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カテゴリ:七草( 107 )


2014年 09月 28日

新潟・阿佐ヶ谷・高槻 三大ジャズストリートについて(7)

b0061413_0352488.jpg というわけで、W&Mホテルの1階のエレバーター近くの運命の扉を開けてみたところ、まず目に入ってきたのがウッドベースとスネア部分をテッペンにしつつ分解されて積み上げられてあるドラムスセット。一目でここはライブも行われることがあるジャズクラブ的なBARであると察知して、吸い寄せられるようにカウンターに座った。そしてそのカウンターから置かれていたYAMAHAのアップライトピアノをふと見て心底驚いた。「LEE KONITZ 2013」と書いてある文字がそこにあったのだった。正直言ってそのサインそのものに驚くと同時に、クール・ジャズの創成期から活躍する彼が80歳代の後半でありつつご存命していることのみならずアルト・サックス奏者として現役であり続けていたことにも驚いた。私は「あのクール・ジャズの旗手であるリー・コニッツがこのお店に来ているのですか?」と尋ねると「そうですよ、ちなみにその左のサインはDIANE SCHUURですが、彼女のことはご存知ですか?」と言われた。「だ、ダイアン・シューア!ニューポート・ジャズ・フェスティバル・イン・斑尾の大トリではないですか!しかし彼女は目が不自由だったはずですが美文字ですね」と言うと「よくご存知ですね。上の円形のマークのようなサインが彼女自身のサインで、その下に彼女のマネージャーが名前を記したのです」と言われた。店に入る前の時点から酔っていたけれども、さらに深く酔う時間帯がやってきた。私が敬愛するクール・ジャズの大巨匠と天才女性ボーカリストがこの空間に居た。さらに酔を深めつつ、ギターの1弦や高音部のピアノ線よりもずっと細い見えない糸ではあるものの確かにつながっていたという感慨のようなものが押し寄せてきたのだ。それは感傷的というよりはずっと前向きで、喜びに満ちたものであった。

b0061413_0353988.jpg 次の日の朝、W&Mホテルの一室で酔いが残っているまま目覚めた。デジカメのなかにリー・コニッツとダイアン・シューアのサインが入っているピアノ(黒い鏡面にウッドベースやドラムスが写っている写真)を確認するまで「もしかしたら昨晩の出来事は夢だったのでは?」とさえ思った。0時30分頃に入店し、閉店予定時刻の午前2時にBARを出ようとしたらマスターが「今日はもうちょっと遅くまでいいですよ」というので総仕上げのストレート・ジンを頼んで、あとはよく覚えていない。 入店時には5人ほどのお客さんがいて、閉店前には私の他に女性客が一人いた。これはBARに限らずにたとえば焼き鳥屋やおでん屋でもそうだけれども女性の一人客が居るお店というのは「当たり」が多い。それもヒットというよりもホームランが多いという感触がある。まず一人でもそこに足を運ばせる魅力や吸引力がそれぞれの場に確実にある。さらに、その場がたとえカジュアルでアットホームであっても一人で来ている女性にしつこく迫ったり、まして絡んだりする客層がいてはならない。「Bar Agit」にしても、この「BILLIE'S BOUNCE」(ビリーズ バウンス、チャーリー・パーカーのブルースナンバーが店の名の由来だな)にしても置いてあるボトルの数といい、その醸しだされてくる雰囲気といい、大当たりの大ホームランであった。 初めて来たお店で、そんな女性の一人客にちょっかいを出してはいけないのだが、彼女は「いちばん最後にジンを飲むなんてカッコいいですね」と言ってくれたので「では同じものをどうぞ…」なんてぇ劇画チックな言葉をニヤけるのを精一杯我慢しながら口にしてしまった。10年前のあやや(松浦亜弥)似の彼女はJAZZ BARが似合うモデルっぽい人だと思ったら、本当にモデル事務所に所属するモデルさんだった。 高槻のジャズストリートは5月のゴールデンウィーク中に開催されるということで、その期間になかなか遠出しにくい私は参加しにくいけれども、私にとっての三大ジャズストリートは新潟・阿佐ヶ谷・高槻ということになった。


マーヒー加藤
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by kaneniwa | 2014-09-28 09:22 | 七草
2014年 09月 26日

