2006年 07月 20日

日本のだまし絵

b0061413_31318100.jpgだまし絵といえばエッシャー(M.C.Escher 1898--1972 )が有名だ。あり得ない世界を見せてくれたり、「木を見て森を見ず」というようなことを教えてくれたり、人間の心理の複雑さや光と影を教えてくれたりするのだが、日本には、歌川派の絵師で一勇斉国芳(1797−1861)という人が、オランダのエッシャーの100年ぐらい前の江戸時代にいた。もっとも、もっと前から洋の東西を問わずにあったのかもしれない。写真は新潟県立自然科学館という場所のなかで、エッシャーのパネルのとなりに一勇斉国芳の作品群のパネル展示がしてあって、初めてその名前を知った。この一勇斉国芳を検索してみたりしているが、だまし絵師という評価ではなく、一流の浮世絵師としてその作品がネットオークションで流通したりしていて、ますます興味をもってしまった。

マーヒー加藤



歌川 国芳(うたがわ くによし、1798年1月1日(寛政9年11月15日) - 1861年4月14日(文久元年3月5日))は、江戸時代末期の浮世絵師。

江戸時代末期を代表する浮世絵師の1人である。国芳は、同時代に活動した葛飾北斎や歌川広重らの人気絵師に比べ、日本における知名度や評価は必ずしも高いとは言えなかった。「幕末の奇想の絵師」として注目され、再評価されるようになるのは20世紀後半になってからである。

国芳は、1797年(寛政9年)、江戸日本橋に染物屋の息子として生まれた。本名は井草芳三郎。浮世絵師としては一勇斎と号する。風景版画で国際的に有名な歌川広重とは同年の生まれであり、同時代に活動した。1811年(文化8年)、15歳で初代歌川豊国(1769年 - 1825年)に入門。豊国は華麗な役者絵で一世を風靡した花形絵師であり、弟子に歌川国貞(1786年 - 1864年)がいる。国芳は入門の数年後、1814年(文化11年)頃から作品発表を開始しているが、兄弟子の国貞という強力なライバルがいたこともあり、なかなかヒット作に恵まれなかった。師・豊国没後の1827年(文政10年)頃に発表した『水滸伝』のシリーズが評判となり、30歳を過ぎてようやく人気絵師の仲間入りをした。国芳には多くの門弟がおり、幕末から明治前期に活躍した異色の画家・河鍋暁斎や、「最後の浮世絵師」と呼ばれた月岡芳年も国芳に弟子入りしたことがあった。国芳は明治維新を目前にした1861年(文久元年)、数え年65歳で没している。

作品は役者絵、武者絵、美人画、名所風景から戯画、春画までさまざまなジャンルにわたっているが、中でも歴史、伝説、物語などに題材を採り、大判3枚続きの大画面に巨大な鯨や骸骨、化け物などが跳梁するダイナミックな作品に本領を発揮している。また、無類の猫好きとしても知られ、常に数匹の猫を飼い、懐に猫を抱いて作画していたと伝えられるほどで、猫を擬人化した作品も多い。猫に限らず、狸、雀、蛸などの身近な動物を擬人化して世相を風刺したり、動物に託して江戸の庶民の生活を描写した作品も多く、これらは現代日本の漫画・劇画のルーツとも考えられる。「寄せ絵」(一見、1人の人物の顔に見えたものが、見方を変えると複数の人物像に見えるといったもの)や、自宅で絵を描く自身の顔の前を、絵の中の動物や人物が横切り、自身の顔を隠している「自画像」のような遊び心のある作品も国芳の得意としたものである。華美をいましめる天保の改革(1841年~)以後、幕府の禁令により、役者や遊女の1枚刷り錦絵は出版できなくなった。しかし、国芳は持ち前の江戸っ子気質から魚の顔を役者の似顔にするなど、さまざまな便法で禁令を潜り抜け、役者の似顔を描き続けた。

国芳はまた、柴田是真(蒔絵師、画家)、渡辺崋山(田原藩家老、学者、画家)ら当時の文化人とも交流があり、画風にも当時の新知識を彼なりに研究・吸収した跡が見られる。『相馬の古内裏』という作品に登場する巨大な骸骨は西洋の解剖学の書物を研究した成果だと言われている。また、『忠臣蔵十一段目夜討之図』は未熟ながらも西洋画の透視画法(遠近法の一種)を学んだ跡が見え、画面に奥行きと緊張感を与えている。
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by kaneniwa | 2006-07-20 06:13 | 草評


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