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2007年 01月 23日

超訳徒然草・吉田くんのブログ(第80段)

人ごとに、我が身にうとき事をのみぞ好める。
法師は兵の道をたて、夷は弓ひく術知らず、佛法知りたる氣色し、
連歌し、管絃を嗜みあへり。
されど、おろかなる己が道よりは、なほ人におもひ侮られぬべし。

法師のみにもあらず、上達部、殿上人、かみざままで、おしなべて武を好む人多かり。
百度戰ひて百度勝つとも、いまだ武勇の名を定めがたし。
其の故は、運に乘じてあだをくだく時、勇者にあらずといふ人なし。
兵盡き矢きはまりて、遂に敵に降らず、死をやすくして後、始めて名をあらはすべき道なり。
生けらんほどは、武に誇るべからず。
人倫に遠く禽獸に近き振舞、其の家に あらずば、好みて益なきことなり。

(吉田兼好法師 『徒然草』 第80段)

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みんなそうなのだが、自分の身に関係の薄いことを愛好している。
いくら鎌倉時代だからって僧侶が武術の鍛錬に余念がない。
東国の武士は弓の引き方を知らずに仏法をしっているふりをしちゃっている。
そしてみんな和歌で遊び、音楽に打ち込んでいたりする。
しかし、本業の方をおそろかにしちゃっているから、専門外のことに熟達しても
かえって軽蔑されちゃう。

こういう僧侶だけに限らず、ホワイトカラーでエクゼクティヴな方々まで、
みんなやたらに武術をたしなんでいるなぁ。
もしも百戦百勝したとしても、その武勇伝は決定的ではない。
なぜかというと、波に乗っての敵の粉砕というものは、みんなが勇者なのだから。
武器も果て、矢がなくなっても、最後まで降参しないで平然と死んでしまうぐらいの
ところまでいって、ようやく真の武勇伝を世間にとどろかすというのがセオリーに
なっているぐらいなのだ。

だから、生きている間は武術自慢なんてとんでもないよ。
闘うってことは、人間らしいことではないな。
どちらかといえば鳥とか獣(けもの)に近いことだから、
何も好きこのんでやることはないよ。


超訳BYマーヒー
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by kaneniwa | 2007-01-23 05:17 | 徒然草


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