新潟・阿佐ヶ谷・高槻 三大ジャズストリートについて(6)

b0061413_20441990.jpg というわけで、「Bar Agit」では極上カンピリーニャと極上バーボンのロックなどけっこう強めのお酒をO先輩にご馳走になった。JR高槻駅の近くから阪急高槻駅の近くの「W&Mホテル」というビジネスホテルへと徒歩7分〜8分ぐらいだった。ホテルに着くと午後11時30分ぐらいのいい時間。美酒が全身に心地よくゆっくりとまわっていい感じの眠気にも包まれていた。ただ7月下旬のこの日の大阪は深夜になったとはいえ昼間は35度の猛暑日であったという。冷房を入れるのを忘れたか、あるいは冷房は入っていたのだけれども「弱」になっていたのか、とにかく心地よく眠りについたはずが30分ぐらいしてその暑さのために目が覚めてしまった。そこで冷房を入れたか、あるいは「強」にしたのか(酔っていたのでここら辺は曖昧だ)とにかくエアコンのリモコンをいじった後で部屋を出て、エレベーターで1階のロビーのような場所(そんなには広いスペースではない)に降りた。そのロビー内かホテルを出てすぐのところの自販機などでまずは何かを飲もうかと思ったのだ。時間は深夜0時を過ぎた頃であったと思う。自販機で「伊右衛門」だったか「お〜いお茶」だったか「綾鷹」だったか忘れたが、それをロビー付近で飲んでから写真の気になる扉が目に入った。ちなみに写真ではハイネケンのネオンが消えているので、その時ではなく翌朝のチェックアウト時にヘベレケになっていた時に撮ったものであると思う。とにかくその時は「W&Mホテル」の構内、それもロビーと呼べる場所にあるドアなので、ホテル併設のBARのように思えた。ただ、だいたいこういうホテルのBARというものは深夜11時半か0時ちょうどに閉まることが普通であると思ったので「まぁ当然もう閉店しているわなぁ」という先入観で、あわよくば閉店後の掃除をしているスタッフなんかに声をかけてBARの内装だけでも見せてもらって今後の関西出張時の参考にさせてもらおうとドアを開けた。ところがこのお店は「W&Mホテル」の構内にありながら経営はホテルとはまったく関係なく(何だかそれが私にはとっても大阪らしいなぁと思えた)通常で深夜2時まで、お客さんが残っていればそれ以降もやっているというBARであったのだ。そんな驚きはまだ序の口で、このお店のドアは運命のドアであったのだ。(続く)

マーヒー加藤
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by kaneniwa | 2014-09-26 21:17 | 七草
2014年 09月 24日

新潟・阿佐ヶ谷・高槻 三大ジャズストリートについて(5)

b0061413_11135581.jpg というわけで、場所は大阪のJR高槻駅の近くの「Bar Agit」である。このBARには大変に多くの種類の洋酒ボトルが置いてあった。僭越ながら私もボトルの種類には詳しい方であると思っていたが、初めて目にするようなボトルやラベルが数えきれないほどあった。特にバーボンの種類がスゴい。聞けば今年も(ということは何回も)合衆国のケンタッキー州のバーボンの蒸溜所を何箇所も訪ねる旅をしてきたという。やっぱりここでバーボンを飲まずしておれるか、という気持ちになってきた。写真のバーボンは私がいただいたものではないのだけれども、目の前に置かれたケンタッキー州のバーボンの琥珀色が目の奥に焼きついたので撮らせていただいた。うっかり銘柄は忘れてしまったけれども「ケンタッキー州ではよく飲まれているけれども日本にはほとんど入ってこないものをロックでお願いします」と言って出てきたバーボンは、これまた絶品であった。わははは、かつて私が自棄酒気味に飲んでいたバーボンとはまったくの別物だったぞ。おつまみのピーナッツの燻製との香りも風味も相性バツグンであったのだ。 Bar Agitに案内をしてくれたOさんによると、このBARのスタッフと常連客とでのアウトドアでのバーベキューパーティというものが年に1回だったか2回だったか、あるらしい。それにはいつの日か参加してみたいなぁ。ケンタッキー州ではないけれども、テネシー州産のダッチオーブンを持参して。 

マーヒー加藤
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by kaneniwa | 2014-09-24 11:29 | 七草
2014年 09月 22日

