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カテゴリ:草仏教( 161 )


2015年 02月 05日

草仏教掲示板(77) SEKAI NO OWARI の 歌詞

b0061413_1661830.jpg 僕の正義が きっと 彼を 傷つけて いたんだね これは SEKAI NO OWARI(バンド名)の「Dragon Night」(曲名)のなかの一節である。うちに SEKAI NO OWARI のCDが置いてあったので私はてっきり長女(高校生)のものだと思って「CDや本を買うということはとってもいいことだ、無料のものが悪いわけではないけれども、それだけでは身にならないからなぁ」とほめていたら、それはシャラポア(妻・日本人)が買っていたものであった。何でも「曲先」(歌詞よりもメロディやリズムといったものを優先して歌詞は付け足した感があるもの)の世の中で SEKAI NO OWARI に関しては「詞先」を感じたそうで、昨年末あたりからけっこう聴きこんでいるとのことだ。 そんなわけでこの言葉、シャラポアの選びと書で今月に入ってから掲示をされている。 嬉しいのは東京都世田谷区の存明寺さんも今月の掲示板に同じ楽曲からまったく同じ箇所をえらびとって法語として掲載しているということであった。実はシャラポアも私も存明寺住職の酒井さんにずっと親しみをもちつつ尊敬しているのだ。そしてシャラポアにとっては「同じ時期に同じアーティストの同じ曲の同じ箇所に酒井さんとともに共感していた」というジンワリとした嬉しさがこみ上げてきたようだ。 さらに余談がもうひとつ。 NICO Touches the Walls というアーティストのCDが置いてあって、これもまたシャラポアが買ってきたものと思いきや、勘違いでほめられた長女が今度は本当に自分のお小遣いで購入したものであった。

マーヒー加藤(ブログ本文)
シャラポア(法語の書写)
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by kaneniwa | 2015-02-05 16:32 | 草仏教
2014年 12月 29日

報恩講私記(3) 放歌

b0061413_2128567.jpg もしかしたらこれが2014(平成26)年の最後のブログ記事となるかもしれません。11月30日のこと。寺院での報恩講(親鸞聖人ご命日)の日程が終わり、徒歩で近所の「食彩酒房ぼだいじゅ」さんでのライブは伝説ものとなりました。午後5時から午後7時30分頃までのライブでした。この日は日曜日でしたが午前中に阿知波一道さんのご法話に接して午後に寺院と「ぼだいじゅ」で阿知波一道さんの歌声に接した方々が家に帰ってからすぐにテレビをつければ妹さんの阿知波悟美さんが「お福さん」という重要な役柄で出演されていたNHKの大河ドラマ「軍師官兵衛」が放映されており、しかも三日後の12月3日(水)にはテレビ朝日系列の大人気ドラマである水谷豊主演の「相棒」で同じく阿知波悟美さんが「ビッグママ」という大物犯人役で出演されていたということで善良寺の有縁の方々にとっては阿知波ディー、阿知波ウィークとなったのでありました。 さて、その報恩講とライブが終わって明けて翌日、新潟県内のどこにご案内しようかと考えていたところ「思いつきなんだけれども京都のライブハウスの拾得に行って、あわよくば出演もしてこようかなぁ?」と言い出され、歯医者から帰ってきたばかりのシャラポア(妻・日本人)とともに蕎麦を食べると本当に12時26分発の「特急いなほ」に乗り込まれて京都に向かって出発されてしまいました。写真は、私が持っているのが阿知波先生愛用のマーチンOOO(スリーオー)のギターが入っているマーチンのギターケース。そして、先生が背負われているのが同じく愛用の「自作バンジョー」です。シンガーソングライターとして作詞・作曲を手がけられることはもちろんのこと、工房で「えっ?先生のサウンド作りはここからなんですか?」と驚いたのですが、楽器作りまで手がけられているのです。 写真の撮影はシャラポア。この時点で先生愛用のiPhoneがまだ寺に置きっぱなしであることはともに忘れていたのでありました。 その精密機器専用宅急便箱(そういう箱が宅急便の集配所に常備してあるということは、それを送る機会も世の中には多いのだなぁ)が届いた連絡とともに「いやあマーヒー、昨夜は拾得でホウカして来ちゃってねぇ」とおっしゃるので「先生、いったい何やってんですか?」と言うと、つまらぬ誤解を招かぬようにこのブログ記事のタイトルですでにネタバレではあるけれどもホウカは放火ではなくて「放歌」ということだそうです。つまり火ではなくて歌を放り込んで来たということで、燃やしたとしたらそれは建造物ではなくてお客さんのハートであるということなのです。(綺麗なのは先生のオヤジギャクなのに、ブログ文としてキレイにまとめようとしている私) 築約300年の酒蔵を改造した憂歌団や上田正樹などもかつては定期的に出演していた名門ライブハウスに「放歌」というのは、なかなか粋な表現であるなぁと思ったのでした。 今年の1月は長女が第一志望の高校に入れるかどうかということでヤキモキしていました。楽しみといえばシャラポアと受験シーズンが一段落したら3月のお彼岸明けに石垣島に久しぶりの家族旅行の計画をたてることでした。長女は何とか第一志望に合格してくれて、その旅行は記念旅行としての付加価値も付きました。石垣島に着いてすぐにホテルに荷物を置いて見知らぬ島の繁華街を地図をもって飛び込んで何とかスタートに間に合った「うさぎや」というライブハウスで「歌」に接していきなり「来たなぁ」と実感することができました。 そして6月に私自身も住職の継承式を行い、初めての報恩講は準備不足は否めなかったのですが阿知波先生はじめ多くの方のおかげで素晴らしいお勤めとなりました。「放歌」もありました。

