草仏教ブログ

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カテゴリ:草仏教( 161 )


2014年 07月 27日

空に浮かんでは、そっと消えていった

b0061413_035496.jpg この15年間ほど、年始回りなどの寺院としてのお正月行事が一段落した1月5日前後になると、同業者(寺院関係者)で仲のいい4家族か5家族のグループで広い新潟県内のどこかの温泉旅館に泊まり、子どもたちを含めて25人前後で新年会をやることが恒例であった。新年会の後は好きな時間に温泉に浸かりつつ、男部屋(時にはマージャンをやって過ごしたこともあった)、女部屋、子供部屋などに分かれて好きなように過ごした。うちの子どもたちもこの泊まり込みの大新年会を毎年楽しみにしていて、冬休みの宿題はお正月の三が日の間に何とか仕上げていた。そんな会の欠かせないメンバーにメグ・ライアン(日本人)が居た。「メグ」と呼べば馴れ馴れしく、「メグちゃん」と呼べばよそよそしい感じがするという微妙な距離感のなかで、ある時に顔を合わせて「よぉ!メグ・ライアン!」と声をかけたら予想外に嬉しそうな顔をしたので、それからずっと「メグ・ライアン!」と呼んでいた。ハリウッド女優のメグ・ライアン(アメリカ人)とはまったくタイプの違う美人であったけれども、美人であったことは間違いない。メグ・ライアン(日本人)は関西出身であり、慕っていた関西出身のアキ姐さんとともに関西文化の話をすると非常に喜んだ。たとえば「やっぱ土曜日によしもと新喜劇がテレビで放映されてないと一週間の生活にリズムが出んなぁ」というような話。メグ・ライアン(日本人)は基本的にはゲラ(笑い上戸)のクセに人前で大声を出して笑うことを恥ずかしいと思っているようなフシがあり、私とシャラポア(妻・日本人)のトークを笑いをこらえながら聞いていたメグ・ライアン(日本人)の表情や姿勢というのはなかなか可愛いものであった。そして、メグ・ライアン(日本人)が我慢できずにとうとう大声を出して腹を抱えて笑い出した時には、私とシャラポア(日本人)はアイコンタクトの後でガッツポーズをしてハイタッチをしたものであった。 新年会だけではなく、真夏に福島潟キャンプ場で、やはり4組みの家族での泊まり込み大バーベキューパーティを盛大に執り行ったこともあった。その時に「さあメグ・ライアン、俺の得意料理を食べてみてくれ」とダッチオーブンのリッド(蓋)を開けて丸焼きチキンを見せたら彼女は「きゃぁあああああああ!」という大きな悲鳴を上げた。そうだった、彼女は鶏肉がダメだったのだ。なのでお口直しというよりは機嫌直しということでコールマンステーキ(コッヘル123番)を作ると、そっちの方は「美味しいし、何だかオッシャレ!」と喜んでくれた。そういえばお酒はワインが好きだった。 数年前、そんな彼女が難病にかかってしまったということを聞いた。難病は治療もまた難しいものであったことは想像に難くない。ただ、恒例の新年会は彼女自身がとても楽しみにしていて、その場には元気に姿を現していたことを見て、希望的な観測も含めてではあるけれども治療が功を奏していることを感じていた。最近になって彼女は4日間の予定で実家に静養のために帰った。お子さんたちを含むご家族に「すぐに帰ってくるからね」と言って。そしてそれはその通りになった。ただし遺骨という形になって。 つい最近、新潟空港から大阪の伊丹空港へ行く飛行機に乗った。彼女が帰省の時にはいつも使っていたであろう路線だ。機上から見るトワイライトのなかに、笑いを堪える彼女とこらえきれずに笑い出す彼女の顔が浮かんではそっと消えていった。

合掌 マーヒー加藤
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by kaneniwa | 2014-07-27 02:05 | 草仏教
2014年 07月 03日

