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カテゴリ:草仏教( 161 )


2013年 08月 13日

『歎異抄』って親鸞と唯円との本音トークが収められた本なんだね!(2)

というわけで、
ラジオから若い男たちのシー様(親鸞)萌え、シー様かっこいい、シー様にサブイボ(鳥肌)、
シー様のパンク人生万歳発言を聞いているうちに思い出したことがあった。

ワグネル・ブロンゼリ先生について書いたことがあった。
この先生が京都に留学している時の夏休みだったか春休みだったか、
滋賀県の浄土真宗の寺院で法話をされたことがあった。

私はその場には居なかったので、どのようなご法話をされたのかは知らない。
ただ、ワグネル先生がブラジルで遇いがたくして浄土真宗に遇うことができたことの感動と、
親鸞という人についての称賛を率直に語られたことは間違いがないと思う。

ワグネル先生のご法話が終わり、
その当時大学生だったか高校生だったか忘れたが、
その住職さんの娘さんが涙ながらに

「お父さん、なんで親鸞聖人がこんな素晴らしい人だったということを
 今まで教えてくれなかったの?
 今日、ワグネル先生のお話を聞くまで、
 私は浄土真宗の寺に生まれたことをまったく誇りに思ってこなかった…」


と訴えたというのだ。

このエピソード、私が聞いたのは15年前、結婚したばかりの頃にそのご住職さんから伺った。
これだけで充分意味のあるエピソードだと思う。
ただ、14歳の娘がいる今はちょっと違った角度から吟味している。
私がその住職さんであれば、こう答えると思う。

「娘よ、それはね、お父さんが教えたのではなくてワグネル先生の素直で誠実な言葉で聞いたから
 響いて届いたんだよ。文学だって教科書で教えられるのと自分で求めて読むのと違う。
 ただね、お父さんも先週ラジオで親鸞聖人の生涯の略歴と『歎異抄』という書物の概要だけを
 聞いて感動しまくっている若者たちの声を聞いたんだ。
 親鸞ってスゲエ、親鸞ってヤバい、親鸞って萌える、ということを新鮮な心を取り戻しつつ
 伝えたいなぁということは思ったよ」


これ、次回はフランス人女性のエピソードをもとに続きます。

マーヒー加藤
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by kaneniwa | 2013-08-13 23:31 | 草仏教
2013年 08月 11日

『歎異抄』って親鸞と唯円との本音トークが収められた本なんだね!(1)

半眠ながら日付の上では昨日の深夜0時過ぎに
FM Port(にいがた県民FM)の
『学!!late night!』
という1時間番組をぼけっーと聴いていた。
この番組のナビゲーターは野沢直子。
といっても同姓同名のよしもとクリエイティブ・エージェンシー所属の
ベテランお笑いタレントではない。
ラジオのFM放送でしゃべっていたのは naoko(なおこ)の方。
お姉さんはニューヨーク在住ジャズ・ピアニストの野沢美穂で、
全国的には naoko の名前で活動しているのであるが
なぜか新潟県内だけは新潟明訓高校出身であることもあって
本名である 野沢直子 で活動しているという。

ともかく、その野沢直子が相変わらずのいい声で
「何だか親鸞聖人の経歴と『歎異抄』について喋っているぞ」
と思った。
『歎異抄』という書物が書かれた経緯と、親鸞の生涯を紹介していた。
それを3人ほど(に聞こえた)の若手DJやアシスタントとおぼしき男性たちが
うなずきながら聞いてコメントを述べている。
これがたとえば五木寛之がゲストでNHKの『ラジオ深夜便』あたりなら
別に何も驚くことはない。
ところが、合間にかかった曲などブラック・コンテンポラリーのバラードであり、
NHKとは趣が異なった。
さらに「NHKではこれはなかったぞ!」というのが聞き役の若い男たちの
実に率直な感想コメントであり、私はそれを耳にして実に嬉しくなった。
それらを聞いていて野沢直子が浄土真宗と真言宗を混同しつつ言い間違えたこと
(JALとANA、トヨタと日産、美空ひばりと都はるみを取り違えてしまうようなミスだぞ)
とか、親鸞の伴侶については諸説あるのに、
「越後(新潟)に流罪になってから新たな伴侶を新潟で見つけた」
という説のみを絶対的な事実であるという口調で紹介していいのかなぁ?
という負のポイントを一気に消し去ってしまうようなものだった。