明後日の大晦日の午後、とにかく歌が大好きだったお世話になったアニキのような方の初七日で阿弥陀経と正信偈を勤めることが私の今年の仕事納めです。ご生前、いっしょに勤めたこともある正信偈の「偈」の文字は訓読みで「うた」とも読めるのです。

それでは皆さん、よい年末年始を。

マーヒー加藤
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by kaneniwa | 2014-12-29 22:48 | 草仏教
2014年 12月 13日

草仏教掲示板(76) ぼくが一生の間に会えるひとにぎりの人の中にあなたがいました

b0061413_23291651.jpg ぼくが一生の間に会えるひとにぎりの人の中にあなたがいました この法語掲示板の言葉は私やシャラポア(妻・日本人)がメモしたノートないしは紙のなかから選ぶというケースが多い。たまに高校生の長女が「これがいい!」と選んだりメモした言葉が掲載されることもある。この言葉は、てっきりシャラポアか娘がメモしたものであったと思っていたがどうも私のメモのなかにあった言葉だったそうだ。私のノートは再生紙を使った無印良品の「4コマ漫画作成用ノート」(現在はなかなか店先で見ない)であるけれども、確かにそのなかにこの言葉があった。しかし出典が書いていない。今、検索で調べてみた。 僕が一生の間に会えるひと握りの人の中に、あなたがいました。 何とこの言葉、サントリーのウィスキーの「ローヤル」の広告コピーであった。私がどこかで目にしたこの言葉を出典を記していかなったためにかえって法語としては新鮮な言葉なものと筆をとったシャラポアには映ったようだ。広告コピーというのは商業のための文ではあるけれども、商業であるがゆえに人の血が通っている、流通(るずう、りゅうつう)していると感じることがある。しかも多くの文学者をも生み出してきた広告コピーの名門、サントリーだ。 明日は解散による宗義議員選挙の投票日だ。法律的にサントリーの「ローヤル」を飲むことが可能な者に選挙権がある。天候は悪いし、仕事もあるし、正直いってなかなか気がすすまない。でも、日本を含めて各国での選挙権を勝ち取るための闘争の歴史、現在進行形としては香港の人々のことを考えたら行かなくちゃ。



マーヒー加藤 (ブログ文)
日本人シャラポア(書)
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by kaneniwa | 2014-12-13 23:54 | 草仏教
2014年 12月 06日