新潟・阿佐ヶ谷・高槻 三大ジャズストリートについて(4)

b0061413_13183990.jpg というわけで、大阪は高槻の「Bar Agit」にて和三盆を使った絶品カイピリーニャをいただいている間に流れていたのがボブ・ジェームス&アール・クルーのコンビを中心とした凄腕ミュージシャンたちによるアルバム『One on One』であった。写真のCDを手にとって(ウニは私の私物でサイズ比較用食品サンプル)メンバーを見たら豪華だったので記しておきたい。ボブ・ジェームス(p) アール・クルー(g) エリック・ゲイル(g) ニール・ジェイソン(elb) ロン・カーター(b) ハーヴィー・メイソン(ds) ラルフ・マクドナルド(perc)といった強力サポートメンバーの実に心地よくて快適で安心できるサウンドである。正直言ってこの時期のフージョンには「今聴くとサウンドが古いなぁ」というものも少なくないけれども、これは今でも鮮度抜群である。1979年ニューヨーク録音のアルバムで、当時は大企業にしてもベンチャーにしてもピュア・オーディオの全盛期であったのでとびきり録音が良くて高音質である。ジャケットもいい。アナログ盤を持っているのだが、この紙マッチの質感でのジャケットは手触りも良い。しかしCDは実はその日に初めて手にとらせてもらったのだが、なかなか上手にアナログ盤の雰囲気を再現していた。サイズは、元々紙マッチをモチーフとしたジャケットなのでBARのカウンターに置けるCDサイズの方がなんだか「正解」という気がしてきた。アナログ盤の音源をカセットテープに移して車で聴いていた時期もあったけれども、当時はISUZUの2代目ジェミニのディーゼル仕様に乗っていてエンジン音が煩くて、何だかレゲエ以外のBGMはしっくりこなかった。今なら、是非とも車のなかで鳴らしてみたいサウンドである。今回は「日本では珍しい絶品カイピリーニャを飲んでいた時に、それに非常にマッチしたサウンドに包まれる幸せがあった」ということだけを書いて、連作ブログ記事からは脱線した。次回は、お酒もバーボンにして本線に戻っていきたい。

マーヒー加藤
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by kaneniwa | 2014-09-22 13:53 | 七草
2014年 09月 20日

新潟・阿佐ヶ谷・高槻 三大ジャズストリートについて(3)

b0061413_12152344.jpg というわけで、新潟と阿佐ヶ谷(東京)のジャズストリートについてはまたの機会に書かせてもらうことにして、高槻(大阪)に移動してみたい。今まで、高槻という場所は阪急電車で通過するということが多い街であった。このたび阪急高槻駅の近くのビジネスホテルに一泊して2件のバーを訪れただけで「高槻は実にジャズの街だ!」と断言してしまうなどということは短絡的とかお手軽に思われてしまうかもしれないが、この7月下旬に訪れた2件のインパクトはそれだけ強かったのだ。梅田周辺に泊まるよりも、これからも関西に用事がある時に高槻という場所はいつでも候補になるかもしれない。まず大学の先輩のOさんに案内していただいたのがJRの高槻駅の近く。少し歩いたところにある「Bar Agit」である。OさんのfacebookにこのBar Agitが頻繁に登場するので、私も一度はそのカウンター席に座って写真が掲載される時のその臨場感を増したくなったのだ。写真(これは帰り際に撮らせていただいたものです)のドアを開けると、そこにはバーボンを中心にして各種洋酒ボトルがずらっと並んだワンダーランドであったのだ。

