2014年 05月 30日

竹富島を訪れなかったら、たぶん感じなかったこと

b0061413_12133623.jpg 粟散(ぞくさん)片州(へんしゅう)に誕生して 念仏宗をひろめしむ 衆生化度のためにとて この土にたびたびきたらしむ (真宗聖典499頁)と親鸞聖人は法然上人を讃える和讃(わさん)を書いた。そしてさらにその冒頭の「粟散片州」という漢字の横には「このにちほんこくなり」という書き込みがある。自虐的であったのかどうかなんかわからないけれども、どんな最先端の知識人であろうとも世界地図を描けばインドと中国と日本の三国(だから三国一の花嫁とかいう表現はとても古い)に朝鮮半島を加えるのが精一杯であった時代にこの日本のことを「世界の片隅の島々」という認識をもたれている。新潟県にはまさに粟島(あわしま)という人口が438人(平成17年度国勢調査)の島がある。親鸞聖人は越後に流刑となったとはいっても島流しではないので粟島の地まで足を踏み入れたことはおそらくないだろう。ただ、縄文式土器が出土する深い歴史をもっていて、鎌倉時代にはすでに色部氏の領地であったことから親鸞聖人が「粟島」という島を認識されていた可能性はある。なんせ、私の自宅からいちばん近い海から肉眼で簡単に見える島である。3月下旬に訪れた八重山諸島のなかで、石垣島の面積と現在の人口が佐渡ととても近いなぁと思い、竹富島の面積と人口は粟島に近いなぁと感じていた。石垣島沖から釣り船から見た砂浜と周辺の海の美しさもあって、丸一日はこの竹富島で過ごす予定であった。第一、八重山諸島に家族で出かけると決めた時にすでに訪れた知人たちから聞く意見は「やっぱり八重山諸島のなかでは竹富島がいちばんいいね」というものだった。家々の周囲に丁寧に積み上げられた石垣。(何だか竹富島の方が石垣島という名称が似合うような…)その石垣からたまに出てきたハブがすぐに見つけられるように真っ白な砂浜の砂をもってきて作られた白い路地。デイゴの花、牛車、その歌が誕生の地で聴く三線弾き語りによる「安里屋ユンタ」や星砂(太陽の砂)で有名な皆治(カイジ)浜やコンドイ浜などなど…竹富島に行きたくなる話ばっかりをたっぷりと伺った。ただ、石垣島の離島ターミナル(港)で心なしか竹富島から石垣島に戻ってくる人々が複雑な表情をしているような気がしていたのだが、私とシャラポア(妻・日本人)も同じような顔つきで竹富島から石垣島に戻ってくることになった。考えてみれば、竹富島を八重山諸島のなかの楽園としてほめたたえる知人たちは皆、ほとんどが3年以上前に訪れていたひとばかりで、今年に入ってから竹富島を訪れたという人はいなかった。そんな竹富島の魅力を語る知人にとっては、このレポートはやや衝撃的ですらあると思う。

b0061413_1213532.jpg 2008年(平成20年)5月、有限会社竹富観光センターの水牛車営業所が竹富保育所や竹富小中学校に隣接し、島の神である清明御嶽の北面に接し、地元から神の道と称されるナビンドー道にも面する場所に移転した。以来、協議が重ねられたもののそれが決裂して途絶える時期を経て、今年2014年(平成26年)1月に竹富公民館と竹富島の聖域・文教地区を守る住民の会が水牛車観光事業所の早期移転を求める決起集会を開催し、水牛車の観光コース沿いに事業所の早期移転を求める32枚の看板を設置したのであるが、その32枚はコースの要所に掲げられている。もともと竹富島の人々は文化と伝統を守る気概が強く「竹富島憲章」によって新しく家を建てる場合は赤瓦屋根の平屋でなければならず、その結果としてイメージする沖縄の原風景というものが残り、それらの家々は丹念に積み上げられた石垣やデイゴの花などに彩られた素晴らしい庭という景観をもちつつ、それらを大切な島のいちばんの産業である観光資源として大事にしてきた。また、これは先日ラジオで聞いた話だが、竹富島では島民のほとんどが参加する「竹富島一斉清掃の日」などというものもあり、当然ながら美しい景観を保つための努力を欠かさない。私たちのような一日観光客としても、その島を汚さぬようにすることはもちろん、一軒一軒の家を「実際に人が住んでいる家」として、その美しい景観を写真を撮るにしても人の家を覗きこむようなことはマナーに反するとは心得てきた。そんな文化と伝統と景観を大事にする島の人々が、あえてその景観を台無しにしながらも抗議の看板を掲げている。この半年以内に竹富島を訪れた人はリピーターにはなりにくいと思うし、半年以上ぶりに喜び勇んで竹富島を再訪した人は「何ということなんだ!?」と頭を抱えてしまうと思う。三線を弾き語りながらの牛車のガイドさんの、語ることの半分以上は抗議看板への弁明であり竹富島で生まれた名曲である「安里屋ユンタ」も、どこかうつろに響く。「看板がうっとうしいなぁ」という率直な感想ももつものの、牛車は保育園と小学校の前から公民館、診療所の前などの要所を通る。急患にも対応するこの診療所の前を牛車が牛歩であると、それは困るだろう。やはり、子どもたちを連れての家族旅行ということもあり「もしも自分の子どもがこの小学校に通っていたらどうか?調教されているとはいえ巨大な牛がいつ一瞬でも野生の衝動に帰るともしれない…」ということを考えてしまう。そこを牛車で通るだけで迷惑をかけているという罪悪感をもってしまう。動物好きで看板の文字が読めない8歳(この時は7歳)の末娘は無邪気に喜んでいたが、看板の文字も親の表情も場の空気も読むことが出来る長女と長男はやはり複雑な顔つきだった。牛車にのった後はレンタサイクルでコンドイ浜あたりまで行こうと思っていたのだけれども、何の打ち合わせもしなくとも顔を見合わせてすぐにフェリーで石垣島に直帰した。何と竹富島の滞在時間は2時間未満であったと思う。では、竹富島には行かない方がよかったのか?いや、そうではなかったと思う。なぜかというと八重山教科書問題と水牛車営業所の移転を求める声が上がった時期がたいへんリンクしているような気がするが、どちらにしろこの島に関心をもつようになり、その未来を見つめたいと思うようになった。教科書問題でも水牛車営業問題でも、小学校というものが要所となっている。その小学校の今年の入学者、新一年生は一人だと聞いた。


マーヒー加藤
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by kaneniwa | 2014-05-30 18:04 | 草評


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