報恩講私記(2) 包み込むような法話と音楽と餃子

b0061413_21145772.jpg というわけで、本年の報恩講は北海道の法林寺ご住職でありシンガーソングライターの阿知波一道先生を幸いにもお招きすることができた。前日の夜、日程の打ち合わせやら音合せやらプログラム構成などをひとくちサイズのものをつまみながらするつもりであった。法話では聴聞者となり弾き語りやライブでは共演者となった小泉さんのお連れ合いが色々と用意していただいた前日のお食事のなかで、包みたてで焼きたてを提供したいということで作りかけの餃子があったのだが、それを見て阿知波先生は「僕に包ませてくれる?」と言い出されて餃子作りに熱中されはじめた。学生時代にずっと王将でバイトをしていたのですか?というような手際の良さだった。そして「焼くのも僕にやらせてくれる?」と言いつつフライパンに餃子を敷き詰めた。「おやおや先生、それでは餃子を敷き詰めすぎではありませんか?」と私は思っていたのだが、きれいに焼きあがった餃子が、これまた手際よくフライパンから一瞬空を飛んで皿に盛られた時にうちの子どもが「餃子のミステリーサークルだぁ!」と声を上げた。これは10インチのフライパンで焼き上げられたのだが、アナログレコードのLP盤と同じ10インチというサイズが身に入っているとしか考えられない出来であった。アナログレコードの話のついでだが、写真が見事な焼き加減が表現されている餃子のミステリーサークルのA面であるとすれならば、包み技でのねりじ加減が表現されているB面も実に絵になっていたのだが、あっという間になくなったので写真はない。 今回は僭越ながら先生のご法話のことを記しておきたい。報恩講法要の後に午前中、70分間していただいたご法話に善良寺のご門徒さん一同とともに私は実に感銘を受けた。そして拝聴された皆さんが口をそろえて「実にわかりやすいお話だった」と私に感想を述べてくださった。「天上天下唯我独尊」という仏教の根本的な教えについて、それをご長男が誕生された時に産婦人科医院に注意事項としてあった「他の赤ちゃんを見ないでください」という貼り紙の言葉を「なるほど、かけがえのない存在を比較してはいけないということなのだな」と感得されたお話など、確かに私にもそういうやさしさをもって伝わってきた。でも、やさしいお話、わかりやすいお話とはいっても安易さとかお手軽さというところとは対極にあるお話であった。たとえば先生は唯識(ゆいしき)教学の阿頼耶識(あらやしき)についても言及されている。それを前住職(私の父)も深くうなずきながら拝聴している様子が目に入った。私は前住職の他の部分は信頼していないが、原始仏教やインド哲学の研究者としては全面的に信頼している。そういうお話を拝聴した方々が口をそろえて「やさしいお話だった」とか「わかりやすいお話だった」と言われる。 教学を私のへっぽこ教学で解説してしまうと、それこそ味が台無しになってしまう可能性もあるので、音楽と餃子になぞらえてそのやさしさと解りやすさを何とか説明したい。これは去り際(そうだ!京都に行こう!と本当に京都に飛んでいかれた)に先生ご自身が私とシャラポア(妻・日本人)に 「カントリーミュージックの世界では難しい技巧を難しそうに弾くのは粋じゃないんだなぁ、難しいフレーズこそ涼しい顔をして簡単そうにやって自然に響かせることがカントリーのプレイヤーとしてカッコいいんだよ」と語ってくださった。その言葉は即席バンドのメンバーとして飛びい入りに近い形で参加してくださったバンジョーの大野さんとギター&ボーカルの小泉さんのプレイぶりをほめた言葉ではあったが、少しは音楽をかじった者として、阿知波先生こそそういう粋をもった方だなぁと思う。まるでアメフトの名クォーターバックがどこに投げたらいいかを瞬時に判断しながら見事にパスを通し、それが高度な技術の結集なのにそのプレイがスムーズで見事すぎるので「簡単」にさえ目に写ってしまう、みたいな感覚で音楽をプレイされているように思う。瞬時にこういうバッキングがあれば、こういうソロがあれば、とその場にいちばん的確な音を出される。 これは今日知った名言だが、あの有名な作曲家のすぎやまこういち氏はゲーム音楽のドラゴンクエストのテーマ曲を5分で作曲したそうだ。5分で作ったことを関係者が「スゴい、スゴい!」と言ったらすぎやま氏は「今までの54年の人生(作曲当時のすぎやま氏の年齢)があるから5分で作れたんだよ」と言ったらしい。阿知波一道さんという人が奏でるフレーズには長いキャリアが凝縮されていたのだなぁとしみじみと感じた。 今回の写真の餃子も、餃子という料理の形となればどちらかと言えばシンプル料理の部類に入る。今回の具は阿知波先生ではなく小泉さんのお連れ合いが自宅で丹念に製作されて持ってきていただいたもので、適度にスパイシーでありそこには様々な技巧がほどこされている。その結集がシンプルでディープな逸品となったのだ。 私は対極的な在り方をしてきたのかもしれない。どうも簡単なことを複雑に語る、簡単なフレーズをいかに高度なことをやっているかのように見せる、手の込んだ料理のように思わせる、そんなクセがついてしまっているのかもしれない。