草仏教掲示板(70) 失敗より諦めのほうがほんとうは恐い 

b0061413_10164638.jpg 本当はこの言葉については書く予定のことではなかったが「泣く資格」のようなことを思ってしまった。朝から兵庫県議会の野々村竜太郎議員の号泣を見せつけられてしまって教育上よくない。YouTubeなどで「抱腹絶倒オモシロ映像」としてすでに世界中に駆け巡っていることが悲しい。地域政党である西宮維新の会(大阪維新の会とはまったく関係がないようだ)を旗揚げして代表となり県議となったのだが、2013年度の政務活動費として支出された300万円以上についてそれを説明することを諦め、本当のことを話す勇気も諦め、潔くあろうとすることも諦め泣き出しながら支離滅裂なことを口走りはじめた。小学生の、それも低学年でもなければ許されないことであろう。それにくらべてFIFAワールドカップの決勝トーナメント・ベスト16の激しい激突の末、果敢なチャレンジの末の敗者の涙は何と素晴らしいものであろうか。ブラジルにあと数センチ及ばずに去っていったチリ代表、メッシを徹底マークすることを120分間続け、その最後の最後でアシストとなるパスを出されてゴールを奪われたスイス代表。コスタリカに敗れたものの国からの決勝トーナメント進出についての特別ボーナスを固辞したギリシャ代表。彼らは予算不足で普通のホテルに一般客と肩を並べて宿泊しながらも日本を含むグループCを闘いぬいた。ベルギーに延長戦で2−0とされながらも19歳のジュリアン・グリーンが放って決めたボレーシュートに勢いを得ながら、最後の最後まで激しく闘いぬいたアメリカ代表。ちなみに敗者でありながらマン・オブ・ザ・マッチに選ばれたゴールキーパーのティム・ハワードをはじめ、ベルギーの怒涛の攻撃に試合中からすでに涙目で体をはってディフェンスをしたアメリカ代表の戦いぶりに感銘を受け、何となく「スターバックス」(bucksでなくてbacks)という言葉が思い浮かんだ。敗退していくがアメリカサッカーには未来があるなぁ。決勝トーナメントではグループリーグでの噛みつき行為のために出場はできなかったが、ウルグアイ代表のスアレスはワールドカップでの初得点を初めとする2得点を決めた試合の後で「少年時代からずっとワールドカップでゴールする日のことを夢見てきたんだ」と涙を流した。スアレスの噛みつき癖はいけないものの、ワールドカップでのゴールするという夢を諦めずにやってきてよかったねと感じさせてくれた。でも噛みつき行為はやめてね。とにかく、アメリカ代表選手たちの涙、スイス代表選手と勇退していく監督の涙には諦めなかった者たちとしての泣いていい資格のようなものを感じた。

マーヒー加藤(ブログ本文)
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by kaneniwa | 2014-07-03 11:38 | 草仏教
2014年 06月 12日

草仏教掲示板(69) 親は半分しか育てられない

b0061413_10172591.jpg 親は半分しか育てられない 自分の親としての実感からくるつぶやきにバカみたいに自分で共感しつつ掲示したものの、バカみたいに「半分も育てられたら上等だよなぁ」という感想をもったりする。音読ということの意義が「自分で読み上げた声が自分の耳に言葉として入ってくる」ということにあるのと同様に、掲示伝道ということの意義もまた、自分で選んでみた言葉を自分で目にするということかもしれない。 「勉強しろ」と言われて勉強したことがない私は自分の子どもたちに「勉強しろ」と言えばふてくされて勉強しなくなってしまうであろうことを感覚的に知っている。多分「勉強するな」と言った方が主体的にかつ意欲的に勉強しそうな気がしているが、実際に「勉強するな」と声をかけることはギャンブル的な要素も多分にあるのでなかなか言えない。「無理をするな」と言うことで多少の無理を自発的にしてくれるという感じだろうか。ともかく、半分も育てられたら上等だよなぁと掲示した後に思ってしまう。

マーヒー加藤 (ブログ本文)
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by kaneniwa | 2014-06-12 10:34 | 草仏教
2014年 06月 05日

