カテゴリ:草仏教( 161 )


2015年 10月 27日

草仏教掲示板(87) ☓(ペケ)を少し変えれば+(プラス)になる

b0061413_0542469.jpg ☓(ペケ)を少し変えれば+(プラス)になる まずは昨日のニュースであるが 人文社会科学系、教員養成系学部の廃止や組織見直しを求めた6月の文部科学相通知に対し、信州大など国立大17校の人文系学部長でつくる会議は26日、「人文社会科学の軽視は、わが国における人的基盤を根底から揺るがしかねない」と抗議する共同声明を文科省に提出した。(青字部分は毎日新聞より抜粋)という。声明を受け取った文部科科学省の担当者は「誤解を与える表現だった」と陳謝するとともに「人文社会科学系を根こそぎなくす考えはない。廃止はゼロにするのではなく、スクラップ・アンド・ビルドの意味だ」と強調した。(同じく青字部分は毎日新聞より抜粋)というがまずは誤解を与えるような表現しか書けない文章力を反省してもらいたい。 教育について論評できるような柄ではないものの、合理性と成果主義(それも結果をすぐに求めすぎ)をもとに大学を作りかえてみても成果が上がりそうな◯(マル)の側の人間をより◯(マル)が多く取りやすい人に育てて社会に送り込むだけでは教育というものが本来もつダイナミズムに欠けるなぁ。霞ヶ関文学の格調の高さとは対極的な文章だが「◯(マル)を◯(マル)のままで卒業させるっちゅうのは、教えて育てたことにはならんでしょう?☓(ペケ)の角度なり視野なりをちょこっとでも変えてやって+(プラス)にしてやって、その中にはたまに大化けするようなタマを生み出してこそ教えて育てたということになるんじゃない?」と霞ヶ関にも通じる文章を書いてみたいけれども、とりあえずはブログ記事にして書いた。

マーヒー加藤(書・ブログ本文)
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by kaneniwa | 2015-10-27 06:51 | 草仏教
2015年 09月 24日

草仏教掲示板(86) 映画監督小津安二郎の言葉

b0061413_23185929.jpg 映画というのは実は力のある脇役が主役なんだ というこの(写真の)小津安二郎監督の言葉を掲示板にはり出したのはつい4日前なのである。ちょうどイングランドで開催中のラグビーのワールドカップの日本vs南アフリカのゲームがあって日本代表が二転三転の末、さらには同点の時間帯もあってさらに四転して劣勢のままロスタイムという場面で五転しての劇的な勝利。その劇的具合はというと『ハリー・ポッター』の作者であるJ・K・ローリングさんが「こんなストーリーは書けない」とTwitterに記したぐらいだ。一試合の重みが違うワールドカップとはいえイングランド戦でもなくスコットランド戦でもない日本戦をテレビだったとしても展開をよく見ながら観戦していたことがよくわかる短文にJ・K・ローリングさんがラグビーファンであったということも何となく分かって嬉しくなるとともに、同じ監督でもエディー・ジョーンズ監督(ヘッドコーチ)ではなくて映画の方の小津安二郎監督の言葉が自分のなかでクローズアップされてきた。ラグビー日本代表の南アフリカ戦のダイジェストはニュースをはじめスコットランド戦までの間、何度も繰り返し流れたけれども結果が分かっているのに興奮してしまう。結果が分かっているのに感動できるということは、いい映画や舞台は何度見ても痛快に思えたり感情が動くということに似ているというか、脳や心の同じ部分でそれを味わっているということに違いない。 スポーツニュースでのリフレインで何度も名前を連呼される選手の得点シーンを作るために体を張った選手たちがいる。さらにネットで選手名鑑を見てみれば帯同しているチームドクターの髙澤祐治順天堂大学准教授は自ら順天堂大学時代にラグビー選手であることがわかったり、コンディショニングなどを担当するトレーナースタッフが何人もいたり、分析の専門家がいたり、通訳、広報、さらには新設された役割としてバゲッジマスター(遠征時の用具輸送と管理)までスタッフに居る。こういう脇役もまたいい仕事をしたのではないかなぁ。 

