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2006年 08月 18日

セレンディピティ(serendipity)について(5)

b0061413_2222129.jpg法敬坊という人が本願寺の第八代蓮如上人に、 「 上人のお書きになった六字のお名号が、火事にあって焼けたとき、六体の仏となりました。まことに不思議なことでございます 」 と言ったという。蓮如上人の書かれた名号(南無阿弥陀仏)を大事にしていた御門徒の家が火事になったのだ。火事で出た煙が、蓮如上人の書かれた名号がある家だという先入観で、火事を見守る人々の眼に、立ちのぼる炎、煙、灰というものが仏の姿に見えたのだろうと推測する。

すると蓮如上人は 「 六字の名号はもともと仏なのだから、その仏が仏になられたからといって不思議なことではない。それよりも、罪深い凡夫が、弥陀をたのんで信心ただ一つで仏になるということこそ、本当に不思議なことではないか 」 とおっしゃったという。

ここにマーヒーは、セレンディピティという言葉を味わうことの極意があると考えている。大胆にもセレンディピティという言葉を解説し、その最後に蓮如上人というビッグネームをもってきて、無理に結論づけようとしているのではない。

人間として生まれてきたことの不思議さというものを、いろいろな経典が説いている。たとえば、人間に生まれてくるということは、目が見えない亀が漂流していて浮き上がったら流木に出会ってそれにすがるぐらい珍しいことだと説く教典もある。いろんなたとえ話でこれは語れると思うが、優勝して胴上げされている監督ただ一人が、アパートで起こった殺人事件を目撃するぐらい、ただ生きていること一つをとっても珍しい、不思議なことなんだろう。

 ※ 後の方のたとえは、笹公人さんの短歌から拝借いたしました。

生活実感として、草野球でピッチャーをやっている時、マウンドの上で実に不思議な気持ちになることがある。私は現在はなんちゃってヤンキースで 「炎の敗戦処理」と言われるほどの主力投手の一員になっているが、30歳を過ぎるまで、ピッチャーなんかはやったことがなかった。それが、チーム事情や人との出会いや、たまたまの登板機会など、さまざまなセレンディピティ(ご縁)の積み重ねで投げることになり、それが続いているのだ。つくづく不思議だ。この不思議さにくらべれば、たいがいのことは不思議ではない。

ギターを弾いている時も、マウンド上と同じ気持ちになる。本来なら私はギターなど弾ける者ではないのだが、さまざまなセレンディピティの積み重ねでギターが大事な楽器になっているのだ。

蓮如上人はまた、 「仏法は聞きそうもない者が聞く」 と言われる。

大好きな言葉だ。優等生が勉強してもつまらないが、劣等生が勉強しだすと単純におもしろい。演歌を聴きそうもない人が演歌好きだったり、クラシック音楽を聴きそうもない人がクラシック音楽を聴くというと、興味をもつというか、「何でまた?」という問いを生き生きと出すことになる。背後にあるセレンディピティが招き引くのだろう。


さて、はじめに戻って大修館の『ジーニアス英和辞典』で

serendipity 掘り出し物をみつける才能 掘り出し上手

とだけ定義されているこの言葉だけれど、マーヒーがこの20年以上、思い入れをもって見つめてきたこの言葉の意味は、鑑定団や探検隊が掘り出し物を見つけるような言葉というのではなく、自分自身の心の奥底、意識の底、隠れた才能、ないはずなのにあった信仰心、そういう自分の内を掘り出すのが、このセレンディピティという言葉の意味である、と解釈したい。


マーヒー加藤  草仏教ホームページ
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by kaneniwa | 2006-08-18 02:22 | 草仏教


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