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2006年 03月 05日

親鸞聖人26歳の頃に・・・

非常に野球が上手な女子高生がいたとして、選手として甲子園を目指したいと
どんなに懇願(こんがん)したとしても、部員として練習を共にするのは自由だが、
公式試合への選手としての出場に関しては、現在のところ、日本高校野球連盟は
それを規約のなかで許可していない。

大相撲大阪場所の優勝者に大阪府知事杯を贈ることについて、現在、大阪府の
知事が女性であるため、土俵の上に女性が上がるということについての激しい
議論が、ここ数年大阪場所がある春頃に何度も起こり、やはり以前にも女性大臣
の時の論議からかなりの検討や議論が重ねられているが、今のところ、表彰などの
場合であっても女性が大相撲の土俵にあがったということはない。

奈良県の大峰山が、女性を入山させるかどうかで激しい議論が巻き起こっている。
これは2005年の秋頃からの現在の話だ。背景には世界文化遺産登録の兼ね合い
もあるようだが、伝統と人権の問題に信仰の問題を加え、現在もこれについての見解は
激しく分かれている様相を呈している。正直に言って、この問題を知った時には、
未だに女人禁制の山がこの日本にあることを改めて認識させられることになった。

天台宗の霊峰であった比叡山が、明治政府の太政官布告によって
女人禁制の廃止を 布告して法律上女性が入山できるようになったのは、
明治5(1872)年のことである。これから語りたいエピソードは建久9(1198)年の
ことなので、それからさかのぼること576年、当然比叡山は女人禁制の山で
あった時代のことである。

用事で京都の町に出てきた26歳の親鸞聖人は、比叡山への参道の入り口である
赤山明神(京都市左京区)にてひとりの女性(年齢不詳)に呼び止められる。
自分も比叡山で仏道と縁をもちたいものであるから、是非とも一緒に連れていって
くれないかと26歳の親鸞聖人に懇願する。当然のように親鸞聖人は断ると、
その女性は「比叡山を仏道修行の場として開いた伝教大師最澄さんは、すべての
者が仏になれると説かれた教えを知らないはずがないではないか」
との疑問を
投げかける。若き親鸞聖人は、これにひと言も返せないようだ。
さらに女性は続ける。 「比叡山には鳥や獣のメスはいないのか?」
やはり、親鸞聖人は何も返答することができない。
その親鸞聖人に、その女性は最後にこういう言葉を言う。

仏法が、高い山の頂(いただき)に湛(たた)えられた水のようであっては意味がない。
その水が流れ落ちて大地を潤(うるお)すことが大乗の仏教であることだ。
あなたはまだ、この道理がわからないだろう。しかし、やがてこのことに気づくでしょう。


そしてその女性は去っていくというエピソードは『正明伝』という本に書かれている。
その三年後に、親鸞聖人は比叡山を下りて里に出て、法然上人のもとで念仏の道を
老若男女と共に歩み、日本の仏教史上で最初の妻帯僧侶にもなる。

この『正明伝』については、長野県の塩尻市の佐々木正住職が著した
『いまを生きるための歎異抄入門』(平凡社新書)などに紹介されている。
より詳しくということであれば同じく佐々木正著『親鸞始記』(筑摩書房)がある。

この赤山明神のエピソードについては、浄土真宗の宗祖としての親鸞聖人を
権威づけをするお話ではなく、むしろ逆にこの女性の主張や質問に全く応える
ことができない、はっきり言ってある意味情けない親鸞聖人像を伝えているわけで、
このエピソードは実際にあったものだろうと私は考える。

何かの道を志すということは、高い山の頂きを目指すことにたとえられる。
そこには努力という言葉に集約される根気、辛抱、頑張る心みたいなものが
求められる。
これはその山が高ければ高いほどに、その努力が大きければ大きいほどに
頂きに至ったその満足は大きいのだろう。
この方向の考え方は、非常にわかりやすい。

しかし、そのわかりやすさのゆえに、その努力を根底で支える情熱や意欲が
どうして自分の心に起こったのかを考えることは難しい。
努力は計画や計算で成り立つが、情熱や意欲ややる気や元気は、タイマーを
セットするように自分の心では起こすことができない。

とにかく、親鸞聖人という人の歩み、と言った場合、多くの人は山の頂きを目指す
ような道を想像すると思うが、山を下りる道の歩みのはじまりが大きな一歩だった
のだと思う。

マーヒー加藤  草仏教ホームページ
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by kaneniwa | 2006-03-05 01:17 | 草仏教


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