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草仏教ブログ

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2008年 12月 01日

超訳徒然草・吉田くんのブログ(第238段)

御隨身近友が自讃とて、七箇條書きとどめたる事あり。
皆馬藝、させることなき事どもなり。
其のためしを思ひて、自讃の事七つあり。

一 人あまたつれて花見ありきしに、最勝光院の邊にて、をのこの馬を走らしむるを見て、
  「今一度馬を馳するものならば、馬倒れて、落つべし。しばし見給へ」
  とて、立ちどまりたるに、又馬を馳す。
  とどむる所にて、馬をひき倒して、乘る人泥土の中に轉び入る。
  其の詞の誤らざる事を、人皆感ず。

一 當代未だ坊におはしましし比、萬里小路殿御所なりしに、
  堀川大納言殿伺候し給ひし御曹子へ、用ありて參りたりしに、
  論語の四、五、六の巻をくりひろげ給ひて、
  「ただ今御所にて、紫の朱うばふことを惡むと云ふ文を御覧ぜられたき事ありて、
   御本を御覧ずれども、御覧じ出されぬなり。なほよくひき見よと仰せ事にて、求むるなり」
  と仰せらるるに、
  「九の巻のそこそこの程に侍る」
  と申したりしかば、
  「あな嬉し」
  とて、もて參らせ給ひき。
  かほどの事は、兒共も常の事なれど、昔の人はいささかの事をも、いみじく自讃したるなり。
  後鳥羽院の御歌に、
  「袖と袂と、一首のうちに惡しかりなんや」
  と、定家卿に尋ね仰せられたるに、
  「秋の野の草の袂か花薄穗に出でてまねく袖と見ゆらん、と侍れば、何事かさふらふべき」
  と申されたる事も、
  「時に當りて本歌を覺悟す。道の冥加なり、高運なり」
  など、ことごとしくしるしおかれ侍るなり。
  九條相國伊通公の款状にも、異なる事なき題目をも書きのせて、自讃せられたり。

一 常在光院のつき鐘の銘は、在兼卿の草なり。
  行房朝臣清書して、いがたにうつさんとせしに、奉行の入道、彼の草を取り出でて見せ侍りしに、
  「花の外に夕を送れば聲百里に聞ゆ」
  と云ふ句あり。
  「陽唐の韻と見ゆるに、百里誤か」
  と申したりしを、
  「よくぞ見せ奉りける。おのれが高名なり」
  とて、筆者の許へいひやりたるに、
  「誤り侍りけり。數行となほさるべし」
  と、返事侍りき。數行も如何なるべきにか。
  若し數歩の心か、覺束なし。

数行なを不審。數は四五也。鐘四五歩不幾也。ただ遠く聞ゆる心也。

一 人數多伴なひて、三塔巡禮の事侍りしに、横川の常行堂の中、龍華院と書ける古き額あり。
  佐理、行成の間疑ありて、未だ決せずと申し傳へたりと、堂僧事々しく申し侍りしを、
  「行成ならば裏書あるべし。佐理ならば裏書あるべからず」
  といひたりしに、裏は塵つもり、蟲の巣にて、いぶせげなるを、よく掃きのごひて、
  各見侍りしに、行成位署名字、年號、さだかに見え侍りしかば、人皆興に入る。

一 那蘭陀寺にて、道眼聖談義せしに、八災と云ふ事を忘れて、
  「是やおぼえ給ふ」
  といひしを、所化みな覺えざりしに、局の内より、
  「是々にや」
  と云ひ出したれば、いみじく感じ侍りき。

一 賢助僧正に伴なひて、加持香水を見侍りしに、未だ果てぬほどに、
  僧正歸りて侍りしに、陳の外まで僧都みえず。法師共を返して、求めさするに、
  「同じさまなる大衆多くて、え求めあはず」
  といひて、いと久しくて出でたりしを、
  「あなわびし。それ、求めておはせよ」
  といはれしに、かへり入りて、やがて具して出でぬ。