男A 「いやあ親鸞の話を聞いていたら何だかサブイボ(鳥肌)が出てきちゃった」
男B 「親鸞ってパンクだよね、かっこいいなぁ」
男C 「何だか親鸞聖人というよりもシー様とかシンちゃんとか呼びたくなるよね」

そして今回のブログの題にした
「『歎異抄』って親鸞と唯円との本音トークが収められた本なんだね!」
の言葉を聞いて、
私はSONYのラジオにボタンひとつで放送をSDカードに録音できる機能があったのを
やっと思い出して終わりの15分だけ収録した。
ああ、もうちょっと早めにそれを思い出せばよかったなぁ。

「パンクだなぁ!」という声は
親鸞という人について、特に愚禿釈(ぐとくしゃく)親鸞と名のられたことが紹介された
時に上がった。
「パンク」や「サブイボ」
などという称賛の声は、私のボキャブラリーのなかにその言葉はあっても、
親鸞聖人への賛嘆の言葉として当てはめる発想はまるでなかった。
そして男たちは口々に

男A 「いやあシー様がいると思って新潟の夜空を眺めたいなぁ」
男B 「何だか今夜、シー様からのメッセージを夢のなかでもらえそうだぞ!」
男C 「親鸞のことを聞けば聞くほど感動するから
   絶対に親鸞パート2、歎異抄パート2をやりたいよね!」

と言っていたのだ。

放送を最後まで聞いてみて、
月曜日〜木曜日の『学!!late night!』と違って、
金曜日の深夜は『学!!late night!』の過去の放送の再放送の日であり、
私が最後半だけを録音しながら聴いていた放送はこの前の金曜日のもの。
2010年2月に放送されたものの再放送だったようだ。

とにかく
「親鸞に会って素直に驚き、感動をする」
ということを忘れかけていた。
この番組を聞けたことを感謝したい。
これについて、どうもお盆期間になって世間は夏休みであり僧侶仲間は忙しいのか
ブログへのアクセスレポートを見るとアクセスは昨日から半減しているけれども
メゲずに、このテーマについて続けて書いてみたいと思っている。

それから、露骨な売り込みですが、
野沢直子様、それからFM Portの番組プロデューサーやディレクターさん。
もしも、このブログ記事をお読みになられたらですが、
県内の胎内市に、学生時代は歎異抄を読みながらレゲエやパンクロックを聴いていた
マーヒー加藤という人が居ますよ!

マーヒー加藤
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by kaneniwa | 2013-08-11 23:51 | 草仏教
2013年 06月 12日

草仏教掲示板(54) 前向きな 訳は後ろが がけだから

b0061413_10332552.jpg 前向きな 訳は後ろが がけだから 水野タケシさんのこの川柳作品から思い浮かんだのは7世紀の中国浄土教の善導(ぜんどう)大師(たいし)の「二河白道」(にがびゃくどう)の比喩(ひゆ)であった。相変わらずの超訳というか私のフランク大雑把な訳文でこの「二河白道」の文章を書き綴ると… 東から西に荒野を一人行く旅人が居た。「やっぱ一人は辛いなぁ、孤独というものは嫌だよぉ」と思っていると、まさに泣き面にハチであり、背後から虎やらサソリやら蜂の大群やら自分の生命を脅かす者たちが大挙して押し寄せてくる。大挙してやってくれば、まず退去。必死に逃げるのであるが、前方には火の大河と水の大河があって前に進めない。(水は欲望、火は怒りの心をあらわすとされる)「ありゃ!前方には大河で後方にはタイガー!行っても戻ってもとどまってもダメじゃん!」と思った時に、水と火の大河の中央に、その幅が四寸から五寸という平均台のような白い道を発見!川の向こうには阿弥陀様が居て「この白い道を渡って来い」と招いてくれる。いつの間にか背中にお釈迦様がいて「その道だけがあるのだから、もうポジティブにそこを行くしかないじゃん!」と励ましてくれる。(お釈迦様はどういう存在か?このお釈迦様の立ち位置がそのまま浄土教というか念仏の功徳を説く仏教の本質があらわれていると思っている)そこで、その招きと励ましによって旅人はその白い道を歩みはじめるのであった。(善導大師の『観経疏』の「散善義」に To Be Continued…)  四五寸というサイズが善導大師の『観経疏』のその比喩の箇所に実際に書いてあって「何じゃこのサイズ表記は?」とずっと思ってきた。思うにこのサイズは人間の足幅(ワイズ)ではないかと思う。その白道の右側を行こうとか、左側を行こうとか、中央を行こうとかいうチョイスもないし迷いもない。その道があってそこを行く、ということがあるのみということを強調しているサイズ明記であると思える。後ろに崖を控えて「私にはこれしかない」から「私にはこれだけはある」という確認のようなものがあった時に、人は前向きになりポジティブになる。今まで1000句以上が『毎日新聞』の「万能川柳」に掲載された水野タケシさんの特集が『毎日新聞』に掲載された時に、この一句に笑いつつ泣いた方のご感想をもとにシャラポア(妻・日本人)が感応し、法語として掲載させていただくことになった。許諾をいただくメッセージを水野タケシさんに送信したところ、スマートフォンをお使いなのか2分後にすぐにご快諾をいただけたことも嬉しかった。ちなみに、本ブログタイトルの「草仏教」は、プロ野球に対する草野球の「草」という意味ももちろんあるが、今は亡くなられた埼玉の河童猿さんの川柳仲間のためのホームページへのお正月用の水野タケシ氏寄稿の一句 「いつか花 咲くから夢は 草かんむり」 の言葉から浮かび上がってきた言葉である。