b0061413_12154058.jpg ズラッと洋酒のボトルが並んだこのお店で「カイピリーニャはできますか?」と尋ねてみた。カイピリーニャというのはブラジルのトロピカルドリンクで、ピンガ(カシャッサ)に砂糖などで甘みを加え、さらに何らかの柑橘類の酸味を加えたカクテルである。普通のお店ではピンガ自体が置いていないので、日本でカイピリーニャを飲んだ経験は貴重である。このBar Agit以外では、店長さんがバーテンダーコンクールの審査員もしている新潟県三条市のモンツァというバーで飲んだことがある。そこでは砂糖の代わりにハチミツを使ってくれてなかなか素晴らしかった。このBar Agitでは砂糖なのだが、何とそれは和三盆であり非常に上品かつ洗練の極みのカイピリーニャを作ってくださった。絶品である。(ちなみに久しぶりに登場したウニは東京美研の食品サンプルでサイズ比較用)その絶品カイピリーニャのベースになっているピンガの銘柄はブラジルではもっとも有名な「51」( シンクエンタ・イ・ウン)であったことも嬉しいことであった。私がブラジルに居たのは20歳代の中盤。その数字の半分ほどの年齢で「51」のボトルを前に「自分が51歳になった時にはどこで何をしているのだろうか?」という夢想をしたことがあったが、とうとうその51歳になった。この時は51歳の誕生日のちょっと前の時期ではあったけれども、とりあえず高槻のBar Agitで絶品カイピリーニャを飲んでいた。そして、ラテンのテイストも入ったこの時のBGMもまた素晴らしかったのであるが、それはまた次回。


マーヒー加藤
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by kaneniwa | 2014-09-20 06:20 | 七草
2014年 09月 18日

新潟・阿佐ヶ谷・高槻 三大ジャズストリートについて(2)

b0061413_1612040.jpg というわけで、世界三大ジャズストリート(たまたま日本国内だけの選定)のうち、新潟はまたの機会に紹介させていただくとして今回は東京の阿佐ヶ谷のジャスストリートを紹介させていただきたい。今年も10月24日(金)・25日(土)の二日間、阿佐ヶ谷の街とストリートがジャズ色に染まる。阿佐ヶ谷ジャズストリートが始まったのが1995年のことであった。もう19年目になるのだなぁ。私は1992年から1998年まで阿佐ヶ谷がある杉並区の隣の練馬区に住んでいて、阿佐ヶ谷ジャズストリート誕生の、その経緯も少し知っている。1995年といえば1月に阪神淡路大震災があり、その春のお彼岸中にオウム真理教による地下鉄サリン事件があった。当時、東京の自宅から地下鉄丸ノ内線を使って通勤していたシャラポア(現在は私の妻・日本人)は、事件直後の霞ヶ関駅を通過扱い(停車はするがドアの開閉はしないでそのまま発車)した直後の車両に乗り合わせていた。間一髪であったのだ。同じ時刻に私は最寄り駅が横浜の上大岡である東本願寺横浜別院に居たのだが、上大岡にもオウム真理教の道場があったために駅周辺には多くの警官が立っていて「何か大きな事件が起こっている」ということを察知した。その時期のことで思い出されることは多いのだが、東京都杉並区阿佐ヶ谷にもオウム真理教の東京での拠点となる道場があり、それは阿佐ヶ谷という街にとっての負のイメージとなった。それを払拭しようと、私の知る限り、阿佐ヶ谷の商店街の滝口スポーツ店の滝口さんらが呼びかけてその年の秋から始まったのが阿佐ヶ谷ジャズストリートの第1回目であった。1997年の第3回のジャズストリートの目玉であった山下洋輔の神社境内でのコンサートは、シャラポア(妻・日本人)とともに堪能した。 もともと阿佐ヶ谷にはジャズのライブハウス、ジャズが流れるお店は多く、写真にもあるライブハウスのManhattanが写り込んでいる。ジャズギタリストの西藤大信(さいとうひろのぶ)などはここをスタート地点としてバークレー音楽院に進んでスペインのレーベルと契約した。阿佐ヶ谷の大けやき並木が色づく来月中旬、東京のなかで猛烈に季節を感じられる場として阿佐ヶ谷を訪ねたくなる。

マーヒー加藤
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by kaneniwa | 2014-09-18 10:16 | 七草
2014年 09月 16日

新潟・阿佐ヶ谷・高槻 三大ジャズストリートについて(1)

世界三大ジャズ・フェスティバルというと
何といってもアメリカ東海岸のロードアイランド州ニューポートと
西海岸のモントレー。
そしてスイスのレマン湖の畔のモントルーがあげられる。

あげられる、といっても世界三大何とかの三番目はなかなか出てこなかったり、
あるいは固定されておらずにある程度フレキシブル(可動)だったりする。
先日も中学生の息子が
「世界三大瀑布(大滝)は何でしょう?」
と、突然に聞いてきたのだが
「イグアスと、ナイアガラと…あとは袋田の滝?」
というように、ヴィクトリアの滝はなかなかサッと出てこなかった。
それはそれで家族のなかでのミニブームとなり
「世界三大河川はアマゾン、ナイル、信濃川」などと言うことが流行った。