マーヒー加藤 
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by kaneniwa | 2014-12-06 23:35 | 草仏教
2014年 12月 01日

報恩講私記(1) 即席にしてスーパーバンド結成

b0061413_14183467.jpg 2014年11月30日という日を重要な節目として432年の伝統をもつ真宗大谷派の善良寺という寺院が大きく変わることになるでしょう。なぜならば住職であるマーヒー加藤の意識が劇的に変えられたからです。今までも親鸞聖人のご命日を機縁とする法要であり衆会(しゅうえ)である報恩講を勤めることは浄土真宗の寺院として重要なことであるとは意識してきたつもりです。しかし重要であるがゆえにそれをとても重い義務として感じ、正直に言って報恩講のことを考えると憂鬱になっていたことは否めないのです。ところが、すでに来年の報恩講が楽しみで仕方がないのです。準備の大変さと面倒さはたぶん変わりません。でも、来年を心待ちにしている自分がいます。もしかしたらより大変になるかもしれないけれども、それはもう単なる義務ではありません。マイ・プレジャー!報恩講に関わるたくさんの仕事をデニーズの店員のように「喜んで!」と言って出来る保証はないのですが、なるべくそうありたいとは思うのです。 たくさんのお客さんを迎えることが大好きで喜んで仕事を手伝う8歳の末娘にも学ばせてもらったのですが、そう思わせてくれた最大のキーマンとなった阿知波一道先生にはもう一泊してもらって寺院以外の新潟県を満喫してもらうつもりでした。今朝になって急に「そうだ、京都に行こう!」と言い出されてギター(マーチン)と自作のバンジョーとスーツケースを抱えて最寄りの中条駅から特急電車に乗り込まれて本当に京都に行っちゃった。京都の名門ライブハウスの「拾得」が飛び入り演奏可能な日であるからだそうです。ただし、その情報をとったご愛用のスマートフォンを忘れ置いて出ていかれました。昔の侍が「重み」をプライドとしたように、カントリー&ウエスタン系のミュージシャンとして「軽さ」を重要視されているようです。それはとても魅力的な軽さです。 写真は法要、ご法話、お斎(報恩講の手作りのお食事)の後、阿知波一道先生(写真左)の弾き語りで地元ミュージシャンを囲んでの一場面です。同朋会(寺院での聞法会)の仲間である小泉さん(写真右)と新潟空港に阿知波一道先生を迎えに行きました。小泉さんは若い頃にカントリー・ミュージックのバンドを結成していてリードボーカルとギターを担当され主に新潟市内で活躍をされていたので、阿知波先生の到着を心待ちにされていました。新潟空港から善良寺までの35分間、後部座席で小泉さんと阿知波先生はカントリーやブルーグラスを長年に渡って愛し続けてきた者同士ならではの会話をされていた様子でした。とても初対面だとは思えません。カントリーのミュージシャンといえば、まずはウィリー・ネルソンかジョン・デンバーを思い浮かべる私にとっては「ハンク・ウィリアムス」ぐらいは分かったけれども後はよく分からない。男同士で往年の選手やレスラーの名前を列挙しつつする野球談義やプロレス談義を傍らで聞いているシャラポア(妻・日本人)はそんな感じでしょうか。ただ、もっとビックリしたのは本堂でお参りをされた後、さっそくに二人はギターを取り出されて簡単なコード進行の打ち合わせをされた後、音色同士で語りかけるようにしながらセッションをされ、小泉さんがカントリーの名曲を歌い始めるとさっそくにビシッとハモったのです。初対面なのにまるでずっと昔からの名コンビであるように錯覚しました。ギターの弦という糸もまたスートラ(たて糸、経典)なのだと感じさせてもらったのです。そして、もっとビックリしたのが数々の和菓子の名店に餡(あん)を納めることを仕事とされている善良寺のご近所のアンコ屋さんの大野さん(写真中央)という方がバンジョーの名手であるとは前から聞いてはいたのですが、その演奏に接することができたのは今回が初めてでした。善良寺の報恩講のお参りの記念品の特製和菓子(マサヤ菓子店製作)も大野さんの餡が入っていることから忙しくさせてしまったので、阿知波先生の弾き語りがはじまる10分前にバンジョーを持って駆けつけてくださるということになりました。そんで、5分の打ち合わせでゲストタイムの約20分を素晴らしい演奏を繰り広げられるということのスゴさ。このサウンドに接することができた約80名様は、この3人はずっと昔からの名トリオと思われたでしょう。ただ、この3人はそれぞれにカントリー音楽を愛して、それぞれの場で打ち込んでこられた。それが、初対面なのに弦という糸でビシッとつながって、いきなり色んな壁を乗り越えて、いきなり友だちになっていることのスゴさ。このサウンドに接した人は「いきなり」カントリーミュージックが好きになったことでしょう。シャラポアがそうです。バンジョーという楽器の存在を生まれて初めて知ったといううちの長女(15歳)もそうです。 11月30日の感動や感激はもっともっとあるので、とても1回のブログ記事ではご紹介できません。12月中ぐらいの間に不定期連載をしたいと思っています。 報恩講当日、ホスト住職なのであまり写真は撮れなかったのですが、このスーパーセッショントリオの写真は何だか宝物です。 写真の右端の普段は動かなくなって単なる飾り物になっていた第二精工舎(現在のSEIKOブランド)の古時計も、この日は大道具と小道具の中間のいい中道具として背景としていい味を醸しだしてくれました。