一 二月十五日、月あかき夜、うち更けて千本の寺に詣でて、後より入りて、
  ひとり顏深くかくして聽聞し侍りしに、優なる女の、姿、にほひ、人より異なるが、
  わけ入りて膝にゐかかれば、にほひなども移るばかりなれば、
  便惡しと思ひて、すりのきたるに、なほゐよりて、同じ樣なれば、たちぬ。
  其の後、或御所ざまの古き女房の、そそろごといはれしついでに、
 「無下に色なき人におはしけりと、見おとし奉ることなん有りし。情なしと恨み奉る人なんある」
  とのたまひ出したるに、
  「更にこそ心得侍らね」
  と申してやみぬ。
  此の事、後に聞き侍りしは、彼の聽聞の夜、御局の内より人の御覧じ知りて、
  さぶらふ女房を、つくりたてて出だし給ひて、
 「便よくは、言葉などかけんものぞ。其の有樣參りて申せ。興あらん」
  とて、はかり給ひけるとぞ。

 (吉田兼好法師 『徒然草』 第238段)

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SP(警備員)で乗馬の名手である近友が自画自賛の七項目を箇条書きにした。
みんな馬術に関してのことで、どうでもいいようなことばかりである。
でも、その前例にならって、私も自慢したいことが七つある。

 一、 大勢で花見をしにブラブラ歩いていると最勝光院(今の三十三間堂のなかにあった)
   の近くで、男が馬を走らせているのを見て、
   「もう一度馬を走らせたりしたら、馬は転倒してあいつは落馬するでしょう。しばらく注目!」
   と私(吉田)が言って一同で立ち止まったところ、男がまた馬を走らせた。
   そしたら馬をストップさせる時に手綱をひき損なって馬を引き倒してしまい、
   騎乗していたその男はぬかるみの中にころがり落ちた。
   私の予言は的中したので、同行の大勢の人々が感心していた。

 一、 今の天皇がまだ皇太子だったころ、万里小路殿という所が東宮御所だったときに、
    源具親(みなもとのともちか)という大納言がいらっしゃって、その控え室に用事があった時だ。
    大納言は『論語』の四巻・五巻・六巻をおっぴろげて参照しながら、
   「あ、吉田くん、ちょうどいい。今、皇太子さまが、
   『昔はレッドが重んじられたのに、パープルが尊い色とされてきて
    レッドやオレンジ系統の色が軽んじられているのが悲しい』ということを孔子が言ったとか
    言わなかったとかいう文章を読みたいという話があって、本をめくって検索をしてみたけれども、
    全然見つからないんだよ。
    『もっとよく検索してみなさい』
    と言われて探しているのだよ」
    と言うので、私(吉田)が、
   「それは九巻のあの辺にありますよ」
    と答えたら、
   「ラッキー! 助かったなぁ。」
   と言いつつ、その本を持って皇太子のもとへすっ飛んでいった。
   こんなことは、子供でも知っているごくあたりまえのことだけれども、
   昔の人なんかはものすごく些細なことでも自慢したものだ。
   後鳥羽上皇の歌で
   「ソデという言葉とタモトという言葉を同じ一首の歌の中に読み込むのは悪いかな?」
   と藤原定家に質問したところ、定家は
  「古今集という超スタンダードなソング集のなかにも、
      秋の野が もし着物だと するならば、
      ススキはまるで ソデであり
      稲穂はタモト みたいなの
   という歌があるぐらいなので、まったく問題ありません」
  と答えたことを
  「大事な局面で覚えていた和歌がベスト・アンサーを導いた。
   歌といっても和歌であるが、ミューズ(歌の女神)のご加護のようだった。ラッキー!」
  と、大げさに書き残しているぐらいだ。
  藤原伊通が朝廷に差し出した経歴書にも、
  つまらない自画自賛のどうでもいい自慢話が
  長々と書かれていた。

 一、常在光院の梵鐘の表面に刻まれた文字は菅原在兼が下書きしたものである。
   藤原行房が清書をして、鐘の銅を溶かして入れる鋳型に取ろうとしたときに、
   その場を任されていた僧侶が、その清書を取り出して私(吉田)に見せると、
  「鐘の音が 花と夕陽を見送って 夜を告げつつ 百里は響く」 
   と漢文で書いてあった。
   私(吉田)が
  「漢文の韻のふみかたとしては、百里 というのは違うんじゃないの?」
   と言ったら、
  「吉田兼好大先生に見てもらったのは私の好判断だった!」
   と幹事は言って、草稿を書いた菅原在兼のもとへ伝令を出したのだが、
  「わたしの間違いだ。百里 という言葉を、数行 という言葉にしてください」
  という返事が返ってきた。
  数行っていったいどれぐらいの距離だ?
  数歩なんていう意味なんだろうか?
  なんだかおかしいが、これがホンマの五十歩百歩ということか?

