2014年 08月 12日

お盆のお墓参りのお供えについての掲示(はり紙)

b0061413_0565773.jpg 教団の職員をしている時に「お盆の期間中にお墓にお菓子や果物などのお供えものをそのままにして行く人が増え、カラスや蟻や蜂がたかって困っているのだが、その風潮に対して警告する文章を組織として出さないのか?」という意見をご住職さんたちから何度かもらったことがある。教団や組織というものを「活用してやろう」とか「利用してやろう」というぐらいの意欲をもつことには賛成だけれども、この場合は正直言って組織や団体というものに依存し過ぎである。地域の習慣、墓地の規模、人間関係、カラスや昆虫の発生度などケースバイケースのことでもあり、その状況のもとに自分の頭で文章を考えてみることが大切ではないだろうか。もちろんその状況に合っているならば既成の文章を真似ることはまったくOKだと思う。でもなかなかケースに当てはまる文章が見いだせないからといって自分の思考を停止してマニュアル化に頼ることはないと思う。 ただ、そういう視点から墓地にあるそのことについての掲示に目を向けると多くの気づきがあった。公営墓地や霊園などにはハッキリと「お供え禁止」「お断り」という趣旨で掲示をしているところがあるし、寺院でもある。少々ソフトに「ご遠慮ください」という表現になっているところが多い。ハッキリしていていいと言えばいいのであるが、禁止やタブーというものは「危険」がある場合には明確に表示の必然性があるけれども、この掲示の場合に一律の禁止を明示するにはいささかデリカシーが足りない気がするのだ。どういうデリカシーかというと、たとえばそれはご縁の深い人を亡くしてその墓参にあたってその人の好物などをお供えしたいという人の存在と気持ちに対する意識である。そこのところも含めて墓地管理者としてクールに場のルールを敷いた方がいい場合にはそうすればいいと思うのであるけれども、自分の場合はそれほどの大規模墓地でもないし、ただ単に「ご遠慮ください」では言葉足らずでもあると思う。かといってこのブログ文をそのまま墓地に掲示すると言葉は多すぎる。 思考停止はいけないと言いつつも、実はこの問題は考えれば考えるほどに明確な正解などない。ただ、自分なりに昨日の朝に自分なりの文章を書き出してみて掲示をした。お供え物の本質に「花」がある。花を大切にしない文化の方が見出すことが難しいと言えるぐらい花を捧げることを人は大事にしている。オランダとドイツの国境付近で発見されたネアンデルタール人の化石には化石化した花の花粉なども鑑定されているので、花を捧げることができたかどうかが猿と人との違いだと言えるぐらいに本能的衝動に則したものである。その花をご本尊にしてもお墓にしても捧げる時に、100%対象に捧げるということならば、その方向はご本尊なりお墓に向けるはずなのである。しかし、これは供えるということの本質に関わることであるけれども花のいちばん美しい姿は捧げるその人の方向を向くのである。線香の香りもしかりであり、ロウソクの明かりもしかりである。お供えのベクトルは一方向ではなく、双方向にはたらく。つまり「捧げる」という形をとりつつ「いただく」という形をとっている。これは本質論であるけれども、私がご縁ある方々への聞き取りをしてきた範囲でいえば、お菓子や果物のお供えに関してもそれがとてつもなく貴重であった時代にはその本質に忠実であった時代もあったことを知ったし、その本質からもっとも逸脱して「悲しき飾り残し」が横行していった時期は私の短い経験則からしても「どうもバブル期だな」という実感もある。 また再度言及するけれども、この問題に対する正解などない。ただ、何とか「ご遠慮ください」ではない文章を絞り出してみたので、特に同業者と同行者のご意見を聞いてみたい。


砂糖や果物がとてつもなく貴重であった時代、
いったんお墓には
「捧げる」という形をとった後に
「さずかる」という形でそれを大切に持ち帰り、ご縁あった方々への感謝をこめてそれを
「いただく」という美しい風習がありました。
現代においてもその心を大切にして参りたいと存じ上げます。 善良寺 


マーヒー加藤 
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by kaneniwa | 2014-08-12 06:55 | 草評


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