草仏教掲示板(68) 歌声が聴こえる

b0061413_21461793.jpg 歌声が聴こえる。姿は見えないが 誰か生きている。コピーライターの仲畑貴志さんの言葉であると私のメモには確かにある。ネット時代に検索をすれば、すぐに何の広告にある言葉であったかが分かるはずと思いつつ、実はわからなかった。 寺の正面玄関前にあえてこの言葉を掲示させていただいたのは、夏になってクーラーなどは入っていない本堂の戸を開放し、外にもおそらく少しは漏れ聞こえるであろう私やご門徒さんのお念仏の声、「正信偈」(偈はまさにうたという意味です)の唱和の声、そして歌とはいえないけれども『仏説阿弥陀経』などの読経の声に、頭から入って考えるというよりも毛穴からでも感じてほしいというような思いがあった。 私が東京乃木坂の仲畑貴志事務所の奥に設置されたカラオケ装置付きのホームバーで夜中の3時まで飲み明かしたことがあると言うと、広告業界の人などは「えっ!ウソでしょ?」と言うが、ホントである。2001年の6月のある土曜日、毎日新聞社東京本社(竹橋)で開催された「万能川柳」のパーティに参加した。150人以上、200人近くの人々のほぼ全員がゲラゲラ笑っているという珍しく、盛大で、活気がある大パーティであった。大学時代の後輩の京都に住む坂口チロルとともにそのパーティに参加する予定であったが、チロルは直前に体調をくずしたために大会場(毎日新聞社地下一階)で大人数の全員と初対面となるはずだったのだが、まずは受付にはネット川柳の草分けともいえる「POPドラゴン」を主催する杉山竜さんがいて「ああ、まひとさん初めまして!」と声をかけられたのをはじめ、なんせ毎日新聞の「万能川柳」でその作品を知っているか、もしくは今ほどは普及していなかったもののネットでの交流がある人が多かったので「はじめまして」と言葉は交わしつつも「わはは、ホントに初めて会うのかい?」という感触とともに、なんせ短い言葉に絶妙のウィットとユーモアーを込めることができる天才ばかりであるから会場のあちこちでヒットギャグは巻き起こり笑いの渦がウェーブとなる。13年前に私は既婚であり子どもも居たが隣の紺のスーツの清楚でキャワイイ女性にややナンパ気味に声をかけると、その人は当時「ブルースを歌えば上手そ大仏さん」や「ゴスペルが似合う三十三間堂」といった「仏教音楽作品」をもって秀逸(優秀賞)を連発していた丁珍姉御(ちょうちんあねご)さんだったのだ。私は勝手にその川柳名も丁珍姉御(提灯ネオン)と読んでいたのだが、どんなぶっ飛んだ人かとおもいきやそんなプリティなレディであるとは知らず心底驚いたのであったが、話してみればやっぱりおもろかった。そして当時から「喫煙者」という百害あって一利ある特権から喫煙コーナーに行けばヘビースモーカーの仲畑貴志さんを中心にコアなメンバーが揃いつつ談笑をしていたのであった。 その後、2次会となって人数は徐々に減っていったものの50人を割ったぐらいの人数になった時、仲畑さんの号令で乃木坂の事務所に集結したのであった。仲畑事務所の窓からは東京タワーが見えて、ちょうどテレビ東京の「演歌の花道」のタイトルバックのようだった。水割りを飲みながら隣に座られていたのが、私も作品といい会ってみてそのお人柄に大ファンになり、女性たちにも「知的なエッチ紳士」と大モテだったこだま岳人さんと惜しくも最近お亡くなりになられた河童猿さんであった。その河童猿さんと親友であったヒヤケナスさんとは、そのお亡くなりになった後にますますご縁の深さを知ることとなる。最近、水野タケシさん(毎日新聞の万能川柳のファンでこの人の名前を知らない人はまずいないと思う)から「仲畑事務所での宴会の途中で泥酔して烏龍亭茶々さんに担がれて帰った方がヒヤケナスさんですよ」と教えられて「あっ!」と声を上げた。鮮明に思い出したからだ。生前、お目にかかれなかった、お会いできなかったことを残念に思っていたら、少なくとも同じ空間で同じ時を仲間とともに過ごしていたのだ… マイクがまわってきて、わけがわからないけれど入れた曲がBOOGIE MANの「パチンコ・マン」であった。ジャマイカンDJスタイルのレゲエラップ調の曲であるが、早口での阿弥陀経の読誦に慣れてさえいれば難しくないので歌ったら(歌うというよりは言葉を打ち込む演じ方か?)嬉しかったのは何よりも「ワハハハ、何だこの曲は!」と仲畑貴志さんにバカ受けであったことだ。 ヒヤケナスさんも河童猿さんも、みんなの歌声のなかに確かに居た。カラオケというものが大嫌いだった時期もあるのだが、なぜか今はいいものだと思っていて、そんな過渡期にその素晴らしきパーティはあった。

