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2006年 08月 12日

お盆は生きている人が帰る日なのだ

b0061413_0532652.jpg寺院における最大の年中行事は何か、ということを考えていると、浄土真宗における報恩講など、各宗派で本質的なところでの「最大の年中行事」というものがある。ただ、多くの仏教系宗派の寺院関係者にとって「忙しい」のがお盆である。

実際、東京に住んでいれば、7月のいわゆる「新盆」には、突如として「普段は何処にいるの?」というぐらいに黒い衣で袈裟を風になびかせ、スクーターなどで街行く僧侶の姿が急に目につく。みな、忙しそうだ。実際、お盆がいちばん忙しいという僧侶は多い。

カレンダーをめくるとこのみんなが知っている旧盆の8月13日付近は日曜日と重なっていないかぎりには赤く塗られていない。公式な休日や祝日ではないのである。

しかし、多くの会社では公然と「短い夏休み」ということになり、民族大移動が起こる。日本がいちばん蒸し暑く、一番混雑する時期に、車であれば凄まじい渋滞、列車であれば恐るべき混雑のなかで「人間はここまでして故郷に帰りたいのか」と思わされる。

そして8月の旧盆には、私自身がお盆の風景になり、車の中で高校野球の2回戦か3回戦あたりの試合をラジオで聞きながらお経をあげに家を廻る。東京の街はがらがらに空き、生粋の東京っ子は故郷としての東京を意識させられるだろう時期となる。そう、首都圏や大阪などの大都会に住む人々にとっても、ある意味、この時期はネイティブに帰る日になるのだ。

7月の新盆の「お盆法話」というものをいろいろなところで拝聴したこともあるし、私自身が「お盆法話をお願いします」というご依頼を受けたこともある。

さて、そういう機会に急に浮上してきて考えさせられる問題が、仏教にとってお盆とはどういう意義があるのか、というあまりにも基本的な問いである。私はこんな基本的なこともわからずにマーヒーはお盆を勤め、忙しがっているのである。

いわゆるお盆の正式な名は「盂蘭盆」(うらぼん)で、これは「倒懸」(逆さまに吊るされる)という意味らしい。意味らしい、と人ごとのような言い方をしてしまったが、実際に、私自身にとっては、この「倒懸」(とうけん)という言葉に特別の思い入れをもったことがないのだ。いや、思い入れをもったことはあったが、季語や年中行事の「お盆」との関連がマーヒーのなかではまったくないのだ。

法蔵館というところが出している『真宗新辞典』では盂蘭盆の項目に

 「真宗では、祖霊を供養する考え方はないが、一般の風習にしたがって歓喜会、
  盆会として法事を行うことがある」


との何だか言い訳じみた記述がある。「ことがある」と言いながら、真宗寺院でもほとんどが何らかの形でお盆をつとめているのが現実であるからだ。

しかし、この何だか煮え切らない記述には、自分でもどこか言い訳をしながらお盆を勤めて忙しがっている事実との不思議な一体感がある。

個人的には、確かに浄土真宗に「祖先の霊を供養」という考え方に積極的なものはないものの、祖先が大事ではないはずがないと考える。祖先といっても短絡的に祖霊崇拝だと決め付けるのも考えもので、どういうものを先祖観としてもっているかで、これはまったく違ってくるのである。その違いが、しかし、うまく整理できないもどかしさがある。


マーヒーは東京に勤めていた時代、新潟県にある寺のお盆勤めのために関越道で60キロ、時には練馬から高崎まで自動車がつながった100キロという信じられない(しかし、ニュースなどでは東北道や中央道で100キロ以上の渋滞表示を結構見ますね)渋滞のなか、帰省していた時代がある。特に、マニュアル車に乗っていた時代はクラッチ操作をする左足が痙攣(けいれん)するほどで、これはしんどかった。

もちろん、渋滞というのはそれだけで精神的な苦痛がある。そのイライラとムカムカとプンプンの状態をすでに経て、意外に冷静沈着な精神状態がやってくる瞬間があった。この精神状態を心理学ではどういうのかよく分からないが、片山まさゆきのマージャン漫画では、負けてムカムカした後に冷静な状態になって勝ちまくる ムカフーン打法というものを得意とするおじいちゃんキャラクターがいたような気がする。

「ああ、こうまでして、みんな故郷に帰りたいんだよなぁ」という、共鳴というのか共感というのか、とても不思議な一体感があった。

たまたまカーオーディオから憂歌団の「思い出の街に帰ろう」という歌が流れ出た時に、私は胸がいっぱいになった。この歌の作詞者はコピーライターの仲畑貴志さんであり、メッセージ・ソングというわけではなく素朴なラブソングである。歌の設定は、おそらく都会で暮らす同郷の男女を設定している歌のようにマーヒーは感じ、この「思い出の街に帰ろう」という題名がそのまま歌のサビ(聞かせどころ)の歌詞になっている。ちなみに仲畑さんの出身地は私と同じく京都市で
あり、それまで特別に思い入れのある歌ではなかったが、故郷に帰る人々の車の数珠つなぎと併せて、さまざまな事情で、故郷に帰りたくても帰れない人々の姿にも思いをはせた。

いわゆるご当地ソングという趣向とは少し違って「ジョージア・オン・マイ・マインド」(ホギー・カーマイケル作のジャズのスタンダードナンバーでレイ・チャールズの歌と演奏が有名)にしろ、「ニューヨーク・ステイト・オブ・マインド」(ビリー・ジョエル)にしろ、ちとマニアックなところでは吉川団十郎の「ああ宮城県」にしろ、故郷への想いを歌う歌に吸引力をもって魅せられるようになった。

歌う対象がジョージアであろうとニューヨークのような大都会であろうと宮城県であろうと、そのままズバリ「故郷に帰りたい」(ジョン・デンバー作)のウエスト・バージニアであろうと、帰りたい場への思いの強さに吸引力を感じるのである。

マーヒーは、8月13日あたりは、お盆と言わずに 「帰る日」 または 「故郷の日」 とか名づけたい。


またまた話題は少しずれてしまうが、2002年を象徴する漢字は 「帰」 の文字だった。
(日本漢字能力検定協会)

「帰」の一文字が数多くある漢字のなかから年度を象徴する文字として選ばれたのは、北朝鮮による拉致被害者の方々がこの年に帰ってこられたということが一番大きな根拠であろう。そして、この「帰」のわずか一文字は古今東西、いろいろな理由によって「帰りたっかったのに、帰れなかった」という、さまざまな人々のことを想像させられる。

「帰」の一文字は重い。人間は、相当な苦労をしてまで「帰りたい」という生き物なのだ。ただ、根本的に「どこからきて、どこに帰るのか」がわからない。

そのようないろいろな思いを胸に、この「帰」の文字からはじまる正信偈(しょうしんげ)というお経(正確には偈というのは「うた」というか、宗教詩であるのですが・・・)を声に出す。

さて、まとなりのない助長な文を書いてしまったが、お盆には「亡くなった人が帰ってくる」とよく言われる。マーヒーが考えるには、自分の心の奥底の迷いを亡くなった人の迷いという形に投影して、変にわかりやすく納得してしまうことに似ていると思う。お盆には、生きている人々が帰ってくる。


マーヒー加藤
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by kaneniwa | 2006-08-12 01:22 | 草仏教


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