世界三大ジャズフェスティバルにしても、
西海岸のモントレーとスイスのモントルーは地名自体が似ている上に三番目は固定されていない。
モントルーの代わりにカナダのモントリオールを三番目にあげる人もいて、
モントリオールもモントレーもモントルーも何だか似ているので混乱するんだもん。
浄土真宗を信仰する真宗門徒(もんと)による「門徒ジャズフェスティバル」などができたら
さらに混乱するんだもん。

ともかく、先々月に今まで阪急電車でずっと素通りしてきた
大坂の高槻に用事のための前泊をすると
ここが素晴らしきジャズ・ストリートであったことを発見する僥倖に恵まれた。

そこで、新潟・阿佐ヶ谷・高槻という、たまたま日本国内ばかりとはなったけれども
「世界三大ジャズストリート」
について書いておきたいなぁ、とふと思ってすでに2ヶ月近くが経過。
そろそろ書き始めたい。

最初は地元・新潟から。
新潟市では冬と夏の年2回「ジャズストリート」というイベントがある。
近くの新発田市でも新発田ジャズ物語(Shibata Jazz Story)というイベントがある。

そもそも、学生時代から
「何で地方都市の割に新潟ではこんなにジャズが盛んなのか?」
という思いをもったことがある。
どちらかといえば嬉しい疑念ではあったのだが、
新発田市のBIRDのような伝統的なジャズ喫茶の存在や
やはり歴史あるSWANをはじめとする新潟市各地のジャズスポット。
そして先日訪ねたが、三条市の東本願寺三条別院の門前にある
マスターご本人もジャズピアニストであるJAZZ BARなど魅力的な場所が多い。

元々、港町であってキャバレーやクラブが多くて昔から多くのバンドが活躍していた歴史もある。
雪国であって昔から熱狂的なオーディオマニアが多く居たという伝統もある。

ただ、ジャズストリートというイベントについては
「新潟ジャズストリート”デューク・エリントン・メモリアル”」
という正式名称自体が与えてくれている深みというものを知って欲しいし、
私も改めて感じてみたい。

ジャズといってもその世界は多岐にわたるけれども、
「ジャズが好きです」という人でデューク・エリントン(Edward Kennedy "Duke" Ellington)
の名前を知らないという人はほとんどいない。
仮に名前を知らなかったとしても、
「A列車で行こう」「キャラバン」「サテンドール」「スィングしなけりゃ意味ないね」
などなど、数多くのスタンダードとなっているデューク・エリントン作品に接したことが
ないジャズ好きはまずほとんどいないといっていいと思う。

私としては、その頃は生まれてはいたけれども新潟県にはいなかったけれども
1964(昭和39)年6月16日に発生した新潟地震の直後にデューク・エリントンは
そのバンドを率いて来日していた。
エリントンは来日中に接した新潟の惨状を聞き、
何と次に予定されていたハワイ公演をキャンセルして
7月8日に東京・厚生年金ホールで急遽、
「新潟地震救済資金募集・特別コンサート」
を開催して収益金のすべてを新潟市への義援金とした。

そして私よりも10歳以上年上の新潟県のジャズファンには、
そのことをずっと暖かいものとして覚えている人がとても多いことを体感的に徐々に知った。

新潟市は感謝の意を込めて、2年後の 1966(昭和41)年5月、
エリントンが再来日した際に「国際親善名誉市民」の称号を彼に贈った。
エリントンは
「これまでミュージシャンとしてたくさんの賞をいただいたが、名誉市民というのは初めてだ」
と大変喜んだそうだ。
当時の渡辺市長は
「3度目の来日の際は是非とも新潟にも来て下さい」
と言うと
「いいとも!」
と約束し、それから4年後の1970(正和)年に3度目の来日で新潟でのコンサートが実現する。
その4年後、ジャズの大巨星は75歳で亡くなるのであるが
どうもそれからというもの、ジャズ界の超大物が来日すると
新潟でのコンサート、もしくはライブというものが予定されている気がする。

ここからは想像なのだけれども
「世界4大河川はナイル、アマゾン、ミシシッピに信濃川、新潟ちゅうのはイカス街だぜ!」
と、エリントンは後輩だけをとってもジャズの巨星ぞろいのメンバーに熱っぽく語ってくれた
のではないだろうか?