マーヒー加藤 (ブログ本文)
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by kaneniwa | 2014-06-05 23:26 | 草仏教
2014年 05月 16日

草仏教掲示板(67) 人の心にもとより善悪なし

b0061413_1519577.jpg 人の心にもとより善悪なし これは道元禅師の言葉である。僧侶ではない人の言葉を法語として掲示できうるというところに浄土真宗の特徴のようなものを感じていたことは確かで、前回はとうとう壇蜜の言葉までが登場した。面白かったのはご年配の方から「この壇蜜という方はさぞかし歴史に名を残す名僧でいらっしゃるんでしょうねぇ」と言われたことだ。ともかく、気がつけばけっこう久しぶりに僧侶の言葉の登場である。そして、それは浄土真宗の僧侶ではなく曹洞宗の開祖であられる道元禅師の言葉である。この言葉は『正法眼蔵』のなかにあるのであるが、私は『正法眼蔵』を通して読んだことがない。学生時代に岩波文庫で読んだといえば読んだことはあるけれども、基本的な仏教の言葉さえまったく吟味できなった頃であるから、やっぱり読んだことがあるとは言えない。ただ、わからなくてもいくつか感じてくる言葉というものは私なりにあって、ある意味浄土真宗の僧侶の視点からすぐに感じてくるものがある言葉が「人の心にもとより善悪なし」であった。 大長編野球漫画である『あぶさん』の全巻のなかで(こちらは詳細までは覚えてはいないけれど『正法眼蔵』に比べたら胸をはって「読みました」と言える)私がいちばん感動したシーンは村田兆治投手のカムバックのくだりである。ロサンゼルスでジョーブ博士による右肘の手術を経て2年ぶりのマウンドに上がった村田兆治投手に対し、打者のあぶさん(景浦)はタイミングのずれた大きな空振りをする。しかし、マウンド上でその空振りは自分の全盛期のストレートをイメージしてのものであると察した村田投手が投じた渾身のストレートを、あぶさんはレフトスタンドに大ホームランを放つのであるが、打たれた村田投手は「帰ってきた、オレはここに帰ってきたんだ!」とこぶしを握りしめて歓喜の涙を流すのだ。あぶさんは実在のプロ野球選手が登場するとはいえその対決はフィクションではあるが、その後の「サンデー兆冶」としての劇的なカムバックの象徴となっているような名シーンであった。その村田兆治さんが肘の故障を抱えてつつジョーブ博士と出会う前まで、かなり怪しげな療法や思想にも頼ろうとしたようである。そしてスポーツ医学の第一人者のジョーブ博士の手術を受け、そのカムバックを静かに待つ間に読んだものが道元と親鸞であったと私は聞いている。そして、村田さんは取材をしにきたスポーツライター(確か玉木正之さん)にこう言ったと聞く。「道元も親鸞も、ただただ道を求めてもがき苦しんでいただけなんだ」と。法語とは少し関係のない話になってしまったけれども、その村田兆治さんが引退後のライフワークとしているのが「離島の青少年に野球を教える」ということで、新潟県の粟島をその第一弾として、全国各地の離島を駆けまわった。その集大成として今年の8月18日から5日間、新潟県の佐渡市にて全国離島交流中学生野球大会(離島甲子園)が開催される。北から南から、東から西から村田兆治さんの薫陶を受けた24チームが佐渡ヶ島に集結する。ああ、出かけてみたい。始球式はたぶん村田兆治さんだと思う。65歳の村田さんがマサカリ投法で、豪速球の始球式を見ることができるだろう。

マーヒー加藤 (ブログ文)
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by kaneniwa | 2014-05-16 16:54 | 草仏教
2014年 04月 18日