マーヒー加藤(文)
日本人シャラポア(書)
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by kaneniwa | 2013-06-12 11:32 | 草仏教
2013年 05月 23日

草仏教掲示板(53) 人が死んだ後に残るものは集めたものではなく与えたもの

b0061413_23363834.jpg 人が死んだ後に残るものは集めたものではなく与えたもの (ジェラール・シャンデリの言葉) この言葉はfacebookから採らせてもらったものだ。昨年あたりからfacebookやTwitterから掲示伝道の言葉をいただくこともよくある。ところが、このジェラール・シャンデリという人のことがよくわからない。私と同じくジェラール・シャンデリについて調べようとしている人がけっこういらっしゃるということだけがわかった。かろうじて分かったことを書けば、作家の三浦綾子さんの著作である『続・氷点』(角川文庫)の中に、ジェラール・シャンドリの言葉としてこの言葉が引用されており、それはフェデリコ・バルバロ著の『三分の黙想』(ドン・ボスコ社)という本に出ていて、そこからの孫引きであるとのことだ。フェデリコ・バルバロ(Federico Barbaro, 1913年 - 1996年)はイタリアの聖書学者である。とにかく、ジェラール・シャンデリについてはわからないことだらけであるが、この言葉を掲げさせていただいている。棺桶にご生前に愛聴されていたCDを入れようとされるご遺族がいらっしゃり「それは高温で焼くと粉々になってご遺骨と混ざってしまうので入れられません」と言われ、悲しそうな顔をしていらっしゃるところに立ち会うということがあって、そんな時は「燃やしたと思って私にくださいませんか」なんて言うことがある。そんな経緯で私のもとにやってきた奇妙なコレクションも、おそらく残っていかないのだろう。 東京の神保町の古本屋などで、前回に来た時には「あんまり本が充実していないなぁ」と感じたのに久しぶりに訪ねると非常にセットものが充実しているというようなことがある。…どなたかお亡くなりになったのだな…とそこで察するということもある。そんなわけで、最近、私は自分が金を出して買った新品のものでも「これは授かりものである」と考えるようにしている。

マーヒー加藤 文
シャラポア(日本人) 書
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by kaneniwa | 2013-05-23 23:55 | 草仏教
2013年 05月 06日

