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草仏教ブログ

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2006年 04月 13日

超訳徒然草・吉田くんのブログ(第25段)

飛鳥川の淵瀬常ならぬ世にしあれば、時うつり事さり、たのしびかなしびゆきかひて、
花やかなりしあたりも人住まぬのらとなり、變らぬ住家は人あらたまりぬ。
桃李もの言はねば、誰と共にか昔を語らん。
まして、見ぬ古のやん事なかりけん跡のみぞ、いとはかなき。

京極殿、法成寺など見るこそ、志とどまり、事變じにけるさまはあはれなれ。
御堂殿の作りみがかせ給ひて、庄園おほくよせられ、我が御族のみ、
御門の御うしろみ、世のかためにて、行末までとおぼしおきし時、いかならん世にも、
かばかりあせはてんとはおぼしてんや。

大門、金堂などちかくまで有りしかど、正和の比南門は燒けぬ。
金堂は、そののちたおれふしたるままにて、とりたつるわざもなし。
無量壽院ばかりぞ、其のかたとて殘りたる。丈六の佛九體、いとたふとくて竝びおはします。
行成大納言の額、兼行がかける扉、あざやかに見ゆるぞあはれなる。
法華堂などもいまだ侍るめり。是も又いつまでかあらん。
かばかりの名殘だになき所々は、おのづから礎ばかり殘るもあれど、さだかに知れる人もなし。

されば、萬に見ざらん世までを思ひ掟てんこそ、はかなかるべけれ。

(吉田兼好法師 『徒然草』 第25段)

超訳徒然草・吉田くんのブログ(第25段)_b0061413_0354411.jpg


マーヒーです。徒然草の超訳ですが、全体の十分の一までやってきました。
未だに超訳のスタイルさえも確立せず、方針らしきものも徹底していません。
徒然に書かれた古典を元祖ブログと考えられないか、というような漠然とした
考えしかありません。今回は、何というか、実験的な要素は強すぎるとは自分で
感じてはいますが、アメリカ南部のブルースの歌詞を無理に翻訳したようなものというか、
暗い都々逸(どどいつ)をぎこちなく訳したような文でやってみます。では、


奈良の飛鳥の小川の淵が、いつも同じじゃないように
無常で非常な世の中は、時が過ぎれば変幻自在。のこした事実も滅び去り、
楽しみ・悲しみせめぎ合い、繁華街さえ野原だぜ。

古びた俺のアパートも、住んでいるのは別の人。
桃の木おまえにゃ口がない。誰と語ればいいのだろう。
ましてはるか昔のことは、わずかな欠けらで空しく想う。

(藤原)道長ハウスもテンプルも、建った願いはすごいけど、
保証も保護も砕け散り、情熱なんかはふっとんで、汚職と賄賂で汚れきり、
磨く意欲もなくなった。 こんなはずではなかったぜ。

ちょっと前まであった門、炎に包まれ燃えちゃった。
建った願いはすごいけど、再び建てる気はないぜ。

願いの面影のこすのは、阿弥陀の住んでる無量寿イン。
量れ無いから無量寿院。量れ無いのが仏さま。4メートル93センチ×9。
扉の文字が光る寺。

今ある多くの寺たちも、いったいいつまであるのかい?
京都の街は礎(いしずえ)だらけ。石碑だらけの街なのさ。
多くの建物消え去って、かすかな欠けらを残すのみ。
何の跡かもわからない。

マイルストーン(記念碑)は残っても、願いの記憶が残らない。


超訳BYマーヒー

by kaneniwa | 2006-04-13 01:37 | 徒然草


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