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草仏教ブログ

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2007年 08月 25日

超訳徒然草・吉田くんのブログ(第157段)

筆を取れば物書かれ、樂器をとれば音をたてんと思ふ。
盃をとれば酒を思ひ、骰子を取れば攤うたんことを思ふ。
心は必ず事に觸れて來る。
かりにも不善の戲れをなすべからず。

あからさまに聖教の一句を見れば、何となく前後の文も見ゆ。
率爾にして多年の非を改むる事もあり。
かりに今此の文をひろげざらましかば、此の事を知らんや。
是れ即ち觸るる所の益なり。
心更に起らずとも、佛前にありて數珠をとり經をとらば、
怠るうちにも善業おのづから修せられ、散亂の心ながらも繩床に坐せば、
覺えずして禪定なるべし。

事理もとより二つならず。
外相若しそむかざれば、内證必ず熟す。
しひて不信を云ふべからず。
仰ぎて是を尊むべし。

(吉田兼好法師 『徒然草』 第157段)

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筆を手にすれば自然と何かを書くし、楽器を手にすれば音を出そうと思う。
盃を手にすれば酒のことを考えるし、
サイコロを手にすればギャンブルのことを考える。
人間の妄念・妄想は、必ず何かの実体に基づいてわき起こってくる。
だから、かりそめでも冗談でも、イケナイ遊びをしちゃダメ。

かりそめでも経典のワンフレーズでもいいから拝読していると、
何となくその前後に書いてあることも目に映ってくる。
それで、思いもよらずに長年の思い違いや考え違いが改められるということもある。
仮にでも、その経典を開かなかったら、この考え違いのことにさえ気がつかなかった。
これも、手にとってみたことのおかげによる作用なのだ。
信じる心が全然わき起こらなかったとしても、
仏前で数珠を持って経典を手にとれば、ダルそうでいい加減だったとしても、
それは理想の所作をしていることなのだから、
ものすごく浮ついた心そのままでも、知らないうちに、何かすごいことになるだろう。

この世に起きる現象と真理というものは、
全然ちがっているのだけれど最初から二つ別のものがあったのではなくて
元来は一つのものだった。
外見だけじゃないけれども、外見が真理のあるべき姿とそんなにズレていない
ならば、内心もそれを感じて必ず成熟してくるものなのだ。
「見てくれだけかよ」なんていう信仰問題を言うべきじゃない。
むしろ、そういう型や所作をしている人のことは敬って尊重しなければ。

超訳BYマーヒー

by kaneniwa | 2007-08-25 00:24 | 徒然草


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