マーヒー加藤(書・ブログ本文)
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by kaneniwa | 2015-09-24 23:59 | 草仏教
2015年 09月 09日

草仏教掲示板(85) ココ・シャネルの言葉と『阿弥陀経』

b0061413_0274143.jpg 『阿弥陀経』という経典は毎日のように読誦していて、おそらくこの30年間に一日平均3回は読誦しているだろうから、3万回以上読んでいることになる。(計算は合っているかな?)それなのに経典の内容の方は今ひとつ頭に入っていない。浄土三部経のひとつとして親鸞聖人も重きをおいていた経典のはずなのに『教行信証』などの著作での言及がとても少ない。『阿弥陀経』を説かれる釈尊は何度も「舎利弗よ」と、舎利弗(しゃりほつ・Śāriputra ・シャーリプトラ)という仏弟子の名を何度も呼びつつ教えを説かれるのだが、この経典のなかでは舎利弗の応答がない。能弁な舎利弗をも完璧に黙らせる内容であるという解釈を聞いたこともあるのだが、読誦していて「舎利弗、ちょっとは応答せよ!」というような気持ちになってきてストレスというほどではないけれども、昔から何だかモヤモヤする。それでも昔から「青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光」という箇所が好きだ。漢文訳でラップ調の力強い韻をふんでいることもあって、同じ光に照らされても青いものは青く輝き、黄色いものは黄色く輝く。たとえば最近では「花はそれぞれ嫉妬しあっていない」 という言葉を掲載させてもらったが、この「青色青光 黄色黄光」を思わせてくれる言葉にはとても惹かれる。そう思っていたら、ココ・シャネルという人が「世界で一番美しい色は自分に似合う色」という至言を残していた。「ココ・シャネルというのは、あのシャネラーのシャネルなのか?」とシャラポア(妻・日本人)に問えば、いかにもそのシャネルさんらしい。 それからこれは余談となるけれどお笑いのドランクドラゴンの塚地武雅は「共感覚」(シナスタジア、synesthesia)というものを持っているらしい。これは塚地が「人を見るとその人に応じた色が頭に浮かぶ」ということで、東京大学の大学院人文社会系研究科の工学博士・横澤一彦教授が検査してみると、塚地は人や言葉(文字)に色をイメージして認識する「共感覚の持ち主だった」ということらしい。これは超能力というよりは主観的な知覚現象 (クオリア) として本人が生々しく感じるということなので「だからどうした?」とツッコめばそれまでだが、共感覚の持ち主と言われる人には不思議なことに絵画のアーティストよりも音楽家や文学者がずらりと並ぶ。たとえばバイオリニストのイツァーク・パールマンは「G線でBフラットを弾くときは深緑色、E線でAを弾くときは赤を感じる」などと言っているが、私は共感覚を持っていないので「白鍵は白で黒鍵は黒」ぐらいの認識しかない。あっ、でもブルー・ノート(JAZZやブルース特有の音階)なんていうのもあるなぁ。あっ、「黄色い歓声」なんていう表現も昔からあるなぁ。余談も長くなってしまったけれど「私は何色なんでしょう?」と、塚地武雅に聞いてみたい気がする。 自分自身の色もわからないし、自分に似合う色が何なのかも自分自身ではよくわからないなぁ。とりあえず実感するのは、自分で選んだ服を着ている時よりもシャラポアや高校生の長女が選んだ服を着ている時の方が「似合う」と言われる確率が高いということ。

ブログ文章・書 マーヒー加藤
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by kaneniwa | 2015-09-09 08:25 | 草仏教
2015年 08月 28日

