」や「モンスターロシモフ」と名のっていた時代の
「アンドレ・ザ・ジャイアント」などとも試合をしている。

記憶に鮮明なのは1975年の新日本プロレスに所属を変えての初来日。
12月11日に蔵前国技館で「アントニオ猪木」のNWFヘビー級王座に挑戦した。
60分3本勝負でそれぞれが1本ずつを取った後
(劣勢の猪木が試合の最終盤にコブラツイストをかけてビル・ロビンソンから一本を取る)
60分時間切れ引き分けとなったこの試合は、プロレス史に残る不朽の名勝負とされている
のであるが、ゴールデンタイムに好視聴率をもって放映されていた(テレビ朝日系列)
放送を見つつ、さらに後年にこの試合のVHSビデオを手に入れて何度見たことだろうか。

1976年に「ドリー・ファンク・ジュニア」の仲介のもと全日本プロレスと契約した。
「ジャイアント馬場」と対戦しているが、馬場さんが
「ビル・ロビンソンのワンハンド・バックブリーカーを喰らったら便所にも座れなくなった」
というコメントをなぜかよく覚えている。
洋式便所だったか、和式便所であったかまでは覚えていない。
そのせいか、その後で社長でもあった馬場との対戦はなかったか、少なかったと思うが、
売り出し中の「ジャンボ鶴田」とは「試練の10番勝負」の10人のなかの一人としての
対決以降、実によくマッチが組まれた。
タッグパートナーはドイツ(当時は西ドイツ)の「ホースト・ホフマン」と
ヨーロッパコンビを組んでいたが、タッグではそのホースト・ホフマンがフォールされる
シーンがやたら多かったような記憶がある。

もっともっと詳しくビル・ロビンソンの歩みをふり返っていけば、
日本のプロレス史の半分ぐらいがカバーできそうなぐらいである。

マーヒー加藤
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by kaneniwa | 2014-03-04 23:06 | 草評


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