マーヒー加藤
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by kaneniwa | 2014-09-16 14:50 | 七草
2014年 04月 14日

うちら家族の石垣島ベスト7(7) 石垣島の街 そして最後に…

b0061413_6173896.jpg 具志堅用高の等身大の像に私のタオルをかけさせていただきシャラポア(妻・日本人)に写真を撮ってもらう。具志堅用高は私が中学生時代だった頃は13回の連続防衛をしたジュニアフライ級の絶対王者であった。この像がある離島ターミナル(西表島、竹富島、波照間島、小浜島などへ行く船が運行している)の周辺が役所や商店街や繁華街などがある中心街である。具志堅用高のお兄さんというのが、この離島ターミナルからどの島への運航を担当されていたのかまでは忘れたが、フェリーの船長さんであった。10年ぐらい前にテレビで見たが、顔もしゃべり方もソックリというよりも同じであって具志堅用高の船長コスプレとしか思えないほどであった。このチャンピオン像がいつ頃に建てられたのかはメモしてこなかったけれども、お兄さんは偉大なチャンピオンである弟を誇らしく思っていただろうなぁ。

b0061413_6175131.jpg 石垣島に滞在中3泊したのがこのベッセルホテルであったが「実にほどよいなぁ」ということを感じる居心地のいいホテルであった。その離島ターミナルや繁華街から少し歩くし、部屋からの眺めもコンクリート工場で、その向こう側に海や港が見えるという微妙な景色ながら居心地がいい。ベットの横幅が150センチもあったので帰ってきて「ベットで大の字になって寝る」ということの爽快感がいちばん大きかった。朝食はバイキングであり、そりゃ高級ホテルの朝食バイキングのような高級食材ではないものの、和食にしても洋食にしても、そして必ず何品かはある沖縄料理にしても「実にほどよいなぁ」という満足感があった。だから野菜にしても炭水化物にしても前日までに不足していた栄養分を朝からバッチリ補給できる感じ。しかも日替わりメニューがいくつかあるので3泊しても飽きることはなし。朝食後にトレイと食器を返す手順が東本願寺同朋会館方式というか、食器の種類を分別しながら返すのであるがいい朝食をいただいたらそんな手間など「喜んでする」という感じであった。ベッセルホテルチェーンは広島県福山市を本社として西日本中心の展開であるが、ご縁があったらまたベッセルホテルの系列に泊まりたいと思う。

b0061413_618583.jpg ベッセルホテルをチェックアウトする時に、そこそこ安くても大きなホテルであるのにも関わらずシャラポア(妻・日本人)は朝食会場の案内係の女性職員に気に入られて、チェックアウトの時に「あんた、この次に来る時にはまたここに泊まって、そんで夕食はうちで食べていきな!自転車で通っているぐらいここからすぐのところなんだから!」と手を握られて言われた。シャラポアにはこういうことが多い。シャラポアは自分自身の能力の他に「人の能力を借りられる力」とか「人にたすけてもらえる力」というものをもっている。だから、シャラポアと戦ったら勝てないのである。写真は、文章とはあんまり関係なくなったけれども見学させてもらったコミュニティFM局。このFM局がある場所は、離島ターミナルから見える丘の上にそびえるホテル日航八重山のなかにある。八重山日報だろうか、あるいは沖縄タイムスなのか琉球新報なのだろうか?ニュースは新聞の三面記事をそのまま読まれていた。

b0061413_6183145.jpg ユーグレナモールという市場と商店街を兼ねたような通りのなかの商店で、珍しいフルーツを見かけた。近くのフルーツパーラー的なところでそういったものをオヤツとして食べようと思っていたのであったが「あのぉ、ここでカットしてもらってここで食べるというのもOKですか?」と尋ねると「いいさー」という言葉が心地よいリズムで返ってきた。そしてこの写真を撮った後でこの商店に辺銀(ペンギン)食堂のラー油という、他のお土産物屋やショップで軒並み売り切れの札が出ている品物が売っているということに気がついた。2〜3年前に「食べるラー油」というものが全国的な大ヒットとなったわけであるが、その食べるラー油というものの発祥の地が石垣島の辺銀食堂である。そのラー油を指さして「こ、こ、これは?」と尋ねると「ホンモノさー」という、心地よいリズムでの的確な返答があった。