草仏教掲示板(52) この木より 後に生まれて 先に死ぬ

b0061413_042430.jpg 巴里雀さんの川柳作品である。今までも毎日新聞の「万能川柳」を中心に何度か川柳作品を掲示させていただいたことがあるが、このたび巴里雀さんご本人と連絡をとることができた。巴里雀(パリジャン)さんは、パリ市民ではなく岡山市ご在住であった。12年前の今頃に毎日新聞社の東京本社で記者の方に「万能川柳を法語として寺報などの印刷物に転載する時にその許諾はどうしたらいいでしょうか?」というようなことを直接尋ねたことがある。「句集など出版物になっているものをそのままコピーするのは問題ですが、五七五の言葉を引用するのに許可は要らないと思いますよ。作者名を作品と併せて記しておけばいいと思います」と言われたのでそれに従っている。なるほど、そうでないと亡くなられたヒヤケナス先生の川柳などは許可のいただきようがない。「ヒヤケナス先生、あなたの言葉は生きてますよ」と掲載させていただいた。しかし、やはり作者ご本人から許諾がいただけ、しかもそれがご快諾であった場合はとても嬉しい。この川柳は、娘が修学旅行から帰ってきた時に清水寺の修復のために木を育てるところからはじめているという話をしている最中に頭に浮かび、掲げたくなった作品である。この言葉を読んでいただいている方がふと視線を右に向けていただけば、そこには銀杏の大木がある。屋久島やカリフォルニアには、樹齢が2500年以上と言われる大木が存在していると聞く。尋ねてみたい。法然、親鸞はもちろんのこと、釈尊(お釈迦様)が人間としてその寿命をまっとうしている間にもあった生命。そんな大木に接したら「人間の寿命は短いなぁ」と思うには違いないが、人間は遠い過去と遙かなる未来を見続けることができる存在である。

マーヒー加藤(文)
日本人・シャラポア(書)
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by kaneniwa | 2013-05-06 23:52 | 草仏教
2013年 04月 24日

草仏教掲示板(51) マハトマ・ガンディーの言葉

b0061413_14333523.jpg 3年前の首相は鳩山由紀夫さんであった。2010年1月29日の施政方針演説で、インドを訪問しマハトマ・ガンディー(Mahatma Gandhi)の墓に献花した際に感銘を受けたという石碑に刻まれた「七つの社会的大罪」(Seven Social Sins)を引用した。1.理念なき政治 Politics without Principles 2.労働なき富 Wealth without Work 3.良心なき快楽 Pleasure without Conscience 4.人格なき学識 Knowledge without Character 5.道徳なき商業 Commerece without Morality 6.人間性なき科学 Science without Humanity 7.犠牲なき信仰 Worship without Sacrifice であった。2番目の「労働なき富」を口にしたあたりで「お前が言うな!」という野次が国会内で激しく飛んだ。私も言おうと思ったが、いちばん最後の「犠牲なき信仰」のところで、これは鳩山さんから言われたからではなくてマハトマ・ガンディーが80数年前に言ったこととして反省させられた。ガンディーの言葉を引用すると、ことに寛容の精神が貧弱な「弱い者」である私に、どこかから「お前が言うな!」という声が聞こえてきそうな気もするが、大事に思う言葉であるので法語として掲載している。ちなみにガンディーの主義を「無抵抗主義」という言葉で表されることがあるが、徹底的な非暴力主義であることはあるが、その非暴力に基づく「不服従」の主義なのである。



文 マーヒー加藤
書 シャラポア(日本人)
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by kaneniwa | 2013-04-24 15:36 | 草仏教
2013年 04月 20日

有田憂田 有宅憂宅 有核憂核

4月17日にフランスのシュルブール港から米・英・フランス軍による警備体制の中、
(といっても30人の程度の警備ではないかと言われている)
アレバ社は福島原発事故後初めて日本への
MOX燃料(危険なプルトニウムとウラニウムをたっぷり含んでいる)の搬出に踏み切った。
65日後の予定で、どこの港なのかはわからないが日本の港に着き
福島第一原発事故以来としては初めて核燃料が日本に入ってくる。
グリンピース
(反捕鯨運動については気に入らないが、核汚染の監視には大きな役割を果たしていると思う)
によれば10トンのMOX燃料のなかに
およそ650キロ〜800キロのプルトニウムが含まれており、
世界最大の放射能汚染物であるという。

有田憂田。有宅憂宅。(略)無田亦憂、欲有田。無宅亦憂、欲有宅。
(田あれば田を憂う。宅あれば宅を憂う。田なければまた憂えて田あらんと欲う。
 宅なければまた憂えて宅あらんと欲う。)


というのは仏説無量寿経(大無量寿経)のなかの言葉である。
田んぼがあれば、収穫、水、虫、天候、いろんなことが気になって仕方ない。
かといって田んぼがなければ田んぼが欲しくて仕方ない。
自宅、それも豪邸は多くの人が欲しいものの代表だが、
あったらあったで盗難、火災、などの心配を含めた維持管理への心配にきりがない。