マーヒー加藤
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by kaneniwa | 2014-12-01 22:24 | 草仏教
2014年 11月 25日

草仏教掲示板(75) 阿知波一道先生の言葉

b0061413_22511386.jpg 毎月ペースで貼り替える法語掲示板をこのブログにも「中継」する感じで転載し、ブログ用にも文章を書き加えていることは恒例である。今回、はじめてのパターンであるといっていいのは「一週間後にご法話をしていただく先生の言葉を掲載しておき、その先生が去られた後も2週間か3週間は掲示をしておく」ということである。その余韻のようなものから、また新たな響きあいが生まれてくるかもしれない。阿知波一道先生は作家としての著作というよりは、シンガーソングライターとして『器』というCDアルバムを出していらっしゃるので、そのなかから勝手ながら言葉を選ばせていただいた。「まだかね今金」という楽曲のなかからスペースの関係でワンフレーズだけを抜き書きさせていただいたのだが、せめてブログでは、その「まだかね今金」の2番の歌詞を記しておきたい。 疲れた靴ひもがせせら笑ってる ガラスに映る見たくもない顔 何処まで行ってもついてきた けだるい自分という荷物 別に選んだ訳でもないのに 捨てられぬ訳でもなかろうに 車掌さん汽笛をどうぞ まだかね まだかね 今金 という歌詞のなかから抜粋させていただいた。「まだかね今金」はGのキーではじまる軽快なメジャー調の曲であり、CDの音源がライブであることもあってタイトルにもなっている「まだかね今金」の部分ではお客さんの笑い声も入っている。そのために一種のおもしろソング(コミックソング)としての印象も最初はあったけれども、何度も聞いても深みがあるのは、メロディーやリズムや歌声や演奏もさることながら、引用させていただいた部分の歌詞の存在が私にとって大きい。 「自分探しの旅」というような肩に力が入ったものではなく、目的ある旅というでもなく、かといって帰る場所さえ定まらない放浪というものでもなく、しいて言うならば「自分忘れというものをしたいなぁ」という願望で目的なくふらついた記憶がよみがえる。最近、自分の姿を見つめるような乗り物に乗っていないなぁ。

マーヒー加藤
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by kaneniwa | 2014-11-25 23:50 | 草仏教
2014年 11月 08日