草仏教掲示板(84) 何も偉業を達成していないように見えるあなたの親が…

b0061413_22203016.jpg 何も偉業を達成していないように見えるあなたの親が あなたを愛することで幸せな顔をしていたことを 思い浮かべて欲しい (作家ジョージ・サンダース。2013年シラキュース大学卒業式の記念スピーチより) しばらくブログの更新がゆったりとしたものになっている。特にこの法語掲示を紹介させていただく投稿は間が空いてしまって、すでに先月に掲示を替えた言葉を後追いでご紹介させていただくことになった。これは5月末にブログにて 和田一郎さんの『僕が18年勤めた会社を辞めた時、後悔した12のこと』という本の感想を書いてみたのだが、その本のなかで紹介されていた言葉である。その作家のジョージ・サンダースの言葉は投稿サイトをはじめとしてネット上でもすでに2年前から反響を呼んでいて、原文は英語であるということもあって、法語としての掲示用に意訳をさせていただいたものである。平凡のなかの非凡を感じることができる軸になるものは陳腐な言葉にも聞こえることがあるようでも、やはり「愛」ではないかなぁ。そして仏教のなかの言葉としても「愛」というと、そんなにキレイな意味でのみ使われているわけではなく煩悩寄りというのか、執着というものを感じさせる用語例が多いのだが、それでも仏の姿として「和顔愛語」(おだやかな表情で愛ある言葉をかける)などという言葉もある。もちろん、何かを達成することへの賞賛を否定するつもりはまったくないけれども、幸せってものの本質はそこではないなぁとは何となく思い始めた今日ころの頃。

ブログ本文・書 マーヒー加藤
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by kaneniwa | 2015-08-28 22:42 | 草仏教
2015年 06月 15日

草仏教掲示板(83) ボブ・マーリー(Bob Marley)の言葉

b0061413_2511181.jpg 雨を感じる人もいれば ただ濡れるだけの人もいる(Some people feel the rain. Others just get wet) ボブ・マーリーが死去したのが1981年の5月11日であるからすでに死後34年が経過したことになる。前年にはジョン・レノンが射殺されていて、ともにその死の数年前から夢中になって日々聴いていた。ともにその訃報にせっしてからすぐに日々耳にしていた声が別の世界から響いてくるように感じた。ボブ・マーリーに関しては語りだしてしまうと際限がなく「ボブ・マーリーという人が居てくれて本当によかった」とだけ記しておきたい。 梅雨時になったら1ヶ月とちょっとこの言葉を掲示しようと思っていた。 日々のニュースに接していてそこから何かを感じとる人もいればただニュースを見ているだけの人もいる。そのニュースに現れる事象からの影響は豪雨なのか小雨なのか、明日なのか明後日なのかは定かではないけれど、確実に自分の身にもふりかかってくるのである。感じることを忘れてはならないと改めて思うのである。

マーヒー加藤
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by kaneniwa | 2015-06-15 06:03 | 草仏教
2015年 06月 05日

草仏教掲示板(82) 鏡を見れば

b0061413_1575094.jpg


どんなに辛いことがあっても
鏡を見ればちゃんと生きている 美輪明宏

法事が終わった後で学生さんが私に
「お経ってラップミュージックみたいですよねぇ」
と声をかけてくれた。
彼の両親をはじめ同席した親戚たちには
「…お前、何て失礼でバカなことを言っているの…」
と言いたげな表情が垣間見えたが、私は
「…実は、ワシもずっーとそう思っていたんだYO!」
と答えた。
一同はみんな笑った。
周囲は軽く流れはじめた不穏な空気を察して、私が機転を利かせて
笑うようなことを言ったのではないかという偉大な勘違いをしてくれたみたいだが、
本気で昔からそう思っていたのである。

たとえば『仏説阿弥陀経』というお経を私はだいたい12分前後で読む。
これが早い方なのか遅い方なのかわからないが、毎朝東本願寺の阿弥陀堂で
猛スピードでポップス1曲分ぐらいの時間内に、しかも漢音で読まれるものに比べれば
3倍ぐらい遅いはずだ。
それでも、12分での『仏説阿弥陀経』というのは、
書かれている内容をすべて伝えられるなどということは意識できない速度となる。
ラップミュージックの要領で、私が『仏説阿弥陀経』をミュージシャンとして「吟じる」
とか「演じる」というような表現をとってみれば、
やはり深くて強いメッセージ性がある歌詞の情報量の質と言い量といい、
このような楽曲を短時間で伝えるには「節」とか「抑揚」は大事ながら
メロディ的なものは自ずから平坦になり間のようなものは詰まってくる。
まず単純に考えてもお経とラップは似てくるのである。