1986(昭和61)年の1月21日に当時の国税庁が、
日本のなかで東京銀座の鳩居堂前の土地がいちばん高額であり
一坪が約2800万円であると発表した。
鳩居堂は画材、和紙、筆、お香などを扱う店であり私も京都店にはお世話になったが、
世の中の産業としてはどちらかといえば地味で堅実な業種という気がしていた。
マスコミには「日本一地価の高いところ」(ひょっとするとその当時なら世界一か?)
と銀座の鳩居堂は注目され、社長の熊谷道一氏は多くの人に羨ましがられたはずだ。
ところが、社長は新聞に鳩居堂前の地価が発表された三日後に
板橋区の高島平団地で飛降り自殺をした。
持っていた手帳に税金対策のメモがびっしり書き込んであったということを
新聞などで読んだ記憶がある。

車がなければ車が欲しいと心から思い、
車があればあったで新車の時ほど小さい傷が気になって仕方なくなり、
使いこなしてド中古になったらなったでメインテナンス費用がかさみ
車検時なんかには
「まったく車があるということは子どもがひとり増えたようなもんだなぁ」
なんて思ったりする。

1990年前後にロサンゼルスに住んでいた頃は、当時は地下鉄もなかったし
大都会のダウンタウンの中央部でありながら日本の片田舎以上に車がないと
生活が不便であった。
たとえば夜にコインランドリーに行くにも、車がないと世界有数の危険地帯を
歩いていかねばならない。
上司(東本願寺ロサンゼルス別院の輪番さん)のモンザを借りて夜の外出をしていたが、
さすがに昼間にケンカをした日に
「毎度申しわけありませんが、車のキーを貸していただけないでしょうか」
と声をかけに行くのは気まずくて困った。
昼間にお参りに来た知り合いのスーパーマーケット経営者のポルシェ911を借りたことも
あったが、それでダウンタウンのコインランドリーなんかに乗りつけたら
洗濯中も車が気になって気になって仕方なかった。

当時、ロサンゼルスの寺の真ん前、
サードストリートとセントラルアベニューの交差点で
「お前の車をきれいに洗うから2ドルくれよ!」
とバケツとモップを持っていつも声をかけてくる黒人がいた。
「1回でいいからたまには俺にお前の車を洗わせてくれよ!」
と言われた時に
「いや、実は私は自分の車というものを持っていないんだ」
と本当のことを言うと
「えっ?車なしでこのロサンゼルスに住んでいるのか…」
と軽く驚かれた後で、「かわいそうに」というニュアンスをたぶんに含んで
「…Poor!」
と言われたのだ。
「おおおおおお、お前なんかにプアと言われたくないわい!」
と心底腹が立ったと同時に、去っていく後ろ姿を見ながら
「お前ももちろん自分の車を持っていないし、たぶん家もないんだろうなぁ」
と思った。

さてさて、
大無量寿経の元の言葉の順序をパロディとしても入れ替えることになるが
核なければ憂えて核あらんと欲う。
核あれば核を憂う。

ということの重みが増してきている。
核(兵器)を持つことによって国際的な発言力を高め、
その破壊力をちらつかせることによって平和を維持しようという考え方がある。
たとえば将棋(これはゲームであるから愛している)の対戦をするなかで
持ち駒に「角」(本当は飛車に喩えたいのだが、語呂合わせで角を使う)
という強力な攻撃力をもった駒を持っているために相手もそれを恐れて
おいそれと攻撃的な手を打てないということが確かにある。
将棋というゲームのなかでは手駒が多いことは攻撃にも守備にもたいへんいいことだ。
ただ、現実の世の中では核兵器みたいなものも、
原子力発電(やっぱり核発電と呼ぶべきかもしれないなぁ…)もそうだけれども
それを持たない憂いよりも、これは持っている憂いの方が大きいことに気づく。

いろんな意味で、あらゆる角度から、百歩や千歩譲っても、
もう核兵器なんて要らない。
あるとたいへん憂うべきものである。
なぜなら、核兵器の保管場所なんかは当然、
軍事機密のなかのトップシークレットであるが、
何となくだけれどもGoogle Mapsを駆使したらある程度の見当ぐらいつきそうだし、
核兵器を持っている国は核発電(やっぱり原子力発電よりピッタリくる)も
やっていることがほとんど(例外?は今の北朝鮮か?)であるので、
その核や核廃棄物の保管場所、もしくは輸送中の乗り物を爆破すれば
核爆弾を爆破させたものと同じ効果をもつことになるからだ。
将棋で自陣の王将を守るために使っていた「角」の駒が相手の手に渡り、
それを相手に攻撃にさっそく使われてしまう。

