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2008年 06月 11日

思いもよらぬところからの死刑廃止論

これから先、6月8日という日を忘れられないかもしれない。

2001年大阪教育大学付属池田小学校に乱入した
宅間守 (名前にこめられた願いと正反対のことをした) 
の児童殺傷事件。

日本の、家庭も含めたあらゆる教育現場に、
あきらかにこの事件前と事件後があると思う。

「世の中が嫌になった、死にたい」
という、一昨日の秋葉原通り魔事件の加藤智大
(同じ名字だなぁ・・・そして、名前にかけられた願いと正反対のことをした)
と同じようなことを言い、

そして、被告としての宅間守は極刑の確定から、
異例の早さで死刑が執行されたのだった。

「死にたい」・・・という自分勝手な願いをはからずもかなえてしまっているという
皮肉な面が、どこかにあるのではないだろうか。

小学生の娘と息子をもつ親として、やりきれない気持ちであることは
もちろんとして、死刑制度があったから、死刑になりたがる大馬鹿者の
殺人鬼に、罪のない夢と将来のある8人の子どもが命をうばわれてしまった
とういう大きな不条理があるのではないだろうか。

「死にたい」 という自暴自棄を、
良心の呵責(かしゃく)に深夜にうなされてしまう刑務官の
人たちの介添えを得て、かなえてしまっているという面が、
あるのではないだろうか。

同じ6月8日の歩行者天国を地獄にした惨劇も、
直接的には戦争をしていない国で
阿鼻叫喚地獄をつくった鬼となった25歳は
覚醒剤もやっておらず、
ドラッグもシンナーもやっておらず、
事件の時には一滴の酒さえ入っていなかった。
「暴力団員」という名のりさえ、
暴力団の事務所からの愚痴が
聞こえてきそうな嘘だった。

そして最近ではまったく驚かなくなったが、
エリートと言われる道筋を歩んできた者だった。


もともと、死刑制度にはさまざまな理由で反対だが、
そこに、あたらな、思いもよらなかった新しい理由が生まれた。

今の刑法もまったく想定していなかった者の存在。
死刑を望んで事件を起こす者の存在だ。

加藤智大をこの世からすぐに社会から切除したとしても、
その因縁の深さにふれないうち、その狂気はすぐに転移する
のではないだろうか。

死刑制度に反対する理由のうち、これは本来は好き嫌いで
論じるような問題ではないのだが、
「先進国で廃止されているから」 という理由は好きではない。

確かに、多くの国々で死刑制度が論じられた上で廃止されて
いる流れ(ムーブメント)はある。
ただ、そこに 「先進国」 という耳に心地よい響きや
妙なエリート意識やコンプレックスが感じられる。

「先進国」とはまず呼ばれたことがないバヌアツやルワンダ、
ナミビア、トルクメニスタンなど多くの国々で死刑がないのだ。

ネパールでは1997年に
ブータンでは2004年に死刑制度が廃止された。

多くの国や州などの地域で、死刑が論じられて廃止されるなか、
私が強く意識しておきたいのは宗教と宗教文化の存在だ。

イエス・キリストを十字架にかけたことがある人類の歴史を
忘れないキリスト教の文化をもつ国々はもちろん、
一般刑法とは、政教分離の考えが働いて、むしろ距離を
おこうとするなかで、死刑に関してだけは宗教的な論議が
欠かせないプロセスを経ているように思う。

死刑制度を廃止するためには、国会での議決はもちろん、
宗派は問わず、その国の宗教と宗教文化への強い信頼が
なければできないことではないかと思う。

マーヒー加藤の責任も重い。



マーヒー加藤
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by kaneniwa | 2008-06-11 06:50 | 草評


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