草仏教掲示板(74) 寺田寅彦の言葉

b0061413_2331845.jpg 心の窓はできるだけたくさん そして広く開けておきたい とは物理学者寺田寅彦の言葉である。夏目漱石の教え子であったことや寅日子、牛頓(ニュートン)、藪柑子(やぶこうじ)などのペンネームで文章を書いていたこと、俳句などの短詩文学をされていたこともあって世に残った言葉も多い。いちばん有名なものは何といっても関東大震災の時期の「天災は忘れた頃にやってくる」という名句(フレーズ)であるが、こちらは文集などの記録には残っておらず、言行録の方に残っている言葉ではあるがちゃんと五七五になっている。ただし「天災」は季語ではないので俳句とはいえない。 冬になると締め切ることも多くなってくる窓であるが、まだ秋のうちの今はできるだけたくさん開けて風を取り込んでおきたいと思う。

マーヒー加藤(ブログ文)
日本人シャラポア(書)
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by kaneniwa | 2014-11-08 23:41 | 草仏教
2014年 10月 25日

草仏教掲示板(73) 「くまのプーさん」(絵本)のなかの言葉

b0061413_236545.jpg これはシャラポア(妻・日本人)が始めたことなのであるが、法事などでお寺にお参りをした小学生以下の子どもと希望する中高生にはくまのプーさんかキティちゃんのシャボン玉セットをプレゼントしている。女の子はプーさんを選択する子とキティちゃんをチョイスする子がちょうど半々ぐらい。プーさんが大好きだという羽生結弦選手(フィギアスケート)の大活躍もあって今年に入ってからはプーさんがやや優勢か。男の子はたまにキティちゃんを選ぶ子もいるし、実際にうちの長男なんかも小学校の低学年時代はキティちゃんが大好きであったが、こちらは圧倒的にプーさんを選んでいく。今週みたいに天気も気候もいい時節には法事のあとでさっそく寺の境内でシャボン玉を楽しんでいく子どもたちも少なくない。「なんでもないこ事が幸せ もっと欲しいと思うのが本当はいちばん悲しい」という絵本のなかのくまのプーさんの言葉を知ってか知らずか、粗品ではあるもののシャボン玉遊びの満足感に独特の深さというものがあるのか「もっともっとシャボン玉セットが欲しい」と言ってくる子はほとんどいない。でも、シャボン玉セットというプレゼントを些細なものだとかつまらないものだとも思っておらず、心から喜んで受けっていき、心から楽しんで境内で遊んでいく。こういうプレゼントはささやかなものほど何かが通じていくような気がしてきた。「豪華粗品」(川柳作家の杉山竜さんが編み出した言葉で、マーヒー加藤が川柳で杉山さんのサイトの月間賞をとったときに商品として送られてきたビール券入りの封筒にそう書いてあった)とでも言うべきであろうか。 「まったく最近の若いものは寺にお参りに来ない」という言葉を発する重鎮の住職諸兄もいらっしゃるのであるが、よく視野を広げて見て欲しい。自分が精魂を傾ける研修会や行事には自分が思ったほどに人が来ないという現状も確かにあるかもしれないが、視野を広くもてば、寺に足を運んでいる若い人や子どもの姿というものはあるではありませんか?たまには厳しいことを言わせてもらうと、重鎮さんたちの視界のなかにその姿が入ってこないだけではないですか?シャラポアと知り合うまでは、私もそうでした。

マーヒー加藤(ブログ本文)
日本人シャラポア(書)
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by kaneniwa | 2014-10-25 23:25 | 草仏教
2014年 10月 07日

