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2008年 03月 04日

超訳徒然草・吉田くんのブログ(第194段)

達人の人を見る眼は、少しも誤る所有るべからず。

例へば、或人の、世に虚言を構へ出して人をはかる事あらんに、
すなほにまことと思ひて、いふままにはからるる人あり。
あまりに深く信をおこして、なほわづらはしく虚言を心得そふる人あり。
又何としも思はで、心をつけぬ人あり。
又いささか覺束なくおぼえて、たのむにもあらず、
たのまずもあらで、案じゐたる人あり。
又まことしくは覺えねども、人のいふ事なれば、
さもあらんとてやみぬる人もあり。
又さまざまに推し、心得たるよしして、かしこげにうちうなづき、
ほほゑみてゐたれど、つやつや知らぬ人あり。
又推し出して、あはれさるめりと思ひながら、
なほあやまりもこそあれと、怪しむ人あり。
又異なる樣もなかりけりと、手を打ちて笑ふ人あり。
又心得たれども、知れりともいはず、覺束なからぬは、
とかくの事なく、知らぬ人と同じやうにて過ぐる人あり。
又此の虚言の本意をはじめより心得て、少しもあざむかず、
構へ出したる人と同じ心になりて、力を合する人あり。

愚者の中の戲だに、知りたる人の前にては、此のさまざまの得たる所、
詞にても顏にても、かくれなく知られぬべし。
まして、明かならん人の、惑へる我等を見んこと、掌の上の物を見んが如し。
但し、かやうの推しはかりにて、佛法までをなずらへ云ふべきにはあらず。

(吉田兼好法師 『徒然草』 第194段)

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ウソを見破るプロが人をみる眼は少しも間違ってはいないだろう。

例えば、あるストーリーテラーが作り話を作って世に流行らせて
人をだましてやろうとそした場合だが、
そんなバカ話をあまりにも素直に本当のことだと思って、
そのまま信じる人がいる。
また、少しも疑わないまま、さらにそこにとんでもない脚色を
加えてしまうという人もいる。
また、そんなバカ話を聞いても何とも思わず、まったく関心をはらわない人もいる。
それから、バカ話をうさんくさいとは感じつつも、
それを信じるでもなく疑うでもなく、考え込んじゃう人もいる。
また、「そんなのウソだぁ」とは感じてはいるが、人が言っていることなんだら
まあその通りなんじゃないかなぁとそのままにしておく人もいる。
また、色々と想像力をはたらかせて、さらに知ったかぶりをして、
お利口ちゃんに見えるようにうなずいて、笑ったりしているのだけれど、
実は何にもわかっちゃいないという人もいる。
それから、想像力をはたらかせて「んなアホな」と看破するのに、
自分の想像力の方が間違っているのかもしれないと、
疑う自分を疑っちゃう人もいる。
それから「そういうことってあるよね」と手をたたいて笑う人もいる。
まだまだ、それから、
ウソだとわかっているけどハッキリと「わかった」とは言わず、
自分の知っていいることは口に出さずにファジーにしておき、
わざとだまされているド素人と同じ態度をあえてとる人もいる。
また、ストーリーテラーの意図をよく理解し、しかも意向にそって
矛盾点はあえて少しも追求しないで、ストーリーテラーと同じ立場で
人をだます協力をしてしまう人だっている。

愚か者たちのたわむれにさえ、
そのウソを見破った人の前では、
それぞれの人間の本性が言葉にも顔の表情にもにじみ出てくる。
まして、ウソを見破れる人から見れば、
迷っているわれわれを見抜くことなんて、手のひらの上のものを見る
ぐらいに簡単なことだ。
ただ、こういう推測で、仏さまの教えまでウソだと考えちゃうことは厳禁。


超訳BYマーヒー

by kaneniwa | 2008-03-04 23:54 | 徒然草


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