ラップ・ミュージシャン(読経者)としても客(参拝者)に吟じた言葉を
全部もって帰って欲しいというようなことはもはや要望しない。
ほんのひと言でいいから考えずに感じた言葉をもって帰って欲しいとは思う。
ほんのひと言さえ無理であれば雰囲気だけでもいいから毛穴から入ったものを
感じたものをもち帰ってくれよベイビィと思う。

さてさて、ようやく本題に少しだけ入ると
中国で訳された経典を読んでいる宿命のようなものだが
ラップと同じく
「韻を踏んでいる」
という共通点も見えている。
これは鳩摩羅什という原典の翻訳者がダジャレ好きだったわけではなく、
(特に古流中国語で発音すれば)同じ言葉の音を重ねることによって
「言霊効果」(ことだまこうか)とでも言うべきものを醸しだして
基いてあるメッセージ性をさらに強調しようという意図が
無意識的にもはたらいていたのではなかろうか。

さて、もうちょっと本題に入り込んでいこう。
中国の善導(ぜんどう)大師という方が『仏説観無量寿経』を解釈されるなかで
「経は教なり、また鏡なり」
と「KYO」の音を重ねながら大事なお話をされているんだYO!YO!

経=教=鏡

というシンプルな数式であるが、経は教えでありなおかつ鏡であるという。
自分自身の姿を写しだしてくれるものであるという。

ナルシスト的に鏡の前で優越感のようなものに浸る人もいれば
劣等感のようなものにさいなまれる人もいる。
その時々によってその両面が湧き出てくる人もいる。
ただ鏡の功徳によって自分の姿を見た時に
優越感や劣等感はこちらがわの勝手な煩悩に過ぎず、
まずは確認すべきは
「生きている」
ということなのではないかと、
美輪明宏の話はまったく出てこなかったけれど、
そう感じたんだYO

マーヒー加藤(ブログ本文)
日本人シャラポア(書)


追記 ラップミュージックに関して知っているようなつもりで書いたけれど、
   実はあんまり馴染みがない。
   ただラップが流行る前夜ぐらいの時期のジャマイカの
   「DJスタイル」というのは大好きである。
   具体的にはTIGERやSUPERCATなど。
    (どちらもネコ科の名だなぁ)
   曲によっては「こりゃお経の読み方じゃないか?ジャマイカ?」
   というものがけっこうある。
   歌詞はほぼ分からない。
   訛り的なものもあるかもしれないが、なんせ猛スピードだもん。

 『ホワイティー・フォード・シングス・ザ・ブルース』(Whitey Ford Sings The Blues)
 という白人ラッパーのアルバムをAmazonで買ってみた。
 バンド(ユニット)名としては「Everlast」である。
 白人ラッパーがブルースを歌うというので買ってみたが、
 正直いって「What It's Like」という曲以外はあんまり好みではなかった。
 歌詞はほとんど分からない。
 その分、「What It's Like」には
 ワンフレーズでもいいから何か感じとるという態度で聴ける。
 
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by kaneniwa | 2015-06-05 06:56 | 草仏教
2015年 05月 08日

草仏教掲示板(81) 僕らは一度生き、たった一度だけ死ぬ

b0061413_22292995.jpg 今、法語掲示板にかかげられている言葉だが、言葉の選びも書もシャラポア(妻・日本人)に任せたものである。滋賀県出身のロックバンドのUVERworld(ウーバーワールド)の8枚目のアルバムである『Ø CHOIR』(ゼロ クワイア)の広告のコピーであるということらしい。(どうりでUVERworldの歌詞のなかからこの言葉を探しても出てこないはずだなぁ) 「僕らは一度生き、たった一度だけ死ぬ」というこの言葉は、従来はサポートメンバーであった「誠果」という名のサックス奏者がバンドの正式なメンバーとなって6人組となり、その形での「新生」ということがその背景にあるようだ。 そういうわけで「僕は」ではなくて「僕らは」と言える世界があるところに、私は言葉としての妙味があると思う。