草仏教掲示板(66) 壇蜜の言葉

b0061413_18215526.jpg 「法語を発する人が僧侶とは限らない」ということが、浄土真宗の掲示伝道には特徴としてあると思う。それはたとえば「真宗教団連合カレンダー」を見てもそうである。僧侶ではない人を「在家」とひとくくりにしても、そこには安田理深(やすだりじん)先生のような大学者もいるし妙好人(みょうこうにん)という純朴な信心に生きた信徒の人々もいる。ただ僧侶ではない人の言葉を法語としていただくことも多いというところには浄土真宗の特徴のようなものがあると思っている。私はそのことに積極的すぎるのかもしれない。最近だけでもサントリー烏龍茶の広告文予備校講師の言葉長渕剛の反省文ハラダイスカウンターショーレディ・ガガの言葉などなどがあり、「たまには僧侶である人の言葉も出さなきゃなぁ」とさえ思うような状態になっている。そして、今月は 壇蜜(だんみつ) の言葉の掲示である。 壇蜜の存在をはじめて知ったのは新書で『マイ仏教』を世に問うた数年前の時期のみうらじゅん氏によってである。後に福山雅治、テリー伊藤、宮川大輔、 加藤浩次、 後藤輝基(フットボールアワー)、そして中居正広(SMAP)などのそうそうたるメンバーが壇蜜を絶賛して一気にブレイクしたのであるが、マスコミ関係者で最初に壇蜜の存在にスポットライトを当てたのはみうらじゅん氏ではないかと思っている。その強い推挙によって、確か『フライデー』であったと記憶しているが、実に久しぶりに袋とじグラビアが付いた雑誌を購入したのであった。久しぶりといえば、単なる飾り物になっていた「ペーパーナイフ」というシロモノを行使したのも久しぶりであった。本来、ペーパーナイフとは昔の袋とじの洋書のペーパーバックを読むための道具であるが、今の時代にその手の雑誌なかりせば何処にペーパーナイフの役割あらんや。でも、何だか袋とじを開ける時にドキドキしたなぁ。ヨハネの黙示録の七つの封印が解かれる時には人類は滅びると言われているそうだが、週刊誌の袋とじという封印を解いた時には自らが滅びるのではないか?というほどの緊張感さえもちつつ私はグラビアの壇蜜と初対面をした。それが、いつの間にかシャラポア(妻・日本人)さえも壇蜜のファンになっていくとは想像していなかった。まずは「壇蜜」という芸名にやられた。仏壇の壇に蜂蜜の蜜。それは『観無量寿経』のなかで牢屋に幽閉された頻婆娑羅王に面会に行った韋提希夫人が体に蜂蜜を塗って王に舐めさせたという、いわゆる「ハチミツぺろぺろ」のシーンを連想させた。その壇蜜のブレイク直前、もしくは直後という時期に「チューボーですよ!」という番組のゲストに登場して堺正章とともにベーコンチーズバーガーを作っていたのであるが、堺正章を軽くあしらう壇蜜を見ていてシャラポアが壇蜜のファンとなっていった。この言葉は、シャラポアが「しゃべくり007」という番組のなかで恋愛相談に答えて「若い時に傷ついておかないと、将来もっとしんどい状況におちいった時に自分自身を励ませなくなる。自分自身を励ませるのは、結局自分自身しかいないから。」という言葉に感銘を受けてのことである。 

マーヒー加藤(ブログ文) 
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by kaneniwa | 2014-04-18 09:07 | 草仏教
2014年 04月 16日

草仏教掲示板(65) それゆけ私!!

