2015年 07月 08日

精読か多読か 精聴か多聴か

読書について自分は精読派であったか多読派であったかを考える。
趣味としてというだけでなく「頭だけでなく自分の身に入ってくる」という意味では
やはり同じ本を何度も読むような精読の時間がいい。
趣味としての読書として愛せるのも情報処理としての多読よりは
気に入ったものの再読の方である。
しかし精読のための多読、というと矛盾するようだけれども
その本しかなかったからその本を何度も読んだというのではなくて
たくさんの本に目を通してきて自分の主体的な選びがあった上で
「やっぱりこれがいい」
という展開が好ましい。
つまり、やっぱり図書館には本がいっぱいあった方がいい。

ミステリーとか推理小説というような、犯人やトリックがわかった上での再読は
多くの場合は最初に飲む生ビール大ジョッキに比べれば2杯目の美味しさは
半減以下というになるけれども、
文芸の「芸」の部分が際立つ作品は
「もしかしてそういうことなのか」という最初に読んだ時の自分の心理まで
感じられたり、あるいはその心理状態での推測と合致した時の気持ちの高まりや
その推理を超えた展開やトリックがあった時の衝撃の再現性はけっこういいものだ。

そして本の場合にはたとえ学術書のような分野であったとしても
「詩的な要素」というものや「言語というもの自体の切れ味の良さ」や
文芸の「芸」の部分が感じられたものは、なおさら精読に値すると思う。
詩的な要素といってしまったが、ちょっと考ええたら詩そのものというジャンルがある。


今度は読書のことを食べることにたとえてみたい。
「食べ放題」
にはほぼ関心を失ってしまった。
20歳代までの私だったら「焼肉」とか「寿司」の食べ放題には
色めき立ったということもあったと思う。
でも、新発田市の「ぶどう畑」という野菜料理(肉料理、魚料理もちょっとだけある)
のお店以外でバイキングや食べ放題のお店以外にはほとんど行くことはない。
ぶどう畑では日本料理でなくとも季節や旬というものが随所に感じられ
(真冬もバリエーション豊かな根菜料理と湯豆腐が美味く、薪ストーブが設置されている)
その調理法などが実に参考になるし、後味がいい。

たとえば「焼肉」や「寿司」というのはずっと自分にとってご馳走であって欲しいので、
それを詰め込みすぎて感覚が麻痺してしまったり、後味が悪かったり、
「もう見たくない」なんて気持ちになることが嫌だからだ。
でも、20歳代までとは違って身の問題としての代謝能力がいちばん大きいかな。
でも、せっかく焼肉とか寿司とかのご馳走を食べる機会があるのならば、
ある程度の「厳選」をする方を選ぶ。

さて、Apple Music という音楽配信サービスが
つい最近の6月30日に日本を含め約100カ国で開始された。
3000万曲が月額980円で聴き放題であるという。
3000万曲ということは、たぶん私が持っている音源の99%は網羅されているはずだ。
これは巨大図書館として
「この曲はどんなものだろうか?」
「このアーティストの他の作品はどうなっているのかな?」
と利用するには実にありがたい存在である。

しかしこの音楽配信サービスが喜ばれるのは
本の読者のたとえでいえば多読派であり
飲食でいえば定額制ということもあって「食べ放題」的である気がする。

たとえばインターネットラジオなどはすでに聴き放題
(現実のラジオも音楽中心の番組が減っただけで聴き放題だ)
なので、それは愛聴しているけれども、
やっぱりそうやって新しく知ったものからCDを購入して
愛聴するという
「多読が嫌なわけではないけれども精読派」
というようなあり方をしたいと思う。

マーヒー加藤
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by kaneniwa | 2015-07-08 15:34 | 草評


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