b0061413_618536.jpg これはスターフルーツ。縦長の形態のものを横に切るとこのような見事な星形になる。10年以上前にハワイのカウアイ島で初めて食べて以来だ。季節が合うのか、店先に並んだ新鮮なものの切りたてだからなのか、その時よりもシャキッと鮮烈で今回の方が味の記憶が鮮明に残った。しかし、南国の魚といい昆虫といい、果物といいキリスト教的価値観のなかでは「唯一神が作り給うたもの」のひと言で済んでしまうのであるが、なぜにかようにデザインされているのだろうか?ダーウィンの進化論ではどう説明するのかわからないけれども、トロピカルな世界においては何だかド派手で面白いものだけが厳しい自然淘汰をくぐり抜けてきたというようにもちょっと思える。

b0061413_6191382.jpg ドラゴンフルーツもしかりである。これがトロピカルフルーツではなく北国の山中のキノコであるとすれば、その外観を見ても写真のようにカットしてもらったところを見たとしても「まず毒がある」というように思ってしまう。人を外見で判断してはいけないように、食べ物も外見で判断してはいけないのかもしれないが、外観にしてもカットしたところにしても似たようなものがポケモンに登場してくるモンスターにいかにも居そうである。旧約聖書における禁断の果実はリンゴであった。リンゴは現在では身近な果物の代表のようなものであるので、ドラゴンフルーツの方が何だか「禁断の果実」という冠がふさわしいような気がしてくる。そして「以前食べたものはこれに比べたら味がないようなものだった」と言えるほどに濃厚な甘みがあった。やっぱり禁断の果実は甘くなくっちゃ!と思った。

b0061413_6192936.jpg 石垣島から帰る時、末娘は買ったハブのぬいぐるみ(そういうのが大好き!)のしっぽの部分をわざと荷物から出してANAの職員さんに注意されることを楽しみにしていた。(そういうことが大好き!)家族全員、石垣島が名残惜しくなってしまったので鈍行バスで空港まで行く。この鈍行バスの40分間もなかなか良かった。南ぬ島石垣空港(ぱいぬしまいしがきくうこう)の駐車場にはやけに初心者マークを貼った車が目立つなぁ…と思っていたが、その理由は後で感動的にわかった。石垣島には高校はあるものの大学や短大はない。また、就職先を求めて18歳が旅立つ時期であったのだ。この日、私たちが南ぬ島石垣空港から帰った日は3月28日。島を離れる若者たちを大勢の仲間たちが見送っていたのだ。大勢の若者たちが「ちばりよ~」(がんばれよ)という声を上げて旅立つ仲間を祝福しつつ見送っていた光景があった。そして、飛行機のなかで、私の隣の席の若い二人の女性が手荷物のボストンバックから寄せ書きのTシャツを取り出して楽しそうに語り合っていたが、やがて涙目でそのTシャツを抱きしめた。見ているところを見られたくなくて、視線を避けるためにうしろを振り返ると、高校生になる長女がそれをチラリと見ていた。それは全然考えていなかったけれども、旅立ちの季節の家族旅であったんだなぁ。


マーヒー加藤
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by kaneniwa | 2014-04-14 18:35 | 七草
2014年 04月 11日

うちら家族の石垣島ベスト7(6) 浜島

b0061413_0342218.jpg というわけで、人生最初の鮮明な記憶が水への恐怖であった私は、泳ぐことは苦手であったが、海が嫌いであったわけではない。関西では「琵琶湖で海水浴」という言い回しがある。これは他の地方では笑われてしまうフレーズである。琵琶湖は淡水であって海水ではない。しかし「豚のビフテキ」とか「牛から落馬」という表現はどこか矛盾を含んでいて変だけれども言わんとすることはよく分かるように「琵琶湖で海水浴」という表現は通じる。実際にたとえば和邇(わに)浜という琵琶湖の岸には「和邇浜海水浴場」などという看板が立っていたような覚えがある。しかしながら「琵琶湖で海水浴」にとどまらず、年に1回のことであったけれども舞鶴に近い神埼海水浴場や竜宮浜海水浴場に子どもの頃は連れていってもらって「海」というものを満喫した。泳ぎは苦手でも海というものは大好きであった。