b0061413_0151194.jpg 石垣島をはじめとする八重山諸島についての記事を2週間にわたって書いてきたので、今月に入ってからの法語掲示板を紹介することが遅れた。まず「それゆけ私!!」という言葉を掲げさせていただいている。何じゃそりゃ?というご意見もあろうけれども、寺はJRの駅にも近いので、この寺院掲示板に目を通していく人のなかには新しい制服に身を包みながら新しい気持ちで掲示板に目を通していく人もいるだろうなぁ、という私の気分で決めた言葉である。気分ではあるけれども、この言葉の典拠というか出典はサントリー烏龍茶の1997年の広告文である。 がんばってきれいになる。「それゆけ私」サントリーウーロン茶。 というコピーの真ん中をとってエクスクラメーションマーク(!)をふたつ(!!)付けさせてもらった。 「それゆけ私」という言葉が妙に頭や心に残っていたのは、私の妙な固執によるものでもある。「それゆけ私」という言葉の主語は何か?などという眠れなくなる、あるいは考え出したらすぐに寝てしまうような問題を考えてしまったことがあるからだ。では、日本語よりはるかに主語が明確であるといわれる英語で考えてどうよ?中学生でもすぐに浮かぶ「Let's go.」という言葉。主語は何よ?「Let us go.」でも「Get us to go.」でもいいや。主語は何なのよ?この問題を考え出したら眠れなくなって眠ってしまい、朦朧とした意識のなかで何となく「それはね、如来から賜るLet'sというはたらきかけを察知することができた己のなかの法蔵菩薩が隠れ主語になっているんだよ」という声(from主語神?)を聞いたような聞いていないような。 ともかく、私は道行く人々に、この謎のはたらきかけを提示することにした。その道行く人たちのなかには高校生になったばかりのうちの長女も中学生になったばかりのうちの長男も含まれている。長女は高校生でもアルト・サックスを続けるつもりでいたが公立高校ながら音楽科もあるその高校は吹奏楽ではなくオーケストラとなっていて編成にアルト・サックスはなく、部活動はコーラス部に所属することになるようだ。「それもまたいいじゃないか、それゆけ私!」と思った。そして、私もこのようなオチがつくとはまったく思っていなかったが、所属するコーラス部は「声が荒れてしまう可能性があるのでウーロン茶は禁止」という独自のルールがあるという。わはは、サントリーのウーロン茶は飲めなくても「それゆけ私!!」

マーヒー加藤 (ブログ文)
シャラポア (書)

※ 実は掲示板には二つの言葉を並べております。
  このサントリー烏龍茶を典拠とする「それゆけ私!!」に並んで、
  シャラポア(妻・日本人)が選んだ 壇蜜 の言葉があって、
  今月は今までにない反響も感じております。
  壇蜜の言葉については近いうちにこのブログで紹介させてもらいます。
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by kaneniwa | 2014-04-16 01:07 | 草仏教
2014年 03月 24日

草仏教掲示板(64) 生まれかわるなら 生きているうちに

b0061413_23381581.jpg うまれかわるなら 生きているうちに 長渕剛の言葉である。宗派の違いというのか、伝統と新興の違いというのか、釈尊についての見解が違う教団の影響を受けた人の言葉をとりあげただけでもご批判や揶揄する声をいただくことがある。「しかし、言葉とか作品というものはそんな壁をこえたところにある」として言葉を選んで掲示してきた。しかし、今回はそんな私でもちょっとだけ迷った。1995年に大麻取締法違反で逮捕され、起訴猶予とはなったもののその時に「仏性」という言葉を何度も使った彼の反省文があった。(私は週刊誌でそれを読んだ)この言葉はその流れのなかにある言葉である。生まれかわりというものが、あるのか、ないのか、わからない。極めて大雑把だがインドやチベットの人々の多くはごく自然にそれを信じ、漢民族の観念のなかにそれはあまり入っておらず、代わりにというわけではないが魂魄(こんぱく)思想というか、霊魂不滅的なものを自然に信じる文化がある。どちらか、わからないし、どちらが正しいとも言えないが、とにかく「生まれかわり」というものを問題にするならば、それは死後の世界よりも「生きているうちのことだろう」と思った。

マーヒー加藤(ブログ解説文)
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by kaneniwa | 2014-03-24 00:00 | 草仏教
2014年 03月 07日