それにしても、今までよく輸送中の事故がなかったものだ。
いや、あった。
1999年9月30日に起きた東海村JCO臨界事故の恐怖などは
忘れてはならなったのだ。

いや、それ以前から、
チェルノブイリの事故のもっともっと以前から有核憂核の声を上げていなければならなかった。
でも、それどころか銀座鳩居堂前が高い地価をつけたのと同じ1986年に起こった
チェルノブイリの核爆発事故から見ても日本の核発電所の数はほぼ倍増してしまった。
むしろ浮かれたバブル期といわれるおかしな時代に突入してしまった。

圧力鍋を改造した爆弾一個で、私たちは滅びてしまう可能性があるのではないか?
そんな杞憂がまた増えてしまった。
杞憂という言葉のもとになった「空が落ちてくるのではないか?」という
そんな心配よりはずっと具体的かつ身近なのが、この有核憂核だ。

マーヒー加藤
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by kaneniwa | 2013-04-20 23:59 | 草仏教
2013年 02月 23日

草仏教掲示板(50) ワンガリ・マータイ(Wangari Muta Maathai)さんの言葉

b0061413_09231.jpg マータイさんは2011年の9月25日にお亡くなりになられた。東日本大震災の報道、原子力発電所の大事故をどのように受け止められていたのだろうか。ノーベル平和賞の受賞者であり「もったいない」という日本語を世界に広めてくれた人としても知られているが、今の日本人として果たしてマータイさんに「MOTTAINAI、もったいない」という言葉を教えた国の一人として誇らしい気持ちになるかどうか?どちらかと言えば、その資格があるかどうか?という疑問に変わっていく。 最近「持続可能な社会」などという場合の「持続可能」という言葉をよく耳にしたり目にする機会が増えたような気がしているが、この「持続可能」という言葉も、最初に言い出したのがマータイさんだったかどうかは別にして「持続可能な開発(Sustainable Development)」などの提唱でマータイさんが世界に広めた言葉であり概念であると考えている。デベロップメントというと、受験生時代の悪いクセですぐに「開発」と言ってしまうけれども、持続可能な範囲で未来に向い進んでいくというか、歩んでいくという(進歩?)というニュアンスも多分に含まれていると思う。多分。 北京という都市がある。28年前に一週間滞在したことがある愛着があるところだ。今、テレビ報道では特に大気汚染が顕著な日の映像を見せられていることもあるれども、酷い状態だ。シャラポア(妻・日本人)に「俺がもしもサラリーマンで北京に転勤になったらどうする?」と尋ねた。「単身赴任」という答えが返ってくると思ったら「会社を辞めてもらう」と言った。ただ、子どもの頃の公害報道を思い出し、時々、光化学スモッグなど実際にそれを移動中などに体感した経験でいえば、40年前の日本も近い状態にあった。その時代から比べると日本はずいぶんときれいになったように思う。確かに自動車の排ガス規制は厳しくなり、いろんな分野でいろんな努力が行われてきたが、実際のところ工場などの生産拠点が中国をはじめ諸外国に行ったということであると思う。最後に、どうしても書かなければならない。ほんの数年前まで世界的な環境団体のいくつかが原子力発電を容認するだけではなく推進さえもする発言をしていて耳を疑ったのであるが、やはりそれは間違っていた。原子力発電は、持続可能ではなかった。東本願寺は御影堂の大修復を終えて阿弥陀堂の大修復に着手しているが、法人で山を買って100年後の修復のために、あるいは100年後の再建のために木を植えよう!

文 マーヒー加藤
書 シャラポア
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by kaneniwa | 2013-02-23 23:09 | 草仏教
2013年 02月 07日

