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2007年 06月 04日

超訳徒然草・吉田くんのブログ(第137段)

花は盛りに、月はくまなきをのみ見るものかは。
雨にむかひて月をこひ、たれこめて春の行衞知らぬも、なほあはれに情深し。
咲きぬべきほどの梢、散りしをれたる庭などこそ見所多けれ。
歌の言葉がきにも、
「花見にまかれりけるに、はやく散り過ぎにければ」とも、
「さはる事有りてまからで」なども書けるは、
「花を見て」といへるに劣れる事かは。
花の散り、月の傾くをしたふ習はさる事なれど、ことにかたくななる人ぞ、
「此の枝かの枝散りにけり。今は見所なし」などはいふめる。

萬の事も、始終こそをかしけれ。男女の情も、ひとへに逢ひ見るをばいふものかは。
逢はでやみにし憂さを思ひ、あだなる契をかこち、長き夜をひとり明かし、
遠き雲井をおもひやり、淺茅が宿に昔を忍ぶこそ、色好むとは言はめ。
望月のくまなきを千里の外まで眺めたるよりも、曉ちかくなりて待ち出でたるが、
いと心ぶかう、青みたるやうにて、深き山の杉の梢にみえたる木の間の影、
うちしぐれたるむら雲がくれのほど、またなくあはれなり。
椎柴、しらがしなどのぬれたるやうなる葉の上にきらめきたるこそ、
身にしみて、心あらん友もがなと、都戀しう覺ゆれ。

すべて、月花をば、さのみ目にて見るものかは。
春は家を立ちさらでも、月の夜は閨のうちながらも思へるこそ、
いとたのもしうをかしけれ。
よき人は、ひとへに好けるさまにもみえず、興ずるさまも等閑なり。
かたゐなかの人こそ、色こく萬はもて興ずれ。
花の本にはねぢよりたちより、あからめもせずまもりて、
酒のみ連歌して、はては、おほきなる枝、心なく折り取りぬ。
泉には手足さしひたして、雪にはおりたちて跡つけなど、萬の物、
よそながら見る事なし。

さやうの人の祭見しさま、いとめづらかなりき。見ごといとおそし、
其のほどは棧敷不用なりとて、奥なる屋にて、酒飲み物食ひ、
圍棊、雙六などあそびて、棧敷には人をおきたれば、
「わたりさふらふ」といふ時に、各肝つぶるるやうに爭ひ走りのぼりて、
落ちぬべきまで簾はり出でて、押し合ひつつ、一事も見もらさじとまぼりて、
とありかかりと物毎にいひて、わたり過ぎぬれば、
「又わたらんまで」といひておりぬ。
ただ物をのみ見んとするなるべし。
都の人のゆゆしげなるは、睡りていとも見ず。
若くすゑずゑなるは、宮仕へに立ちゐ、人の後にさぶらふは、
樣惡しくもおよびかゝらず。
わりなく見んとする人もなし。

何となく葵かけわたしてなまめかしきに、明けはなれぬほど、
忍びて寄する車どものゆかしきを、それか、かれかなど思ひよすれば、
牛飼、下部などの見知れるもあり。
をかしくも、きらきらしくも、さまざまに行きかふ。
見るもつれづれならず。
暮るるほどには、たてならべつる車ども、所なくなみゐつる人も、
いづかたへかゆきつらん、程なく稀になりて、
車どものらうがはしさもすみぬれば、簾、たたみも取り拂ひ、
目の前に淋しげになりゆくこそ、世のためしも思ひ知られてあはれなれ。
大路見たるこそ、祭見たるにてはあれ。