草仏教掲示板(63) 林修氏の言葉

b0061413_620764.jpg たまたま受験シーズン(私立大学の大半はもう終わったかな?)の掲示となった言葉は東進予備校というよりも全国でもっとも有名な予備校講師となった林修氏の「人生は一つ勝てる事があればあとは全部負けていい」という言葉。「決して負けない 強い力を 僕は一つだけ持つ」(THE BLUE HEARTS リンダリンダの歌詞より)と、どちらを掲示しようかちょっと迷った。こういうことの「一つ」ということには重みがあり、リンダリンダの詞が「強い力を僕はたくさん持つ」では歌にならなかった。願いが一つだけという人がいたとすれば、その願いは叶いやすいような気もする。たとえば、アラジンの魔法のランプだって願いは三つまでであるのに結婚相手を求める真剣さは解っても相手に求める条件が五つや六つも言われるとあきれ果ててしまう。「容姿端麗」でも「若さ」でも「優しさ」でも「経済力」でも何でもいいけれども、願いが一つだけなら何となく上手くいきそうな気がするのだ。 林修氏が深夜のテレビで喋っていた。今、検索で調べたら昨年の12月14日の「SWITCHインタビュー 達人達」(NHK・Eテレ)であることがわかったけれども(私が見たのはたぶん深夜の再放送だ)林修氏がライフネット生命保険の代表取締役社長である岩瀬大輔氏のための特別授業をしているなかで「現代文天丼理論」というものが頭に残った。林修氏が言うには入試に出てくる国語の現代文というのは「安い定食屋さんの天丼」であるそうだ。つまり、海老に分厚いコロモを付けて「海老はどこだ?」というぐらいにしてあり、一読ではなかなか筆者の言いたいことの核心がわかりにくい文章というものが出題されるので、文章のなかの「海老」を見出すということがいちばんのエビ、もとい、キモであるそうだ。反省も込めてであるが、私も自分のなかの「エビ」をもっていたいと思った。そうでなくては「僧侶だけにコロモ(衣)しかない」という嫌なオチがついてしまう。

マーヒー加藤 (文)
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by kaneniwa | 2014-03-07 06:54 | 草仏教
2014年 02月 22日

草仏教掲示板(62) 許すとは 過去を手放すこと

b0061413_0243774.jpg 「取り返しのつかないことをしてしまった」とは、浅田真央選手がソチ五輪でのすべての演技を終えた後、フリー演技で自己最高得点を上げて6位に入賞したのにも関わらずに個人戦のショート・プログラム演技で全体の18位に終わったことを悔いて発した言葉である。何でこんな犯罪者の懺悔のような言葉を発せなければならないのか。そして2020年東京五輪・パラリンピック組織委員会会長の森喜朗元首相に「大事なときには必ず転ぶ」などと評されなければならなかったのか。本題ではないけれども「問題発言の部分だけが抜き取られて取り上げられている」という意見もあり、発言箇所の全文の書き起こしも読んでみた。なるほど「なぜ団体戦に出なければいけなかったか、浅田選手がかわいそう」という言葉もあり、抜粋記事を読むのとでは少しニュアンスが変わってくる。しかしながら、逆に書き下し全文を読むことによって冒頭には「また20時間かけてパラリンピックに行かなければならないと思うと暗い気持ちになる」という趣旨の発言があることにも気がつき「やっぱりこの人が会長でいいのか?」と、こっちの方が暗い気持ちになってきた。 少し本題に帰っていこう。「メダルを期待してくれた人々に申し訳ない」という気持ちが犯罪者の懺悔のような言葉を言わせたとしても、浅田真央選手はフリー演技で会心の演技をすることができたことにより自分を許すことができたような気がする。(これは仮定の話だがショート・プログラムでトップと点数が並んでいたとしても4位であった…いや違うな、3位で銅メダルだったな) 許すとは過去を手放すこと この言葉はベニシア・スタンリー・スミス(Venetia Stanley-Smith)さんの言葉である。この方がどういう方というとイギリス出身のハーブ研究家で、ご伴侶が山岳写真家の梶山正さんという方で、現在は京都市の大原にお住まいであるという。どこでこの言葉と接したのか記憶がない。多分ネットで見つけたと思う。本当は逆なのであるがネットで出典を調べてみたら 「ベニシアさんの四季の庭」という映画のなかに~許すとは過去を手放すこと~という文章があるという。それを引用しておきたい。

~許すとは過去を手放すこと~
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by kaneniwa | 2014-02-22 01:04 | 草仏教