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2007年 06月 21日

松田デミ男くん物語(6) 仏壇と車のベクトル

b0061413_043617.jpgというわけで、松田デミ男くんがうちにやって来たまでの経緯を説明するのに、すでに5話を費やすことになってしまった。 松田デミ男くんは10年近く使いこなした純粋な愛着と同時に、初めて個人ではなく家族としての私たちを乗せた車として長く記憶にとどまっていく。 

さて、今となっては昔の話だが「仏壇に代わって、家庭の中心にテレビが置かれるようになってしまった」という嘆きのご法話を何度も耳にしたことがある。今はそういうことを言う人もいないし、いるとすれば認識に相当大きなズレがある。今のテレビはそれにつながれたゲーム機やDVDも含めて、すっかりパーソナル色が強い物体である。テレビが家庭の中心だと言えるような時代は昭和30年代から始まって、昭和と呼ばれた時代が終わる頃・・・いや、もうちょっと期間は短いかな・・・マーヒーの実感としては家族そろって『ドリフの8時だよ全員集合』を見て爆笑していた頃までが家庭の中心にテレビがあったような時代で、ドリフを駆逐した『俺たちひょうきん族』なんかで笑っていた頃は、もうテレビは家庭の中心なんていう意見は古い認識のように思っていた。


仏壇の果たすべき役割にとって代わっているのが車であるというのがマーヒーの説である。
その説の前提になっているのが、数学でいうベクトルのような「方向性」という観念である。
仏壇というのは、列座した家族や知人が同じ方向を仰ぐことに大きな意味があるように思う。
そこに向かって未来を展望すると同時にしっかりと過去を確認し、その過去と未来の
狭間にある今の自身を内観し、道を歩むのだ。

この仏壇が果たす役割にとって代わっているのが車だ。だいたい車は道を歩む道具である。
その道具に内包される家族や知人は、キャンピング・カーでもない限りは同じ方向を向く。
車の後方には過ぎていった過去があり、前方には進むべき未来がある。
同じ方向を向きつつ歩みをすすめていく役割、それを車というものが無意識のうちに
担っているのだ。

車のなかで非常に大事な話をしたという経験のある人は、マーヒーの
想像以上に多いのではないだろうか?読んでいてドキッとした方はいませんか?

ブログを読んでくださっている方のなかには車を運転しない人も、特に都会には多いと
思うので、特にプロのカップル(夫婦)を目指すアマチュアのカップルの皆さんに
今回の「マーヒーの法則・仏壇と車のベクトル論」を恋愛のプラグマティズム的実践に
活用していただくとすると、「見つめ合うより同じ方向を見よ」という言葉に凝縮できる。

演劇なんかを見ていても、若い男女が向かい合うシーンというものは、
抱き合うようなシーンの印象ばかりがどうしても強くなってしまうが、
向かい合うことの本質は激しい対立を筆頭に、お互いのぶつかり合いや、
互いのアラを探り合うような場面ではないだろうか。
それに対して、未来(夢)を語り合うようなシーン、
しみじみと過去を共に回想するシーンでは男女は同じ方向を向くようだ。

つまり、マーヒーの言いたいことは、これはと思う人とこれはと思うような話を
したい時には、向かい合うフレンチレストランのようなところに行くよりも、
焼鳥屋さんでもいいからカウンターに同じ方向を向いて座った方がいいよ。
風水なんかよりもよっぽど頼りになる方向性のご利益というものがあるよ。
もっとも、ネイティブ・アメリカンの「7番目の方角」の伝承の言葉にあるように、
最終的にいちばん大事な方角は、自分自身の心の奥底に向かうという方角
なんだと思ったりするのだけれども・・・

ありゃ、何の話だったけ?

とにかく、惰性になってきた感はあるが、第7話に続くのであった。


※浄土真宗では仏壇のことを「お内仏」(おないぶつ)と呼称するのですが、
  このブログ記事では浄土真宗に限らずに広く一般的な車文化論とも重なる
  部分について問題提起したかったので、仏壇という広く知られている呼称を
  使いました。


マーヒー加藤
  
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by kaneniwa | 2007-06-21 00:06 | 草評


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