彼の棧敷の前をここら行きかふ人の、見知れるがあまた有るにて知りぬ、
世の人數も、さのみは多からぬにこそ。
此の人皆失せなん後、我が身死ぬべきに定まりたりとも、ほどなく待ちつけぬべし。
大きなる器に水を入れて、ほそき穴をあけたらんに、したたる事少しといふとも、
怠る間なくもりゆかば、やがて盡きぬべし。
都の中に多き人、死なざる日はあるべからず。
一日に一人二人のみならんや。
鳥部野、舟岡、さらぬ野山にも、送る數多かる日はあれど、送らぬ日はなし。
されば棺をひさぐ者、作りてうち置くほどなし。
若きにもよらず、強きにもよらず、思ひかけぬは死期なり。
けふまで逃れ來にけるは、有り難き不思議なり。
しばしも世をのどかには思ひなんや。
ままこだてといふものを雙六の石にて作りて、たて竝べたるほどは、
とられん事、いづれの石とも知らねども、數へあてて一つを取りぬれば、
其の外は逃れぬと見れど、又々數ふれば、彼是まぬき行くほどに、
いづれも逃れざるに似たり。
兵の軍に出づるは、死に近きことを知りて、家をも忘れ、身をも忘る。
世を背ける草の庵には、閑かに水石をもてあそびて、
これを餘所に聞くと思へるはいとはかなし。
しづかなる山の奥、無常のかたき、競ひ來らざらんや。
其の死に臨める事、 軍の陣にすすめるにおなじ。

(吉田兼好法師 『徒然草』 第137段)

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サクラの花というものは満開だけを見るものだろうか?
月は影のない輝く満月だけを見るものだろうか?
雨降る雲の向こうがわにある月に心を寄せ、
すだれを下ろし、その部屋のなかに身をこもらせて、
春が、次第に深まっていくのも知らずに過ごすというもの、
これまたいいもんだと思う。
今にも咲きそうなサクラの木の枝とか、サクラが散ってしおれて残っている
庭なんかは、特に見るべきものがあるよ。
和歌の覚え書きなんかにも
「花見に出かけたけれど早くも散ってしまっていて・・・」とか
「他に用事があってお花見には行けなかったけど・・・」なんて書いてあるのは、
和歌本体の「花を見て」にも劣らないぐらいだ。
花が散り、月が沈んでいくのを見て、哀愁漂う切ない気持ちになることは
当たり前だけど、そういう情緒を理解しない人のなかには、
「この枝も、あの枝も花が散っちゃった。もはや、見るべきものはないね」
なんてことを言ったりする。

月や花に限らず、世の中ことすべては始めと終わりがとてもいいのだ。
男と女の恋愛だって、ダイレクトな関係を結ぶことだけが問題だろうか?
それだけじゃなかろう。
はかなく終わってしまった恋の切なさで胸がいっぱいになったり、
女心のはかなさで遂げられなかった約束を嘆いたりしながら、
長い夜を恋心を抱く相手とはいっしょにいられずに一人で過ごし、
恋人がいる遠いかなたの地を想ったり、
あるいは雑草だらけの庭をながめつつ「あの頃」のことを想ったりすることが、
恋愛に浸りきるということだと思うぞ。
かげりのない満月をはるか遠くの空にながめるよりも、
明け方近くなってやっと出てきた「待っていた月」がブルージーというわけだ。
その青い光が深山の杉の枝の間から見えていたり、その影や時々雨を降らせる雲の
一群に隠れていたりするというのがしみじみと、極めて美しいのだ。
山里の椎の木や樫の木の濡れた葉の上に月の光がキラキラと反射しているのは、
そのことを語りあう友がそばにいたらなぁ、と友がいる都会が恋しくなる。

ところで月でもサクラでも、むやみやたらに目だけで見るものだろうか? 
サクラが満開の春は家から一歩も出ず、
満月の夜は、家にこもっても、
心のなかに月と花をもっているのが粋な人だ。
クールで粋な人は花や月についてやたら愛好するそぶりは見せず、
それをほめたたえる態度もあっさりしている。
それにくらべると、片田舎の人というものは、しつこいほどにもてはやす。
花を見る時もサクラの木の下に体をねじらせて寄り添い、
わき見もせずに見つめ、また酒を飲み、歌ゲームで盛り上がってバカ騒ぎを
したあげくに花が咲いている大きな枝を何にも考えずにもぎ取ったりしちゃう。
そういう人はアウトドアで遊ぶ時にわき水のなかには手足を突っ込んじゃたり、
雪には地面まで降りていってわざわざ足跡をつけちゃったり、
あらゆるものを「そのままながめる」ということができないのだ。