草仏教掲示板(49) 勉強しない子供より遊ばない大人が心配だ

b0061413_232229100.jpg 車で25分のところに胎内スキー場というのがあるのだがその売店(スキー用品やウェアやTOKOのワックスなどを売っているショップです)にあったポップ広告風の小さな張り紙にあった言葉であった。目にした時にスキーウェアを着ていてその場ではメモできず、帰宅してからメモをしたのでもしかしたら言葉が正確ではないかもしれないが「勉強しない子供より遊ばない大人が心配だ」というこの言葉をもって売店で何を売ろうとしているのだろうか?と思いつつずっと気になり続けていた。ひとつには車の構造もハンドルにアソビの部分がなければ曲がることも方向を変えることもできず危険この上ない。「まったく余裕がないような大人では心配だ」という意味として理解した。それがまず第一の受け止めであるが、さらに曲解になるのかもしれないけれども「勉強しない子供より(子供と)遊ばない大人が心配だ」(カッコ内が私のアレンジというか曲解部分です)と受け止めると、このポップ広告を書いた(たぶん)ショップの店員さんの意図にかなっているのかどうかは怪しくなってくるけれども味わいが深くなると思う。真面目で遊ばない大人というものは悪いことはないとも思うけれども、自分の子供ともまったく遊ばないことはやっぱりちょっと心配だ。そう読ませてくれてのは、あるいはこの言葉自体が目に入ってきたのは、お正月からずっと息子に「スキーに連れて行ってくれ」と懇願されつつも息子の小学校の休みの日は私がなかなか時間がとれずにようやく先日の土曜日の午後だけを使ってスキー場に来れたということがあったからかもしれない。

b0061413_23231560.jpg 「お前は勉強して東大に行け、私はこれからパチンコに行く」(20年ぐらい前に京都の東本願寺内にある同朋会館のなかにホントに貼ってあった法語)という言葉に出会ったことがある。子供に勉強ばかりさせて大人は遊んでばかりというのも心配だ。また、まったく遊びの世界がないままに大学に入った18歳が免疫がまったくないままにコンピュータ・ゲームの虜となり、もう何年も留年を繰り返しているという学生は全国に何万人ぐらいいるだろうか?「ゲームばっかりしていないで本でも読みなさい!」は、近年の親であれば何回も言った言葉であろうが、親が遊ぶような心境で読書をしていないと子供が読書家になるということはないような気はする。iPadをシュッシュッしている時なんかは「私にも貸して!」とすぐに寄ってくるもんなぁ。「よく学びよく遊ぶ」は願望もこめてではあるけれど親子がともによく学び、親子がともによく遊ぶと在りたいと心から思う。40歳代と50歳代はスキーをやる人が多く、30歳代と20歳代はスノーボードをやる人が多いが、どうも今の10歳代は親の影響かわずかにスキーをやる人の方が多いと聞いた。親といっしょに遊んだ影響だと想像するとちょっと嬉しいことだ。両方愛好する人やスノーボーダーは心配することはない。これでいけば10年後はたぶんスノーボードをやる10代が増えているはずだから。


マーヒー加藤 (文)
シャラポア (書)
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by kaneniwa | 2013-02-07 23:00 | 草仏教
2013年 01月 31日

草仏教掲示板(48) あきらめたらそこで試合終了だよ

b0061413_15512644.jpg 『SLAM DUNK』(スラムダンク)というのは井上雄彦による高校バスケットボールを題材にした漫画作品である。そのコミックス『第27巻』のP147~148に出てくる言葉。物語のなかの試合で残り時間 11分41秒、22点差で負けている状況での安西先生の言葉。実は検索などをしてみたら「現代の名言」としてとても有名になっている言葉であった。正直言って単なる根性論(根性は嫌いではないけれど…)を超えた意味が見い出せなくて今までは法語としての掲載はためらっていたのであるが2日前のマニー・パッキャについてのブログ記事を書いた後にちょっと考えが変わった。「ムリ」と口にすることは日常のなかの「あきらめ」なのである。「ムリムリ」と軽く口にしているうちに、本当にあらゆることが不可能になってしまうこともあるかもしれない。そうしたら、心臓は動いていても人生のゲームセットだよ。少なくとも「これならば私にもできるかもしれない」「この役割なら今の私にもできるかもしれない」「これぐらいの変化はしてみるべきかもしれない」と思うだけで、あきらめない世界が開けてくるように思う。 さらに大阪市立桜宮高等学校のバスケットボール部の顧問の暴行によってバスケットボール部のキャプテンが自ら命を絶ってしまったことや柔道全日本女子の園田隆二監督が15人の選手から暴力行為などがあったとして告発されている問題などがクローズアップされている今も「体罰抜きにはスポーツの指導はできない」とハッキリと公言する人がプロ・アマを問わず多いのだけれども、フィクションとはいえ安西先生のように的確な言葉をその時しかないというタイミングで投げかける能力を持つべきだろう。「体罰抜きではできない」なんていう「あきらめ」をもってしまたら、指導者としてそこで試合終了だよ。

マーヒー加藤(ブログ文)
シャラポア(書)
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by kaneniwa | 2013-01-31 16:27 | 草仏教