 一、またまた大勢で比叡山延暦寺の東塔、西塔、横川(よかわ)の三塔をお参りしたときのことである。
   横川の念仏三昧堂に「竜華院」 と書いてある古い額があった。念仏三昧堂の僧侶が
  「この書の書き手は書道の名人である藤原佐里(すけまさ)が書いた物か
   藤原行成(ゆきなり)が書いた物か、どちらかが書いた物と言われていますが、
   まだはっきりしていないそうです」
   と、もったいぶって言うので、私(吉田)は、
  「行成が書いたのなら裏書きがあるだろうし、佐理が書いた物ならばそんなのはないだろう」
   と言った。額の裏はチリが山のようになっていて、クモの巣が張っていて
   ものすごく汚らしいことになっていたが、よく拭き取って一同で拝見したところ
   行成の官位・姓名・書いた日付がはっきりと見ることができたので、みんな感心した。

 一、那蘭陀寺(ならんだじ)で道眼上人がご法話をした時に、
   人の心を惑わして禅定に入るのを妨げる八つの災いということにふれた時に
   ど忘れをされて、「だれか八災の8つを覚えている奴はいないか?」
   と言ったのだけど、そこの弟子のなかで覚えている者はいなかった。
   私が隣の仕切られた部屋からプロンプターになって
   「八災って、あれとあれとあれでしょう」
   と言ってやったら、そのご法話人を聞いていた人や弟子たちはみんな感心した。

 一、賢助僧正のお供として加持香水の儀式を見学していたとき、
   まだ儀式は終わっていないというのに僧正は式場から出て帰ってしまった。
   外に出てみると、僧正のお供をしていた僧都の姿も見あたらない。
   弟子の僧侶たちを式場にひき返させて探してもらったのだが、
  「みんな同じような僧侶の衣装なので、とても探せません。見つけられませんでした。」
   と、言っていた。ずいぶん時間を喰ったみたいだ。
  「困ったなぁ。吉田くん、あなたが探してきなさいと」
   言われて、私が式場に行ったらすぐに僧正を連れてきた。

 一、二月十五日、お釈迦さまが入滅されたといわれる日、満月の明るい夜のかなりふけた頃、
   千本釈迦堂にお参りに行き、大勢がいるなかの後部から入って、この時はツレはおらず一人で、
   顔を頭巾で隠してお経の解説を拝聴していたところ、
   いい香りがする絶世の美女が聴衆の間人を押しよけて入ってきて、
   私(吉田)の膝に寄りかかって座る。
   そんな女の人の香水の匂いがうつってしまうと誤解されるとおいもって、
   膝をシェイクして避けてみたところ、それでも美女は私の方に寄り添ってくる。
   仕方ないのでその場から退出してしまった。
   その後、宮内庁職員のベテラン女官とどうでもいい話をしていた時に、
  「あんさん、ヤボな男どすなぁ。がっかりどすえ。
   あんさんのこと、つれないお方やなぁと恨んでおられる方がおますのえ。」
   などと言ったので
  「何のこっちゃ?」
   と答えてそのままにしておいたことがあった。
   後から聞いたことには、あの千本釈迦堂の夜は、
   私の姿を見かけて気になった人がいて、秘書の女性に念入りに化粧をさせ、
  「上手くいったら吉田くんに言葉なんか投げかけてみてね。
   その様子を後で克明にレポートしてね。
   このドッキリカメラ的な遊び、おもしろいでしょう?」
  と言いつけた陰謀だったのだ。

  超訳BYマーヒー  

by kaneniwa | 2008-12-01 06:20 | 徒然草


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