こういう人たちが、下鴨神社の葵祭を見物している様子はものすごく珍妙だ。
「お祭りのパレードが遅れていてなかなかこないのでさじき席にいる必要もないか」
なんて言って、奥にある家で酒を飲んでつまみを食べ、囲碁やギャンブルの
双六ゲームに興じ、さじき席には見張り役を置いているので、その人が
「お祭りのパレードが来たよ!」と言うとみんながビックリ仰天してものすごい
慌ただしさでわれ先にと落ちそうになりながらさじき席にラッシュする。
さじき席でも押しに押し合って一瞬たりとも見逃さないぞという根性でそれを見て、
「ああだこうだ」と何かあるたびにコメントし、パレードが行ってしまうと
「次が来るまではまた奥に居ようよ」と言ってさじき席からは降りてしまう。
これは、ただ単に祭りのパレードだけを見ようと思っているのだろう。
ネイティブ京都人は眠ったままであって、何も見ようとはしない。
若者たちは、VIPへのサービスに行ったりしているし、VIPのお世話をしている
人たちは前に乗り出したりなんかはしないで、無理をして祭のパレードなんか
見ようとはしないのだ。

葵祭の日の始まりには、誰かが決めたわけじゃなく何となく決まったことなんだけど
葵の葉っぱを一帯にかけて優雅な感じがする場所に、まだ夜が明けきらないような
時間帯に見学する。
こっそりと見物場所に寄せる車にはどんなVIP乗るのかをあの人かな?と想像し、
思いをめぐらしていると運転手や秘書に顔見知りなんかもいたりする。
それで自分の推測が当たっていたりすることを喜ぶ。
また、キレイに飾られた車がそまざまなエクステリアで流れていくのを見ることが、
これが全然飽きないんだな。
それから葵祭の最終日が暮れる頃になって、
あんなに並んでいた車も、群衆もどこへ行ってしまったのだろうか? 
そのうち、人もまばらになって、帰りの車の渋滞も終わってしまうと、
すだれや敷物(ゴザ)なんかもすっかり片づけられて目の前の風景がさびしくなって
いくのを見つめていると、仏教の教えでもある
「お盛んなものは必ず衰える」という諸行無常の道理なんかを実感しちゃって
しみじみ感慨にふけっちゃう。
祭りを見るよりも、メインストリートの一日を追うということが、
実は祭を本当に見ているということなんじゃないかと思う。

そのさじき席の前を行ったり来たりする人のなかに、知り合いがたくさんいたので、
ふと感じたのことなのだが、人口というのは思ったほど多くないね。
たとえ、今見えているこの人たちがみんな死んでしまった後であっても、
自分だけは死ぬはずはないし死にたくはないと思っていたとしても、
もうすぐ、その時はすぐに来てしまうだろう。
大きな器のなかに水を入れて、いくら細いとはいっても穴があったとしたら、
水滴は少しずつだからといっても休むことなくこぼれているのだから、
いつか水はなくなるさ。
京都で人が死なない日なんて一日もない。
それも毎日、一人、二人というような人数ではない。
京都の墓地や火葬場として有名な鳥部野や舟岡、それからその他の場所で、
人を見送らない日なんて一日だってありゃしない。
だから、棺桶を売る人は、リサイクルをしていて作ってそのまま置いておくという
ことができない。
若いとか体が丈夫だとかも関係なく、
思いがけないことというのは人間の死ぬ時のことだ。
今日まで生きてこられたことが、実は奇跡の積み重ねのような不思議なことなんだ。
だから、この世の時間というものを、のんびりと先が長いものだと思うことなんかは
できない。

碁石を使った算術を応用した双六ゲームがあるけれど、
最初のうちは取られるのはどの石かわからないけれど、
あの石をとってやろうという戦略をたてて、その戦略が思うとおりに
なった時は自分の石は取られないようにおもうけれども、
次々に計算していくと、どの石も取られていく宿命にあることに似ている。

戦陣に出ていく武士は死が近いことを知って自分の家のことも忘れ、
自分の身のことさえ忘れる。
世間から離れて草庵に隠居してしまった者が、安閑として
水の流れや石を鑑賞したりして、死の到来というものが自分と無関係のように
気分でいることはとても頼りなくて見ていられない。
閑静な山奥の別荘にだって「諸行無常」という敵が勢いよく攻め込んできている。

人が死と直面するということは、武士が戦陣に進み出ていることと同じなんだ。


超訳BYマーヒー
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by kaneniwa | 2007-06-04 15:50 | 徒然草


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