草仏教掲示板(72) 「花子とアン」のなかの言葉

b0061413_15564829.jpg この法語掲示板はだいたい私(マーヒー)が言葉を選んで、書の方はシャラポア(妻・日本人)が担当するというパターンが大半である。ただ、今回のように言葉の選びもお習字も両方シャラポアが担当するということもたまにある。演劇やドラマのなかの脚本の言葉というのは、本来ならば私もそれを見て共感しての選びならばなおよかった。私は「あまちゃん」はほぼ毎朝、もしくはお昼の再放送をずっと見ていたのだがそれ以後はまたNHKの朝ドラは見ない生活になったがシャラポアの方は「あまちゃん」以降も朝ドラを見る生活リズムになっている。私はたまにしか見ないのだが、たまに見た時の「花子とアン」でミッションスクールに住み込みの少女時代に英語嫌いであった花子が外国人教師の歌声に聴き惚れてそれを歌うというシーンをたまたま見て、その曲というのが The Water Is Wide だったのでちょっと感激した。でも105分の総集編・前編を録画したら、その素晴らしいシーンがカットされていたので残念だった。後半から見ようかと思っていたが、それ以後はまた見なくなってしまった。なので、この 人生は進歩です 最上のものは過去ではなく 未来にあります という言葉がどういう文脈のなかで使われていたかがわからないので、法語解説としてのブログ記事としては冴えないものとなってしまう。ただ、チャールズ・チャップリンがインタビューで「あなたの最高傑作は何ですか」と訊かれて「Next One (次回作だよ)」と即答したというエピソードを思い出す。次のブログ記事がいちばんおもしろいからね!というような求道精神をも含めた未来志向ではありたいと思う。 NHKの朝ドラとして「花子とアン」の次回作は今やっている「マッサン」である。この呼名で呼ばれたことがあり、朝からスコッチウイスキーの話というのはどうもなぁと思っていたが、可愛いスコティッシュでコケティッシュな女性が「マッサン」とまるで私を呼んでいるかのように毎朝囁いてくれるので、今回は見るようになるのかもしれない。 「花子とアン」の最終話の後で、夕食時に村岡花子が訳した『赤毛のアン』の話題になった。シャラポアに「読んだことはある?」と訊ねられ「ああ、圧倒的に女の子に人気があった作品だったから口に出してそれが好きだとは言い難かったけれども夢中になって読んだことがあるよ、おもしろかったよ」と言いながら、本のモノ持ちはいい方なので書庫を漁ってみたら小学館からの出版での『赤毛のアン』を見つけてきた。その『赤毛のアン』を開いてみたら「村岡花子訳」と書いてあった。ドラマはほとんど見ていなかったのに繋がりというものはすでにあって、家のなかで小さなドラマが生まれた。


ブログ文 マーヒー加藤
書    シャラポア(日本人)
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by kaneniwa | 2014-10-07 16:35 | 草仏教
2014年 09月 04日

草仏教掲示板(71) 真夏の方程式

b0061413_22541684.jpg 9月に入って残暑日もまだあるだろうけれど少なくとももうとっくに真夏ではない。まだ夏休み中であるという人も学生でも大学生の一部と遅れて夏休みをとったような人しかいないだろう。もともと仏教用語として「自らに由る」を典拠とする「自由」という言葉はどちらかといえばネガティブに使われておりフリーダムの意味とはかなり違うのであるが、中学生や小学生の高学年にとって「自由研究」とか「自由課題」という時の「自由」は束縛から解き放たれた時の「フリーダム万歳!」というような謳歌する自由とは程遠く、どちらかと言えば「自由契約」とか「自由席」などの苦しい意味合いを含んだ「自由」である気がする。夏休みの前半には自分の自由研究を論文にして『Nature』に投稿するようなことを豪語していたような中学生も、夏休みの後半になれば「私は決められたことは律儀にこなせるが、自由研究という自由を行使するについては、いったい何をしたらいいのかわからない」という苦しみにさいなまれたりする。新フロイト学派のエーリヒ・ゼーリヒマン・フロムが著した『自由からの逃走』は、ナチズムについての心理学的論考ではあったが、夏休み後半の中学生などにとってはまさに本の題名どおりに自由研究の自由からの逃走をしたくなる心理を抱えてきたことであろう。しかしながら、この自由であるがゆえの悩みを共にする仲間が居たとしたら、その課題を共有する仲間がいたとしたら、「ああでもない、こうでもない」と討論しつつ試行錯誤をするものであったとすれば、急に何だか自由のオモシロさが出てくるような気がする。夏休みの自由研究は、グループ研究もアリとした方が何だか色んな成果がありそうだなぁ。理研の再生細胞への探求もユニットリーダーを中心にしたグループ研究であるわけだし。 今回は脱線しまくりであるけれども「自由読書による読書感想文」という種類の宿題が悩ましかった学生も多かったに違いない。学校の先生には怒られるかもしれないけれども、何だか感想文というものがない方が読書好きが増えるような気がするなぁ。その代わり、同じ本をたまたま読んだことがある人と勝手な感想を述べ合うことは、これはものすごく楽しいことなんだなぁ。

※ 法語は福山雅治主演映画、東野圭吾原作の『真夏の方程式』より

法語の書写 シャラポア(妻・日本人)  
ブログ文  マーヒー加藤
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by kaneniwa | 2014-09-04 23:29 | 草仏教