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2007年 03月 18日 ( 2 )


2007年 03月 18日

正座について考える (3)

b0061413_2347399.jpg本来は、正座についてのお話で書くべき話題ではないのかもしれない。たまたま左ひざに炎症を起こしたついでに書くべき話ではないのかもしれないが、私の所属する善良寺という寺院では、10年ほど前から畳に置けるタイプの椅子が70脚用意されている。一応これで、それ以上の人数が集まる行事や葬儀を除いて、参集される方に長時間の正座を強いるということはない。参集される方の人数に合わせ、この椅子をセッティングさせていただくという方式をとっている。それまでにも、足の具合が良くない方のために、10脚ほどの椅子は常備されていたのだが、どうしても椅子を使われる方は遠慮がちに最後尾に座られていたなぁと、今になってはっきりと思えてくる。

新潟県の十日町市に西永寺という真宗大谷派の寺院がある。この寺院をある研修会のための会場としてお借りしたことがあるのだが、この寺院は福祉活動にたいへん力を入れていらっしゃる寺院であり、住職の渡邊さんとお話させていただいたのだが、この渡邊さんのキャラクターが強烈ながら何とも素晴らしく、マーヒーの稚拙な文章では、とても渡邊さんの素晴らしさを表現できないと思うのだが、とにかくこの住職さんは自分の苦労話を爆笑しながら語られるのだ。苦労話というものは、自慢とかに結びつけられるとかえって不快になることもあるのだが、この住職さんの苦労話というのはそういうものとは別格で、ウジウジと考え悩んで一歩も踏み出せなかった時代の自分自身のことを底抜けに明るく笑いとばしながらされるのだ。理屈ぬきに、私も同行した門徒(檀家)さんも、すっかりこの住職さんの人柄に魅せられてしまった。そして、次々に西永寺という場にやって来られる門徒さんやいろんな分野の関係者の方々と、椅子を囲んで談笑されるご住職の姿が生き生きとしたものとして写った。

その数日後、その研修会に同行していただいたあるご門徒さんが、寺院に70脚の椅子を匿名で寄付したいと申し出た。こう書くと大変に失礼な表現になってしまうが、その方は決して経済的に恵まれた方ではない。

椅子が導入され、善良寺の仏事のほとんどが「みんなで座る」というスタイルになった。(原則として僧侶だけは正座) 足の具合の悪い方はもちろん、正座に慣れない若い人たちもたいへん喜ぶ。その時になって初めて気がついた。今まで、足の不自由な方や正座が苦手な人だけが椅子を使えば問題はないと思っていたが、特に浄土真宗の仏事というスタイルでは「みんなで座る」ということがいかに大切なことであったかに。時には、法事の後で椅子に座ったまま、亡くなった人についての談話をそのままするという機会も増えた。もちろん、今の時代でもたまに「正座がいちばん落ち着く」という方もいらっしゃるので、そういう場合は正座していただいてもいい。

「進んだ考えのお寺ですね」「斬新ですね」などとおほめの言葉をいただくと、「いいえ、そうではありません・・・」と言いながら、遠く足元にも及ばないし、形やキャラだけを真似てもいけないが、このマーヒーもいつかはあの渡邊さんのように、自分自身を笑い飛ばせるような人になりたいと、心底から思うのだ。

マーヒー加藤
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by kaneniwa | 2007-03-18 23:46 | 草評
2007年 03月 18日

超訳徒然草・吉田くんのブログ(第108段)

寸陰惜しむ人なし。これよく知れるか、おろかなるか。
おろかにして怠る人のために言はば、一錢輕しといへども、
是を重ぬれば、貧しき人を富める人となす。
されば、商人の一錢を惜しむ心切なり。
刹那覺えずといへども、これをはこびてやまざれば、命を終ふる期忽に至る。

されば道人は、とほく日月を惜しむべからず。
只今の一念、空しく過ぐる事を惜しむべし。
若し人來りて、我が命、明日は必ず失はるべしと告げ知らせたらんに、
今日の暮るる間、何事をか頼み、何事をか營まん。我等が生ける今日の日、
何ぞ其の時節に異ならん。
一日のうちに、飲食、便利、睡眠、言語、行歩、止む事を得ずして多くの時を失ふ。
其の餘りの暇幾ばくならぬうちに、無益の事をなし、
無益の事をいひ、無益の事を思惟して時を移すのみならず、
日を消し、月を亙りて一生を送る、尤もおろかなり。

謝靈運は法華の筆受なりしかども、心常に風雲の思を觀ぜしかば、
慧遠白蓮の交を許さざりき。
暫くもこれなき時は、死人に同じ。
光陰何のためにか惜しむとならば、内に思慮なく、外に世事なくして、
止まん人は止み、修せん人は修せよとなり。

(吉田兼好法師 『徒然草』 第108段)

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わずかな時間を惜しむ人がいない。
わずかな時間を惜しむ必要はないと達観しているのか、
それともバカだからわからないのか。
そのバカのために苦言を呈するならば、一銭なんてたわいない額であるが、
これが積み重なったら、貧乏人も大金持ちにさせてしまう。
だから商人が一銭たりともムダにしない気持ちはマジである。
一秒より短い時間ははっきりと意識できなくても、その時間を次々に経過させて
しまっては、あっという間に生涯を終える瞬間がやってきてしまう。

だから仏道の修行者は、長い月日の経過を惜しんじゃいけない。
今、この瞬間が空しく過ぎていくことを惜しまなくちゃダメだ。
もしも怪しい誰かがやってきて、「あなたの命はまずもって明日まで」と告げにきたら、
今日の日が暮れるまで、何をあてにして、どんなことをセッセとするだろうか。
私たちが生きている今日この日も、どうして人生最後の日ではないと証明できるのだろう。
しかもその一日のうちに、ご飯、おトイレ、睡眠、会話、散歩などに多くの時間を割く。
それらに費やして余分な時間は少ししかないのに、ムダなことをして、
ムダなことを言い、ムダなことを考え、そうやってムダな一日を過ごすだけでなく、
日々を過ごして月々を経過させ、一生を送るのは実に愚かだ。


中国の詩人である謝霊運は法華経の翻訳を書いたほどの人だったけれども、
心の中ではいつでも風雲の風景が浮かび、それをながめて楽しんでいたので、
高僧である恵遠は、自分の教団である白蓮社に仲間入りすることを許さなかった。
少しの時間でも惜しいと思ってする気がないのならば、生きていても死んでいるのと
変わらない。では、どうして時間を惜しまなくてはいけないかというと、
心の中であれこれと思い考えることはせず、外には雑用がないようにして、
悪いことを考えている人はそれをやめちゃって、
いいことを実行しようと思う人はやっちゃいなということである。

超訳BYマーヒー
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by kaneniwa | 2007-03-18 00:12 | 徒然草