マーヒー加藤(ブログ文)
日本人シャラポア(書)
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by kaneniwa | 2015-05-08 22:48 | 草仏教
2015年 05月 03日

草仏教掲示板(80) 花はそれぞれ嫉妬しあっていない

b0061413_062584.jpg 阿弥陀経に「青色青光、黄色黄光、赤色赤光、白色白光」とあって、青いものは青い光を放ち、黄色いものは黄色い光を放つ。金子みすゞは「みんなちがって、みんないい」と言うだろう。それぞれがそれぞれの輝きを放つことの大切さをメッセージとして発する言葉は経典をはじめとして、古今東西にたくさんあると思う。ただ「お前はお前のままでいい」という言葉に「それじゃ貧乏人は貧乏人のままなのかよ!」という反感をもつ人もいるだろうし、これは私の先入観もあるだろうがお説教臭い言葉も多い。 そんななかでシャラポア(妻・日本人)のメモのなかでこの「花はそれぞれ嫉妬しあっていない」という言葉に出会った。この言葉は上から目線での押し付けではない形でその真理を表白しているように感じられた。 シャラポアが言うには、阿川佐和子の言葉としてメモをしたけれども正確には比叡山の僧侶が言ったもう少し難解な言葉を聞いての阿川佐和子のレスポンスとしての言葉がこれだったそうだ。でも、それでいい。うちの法語掲示板には阿川佐和子の言葉として紹介させていただこう。お釈迦様だって自分の書斎にこもって葉っぱに樹液で本を書いていたわけではない。アーナンダ(阿難)という「この人が言う言葉は尋常ではない、でもホンモノだ」と看破する優れた聞き手がいたから仏法は成立したのだ。どんなに優れたクォーターバックが居ても、優れたランニングバックなどのレシーバーがいなくてはパスは成立せず、サッカーでのキラーパスも受け手がいなければただの無謀なキラーにすぎない。 アーナンダをはじめとするワイドレシーバーたちが言ノ葉(ことのは)を残し、その葉に一本のたて糸を通したのが「経」である。 いつの間にか阿川佐和子は名インタビューアーというか聞き手としての達人のような世の中の評価を得ていた。『聞く力』という本の論評を私はラジオの書評で聞いていたので、そのタイトルは花のたとえもあったことから混同して『菊力』(きくちから)というタイトルの本だと勘違いしていて「何だそれ?」と思っていたら、書店で現物の『聞く力』を見て、自分で自分を笑ってしまった。まあ『菊池から』というタイトルでなくて良かったとしよう。 さて本題に戻って、嫉妬という心は屈折していて心の吹き溜まりのような部分にはあるものの、それはある種自分を育ててくれるようなものでもあると思う。「どうして自分はああ成れないのか、あのようにできないのか」という心は、私としては全否定できないものがある。しかし、事実として花はそれぞれ嫉妬しあっていない。花はすでに「青色青光、黄色黄光、赤色赤光、白色白光」という存在である。 「嫉妬」という屈折しためんどくさい煩悩である人間特有の心が沸き起こってきた時には、私はせめてその嫉妬があるという自分だけは見つめ、その自分に向けて「Shit!」という言葉を投げかけたいと思う。

マーヒー加藤 (ブログ本文)
日本人シャラポア(書)
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by kaneniwa | 2015-05-03 00:46 | 草仏教
2015年 03月 14日

草仏教掲示板(79) 人を選ぶ人は人に選ばれない (ある女子高生のつぶやき)

b0061413_23483365.jpg ある女子高生のつぶやきをそのまま法語として掲示させていただいた。選びということを否定しているわけではない。希望通りであったかどうかは別として、高校生以上ということになれば選んだ学校に通っている。そこで友人関係も形成していく。そういうなかでの実感のあるつぶやきであった。

マーヒー加藤(ブログ文)
日本人・シャラポア(書)
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by kaneniwa | 2015-03-14 23:57 | 草仏教
2015年 02月 07日

草仏教掲示板(78) 子の名前は親の名のり

b0061413_2226129.jpg 名前というのは不思議なものだ。名は体を表すと言われると同時に、実体の活躍なり躍動感が名を高めるということもある。例えば白鵬という大横綱にしても大関になる前ぐらいの段階ではさしていい四股名であるとは思わなかった。しかし今や無敵の横綱の代名詞となっては、対戦する力士の立場にたてば白鵬という名前を聞いただけでビビってしまうぐらいだ。千代の富士という名もそうだった。20歳代中盤まではさしていい四股名だとは思っていなかったけれども、アメリカの格闘技雑誌で「ストリートファイトでは誰がこの世界で最強か?」という特集が組まれた時にベニー・ユキーデとともにCHIYONOFUJI(千代の富士)の名が上がっていたのをかつて見た時にはまさに強さの代名詞と感じた。競走馬のトウカイテイオーという名前から感じたものはなおさらで、この名前は母親のトウカイナチュラルという馬名に由来している(父親はシンボリルドルフ)と思うのだが、出てきた時には「何だか東海地方のお山の大将のような名前だなぁ」という印象をもった。それが皐月賞を勝ち、ダービーを制覇してジャパンカップをも取った頃には「何だかいい名前だなぁ」と感じるようになり、有馬記念の復活優勝の際には馬券を当てたこともあって「何といい名前なんだろうか」とまで感じるように変わってきた。 さてさて、そのように名は体を表すということと同時に、実体がその名を高めるということもあるのを前提に法名(浄土真宗では戒名という言葉は使わず、生前に帰敬式を受けて名前を授かる人も多いことから法名という)の話になる。 私より年上の人たちは、名前の文字(漢字)が経典のなかにある率がとても高いような気がする。これは強く意識しているかまったく意識していないかに関わらず、それは仏教文化というものではないかと思う。また経典由緒率(こんな統計学はまだ存在しないけれども…)が低くなりドキュンやキラキラネームが全盛のような今の時代であっても「蓮(レン)」という名前は相変わらず人気が高い。もっとも「蓮」の文字は1990年まで人名に使える漢字一覧のなかになかったので、1990年代に使えるようになってから大いに流行ったのであるが、2010年代の今でも人気がある。それは「蓮」の音の良さのようなものからの命名もあるけれども、やはり泥沼のなかで花開くという仏教のシンボルとしての文化が息づいていることなんだろうと思う。 さてさて、掲示板の言葉はマーヒー加藤が長女から「DQNネームの流行についてどう思うか?」と質問された時の答えらしい。私は「そういえばそんなこと言ったかもしれないなぁ」という程度で、実はよく覚えていない。よく覚えてはいないけれどもシャラポア(妻・日本人)がそれを聴きとめてそれをメモして、そのメモのままに法語として書写されて現在掲示されている。(子の名づけは親がすることは多いけれども、親がするとは限らないけれども…) 長女を近所にあるキリスト教の幼稚園に入れた時にプロテスタントの牧師でもあるその園長先生にその名をほめられたことがある。書くのも照れくさいのだが「このような小学校の前半で習う漢字ふたつの組み合わせで、このように仏教文化にあふれて、しかも名を呼んでいてこの上なく優しい気持ちなれる名前があったとは…」と、お世辞も含まれているのだろうが恥ずかしいぐらいに手放しで絶賛してくれたのだ。そして、彼女(長女)はその後、小学校、中学校、高校といろんな教化の先生にその名をほめてもらえる機会に多く接してきたらしい。 言った覚えがない自分の言葉に責任をもつというのも変な話ではあるけれども、長女の名前が降ってきてくれた瞬間のことと、それを命名することにした時の気持ちや考えについては、それを同時に私の名のりとして再認識していきたいと思う。

マーヒー加藤(ブログ本文)
シャラポア(掲示の言葉の書)
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by kaneniwa | 2015-02-07 23:22 | 草仏教