b0061413_0345796.jpg その後、新潟県に引っ越してきて藤塚浜という近くの海水浴場が京都の日本海側よりもきれいだなぁと感じ、村上市の桑川駅と今川駅の間ぐらいの「笹川流れ」といわれる山からのアクアマリンなどで純化された清流が海に注ぐポイントの美しさに驚いて、しばらくの間この「笹川流れ」の周辺が人生でもっともきれいな海である時代が長く続いた。今でも本州で屈指の美しさであると思っている。その後、2月であったので泳ぐことはできなかったが沖縄本島の読谷村の海の美しさにこれまた圧倒されてそこがもっとも美しい海の時代があり、それから10年後にハワイのカウアイ島に行った時にワイメア本願寺の藤森先生がシルベスター・スタローンの別荘を抜けてやっと車一台が入れる道を島の北側に走らせてくれて辿り着いたイニ二・ビーチというところが何と400メートルもの遠浅が続き、遙か遠くで腰まで海に浸かって現地の人が釣りをしていたビーチが美しくて「もうこれ以上の海に出遇うことはないだろう、ここが変わらずにいてくれたらそれでもう海という世界は充分だ」とさえ思った。
b0061413_0343671.jpg ところが、石垣島沖にあって大潮の満潮時には島全体が完全に海中に沈んでいるという幻の島・浜島に近づいて行って、釣り船(ボート)全体が強烈なクリームソーダ色の照り返しで眩しくなった時に、うちの長男が今まで食べ物を口にしてその味に心から感動した時以外には発したことがない感嘆詞であるどっぴゃー!という言葉を何度も口にして、その後はポッカリと口を開けてその海の美しさに感動している。そしてそれは私も他の家族もそうだった。サンゴ礁などもあるので大きな船では近づけない。浜島まで歩いて(部分的に泳いで)行けるポイントに船を付けてもらって家族は喜び勇んで浜島への上陸を目指す。末娘が「待ってぇえええ!」と言いながら後を追う。これは自分としては好きな写真だ。今は簡単に水平線、地平線に合わせて写真の角度を修正できるのだが、修正したら臨場感みたいなものがなくなったのでそのままにした。

b0061413_0352163.jpg 石垣島でタクシーの運転手さんであるとか飲食店の方などと「石垣島ではどこに行くことを楽しみにしているの?」とか、「石垣島ではどこが良かった?」などという会話になった時に私は「何といっても浜島!」と答えていたのだが、さすが幻の島というべきか、あるいはたまたまだったのかはわかないが、私が会った地元の人々はみんな浜島の存在を知らなかった。そういうものかも知れないなぁ。私も沖縄の、しかも八重山諸島に住んでいたならば、旅行や行楽というものは見慣れすぎた海に行くのではなくて東京や大阪のような大都会に遊びに行くか北海道や東北の山に行きたいと思うのかもしれない。しかし、ここの海には圧倒された。

b0061413_0353990.jpg しかし、この浜島の周囲の驚くべき透明度でもって深さによってブルーのグラデーションとなっている海は圧巻であった。どうもTBSの「世界ふしぎ発見!」でこの浜島のことが紹介されて以来というもの、夏にはこの浜島が人であふれて「満員状態」となってしまうことも珍しくないことであるという。この3月25日は海開きの後でしかも好天に恵まれていたのにも関わらず、何と私たち家族5人でこの島を独占して遊んだ。「うーん、こんなこと孫正義さんやビルゲイツ様でもできないことだぞ」と、スケールが大きいんだか小さいんだかわからないことを言った。遊んでいるうちに干潮時が近づいてきているのか浜島の面積がどんどん縮んでいくというのも不思議な世界の発見であった。

b0061413_035537.jpg 石垣島などの八重山諸島は沖縄本島と違って銃撃などの地上戦というものはなかったので、このような美しい海に囲まれた平和な世界がずっとあったものであると思っていたが、実際には空襲や艦砲射撃による攻撃を受けたことがある。そしてその攻撃から逃れるために島のなかで疎開し、その密集生活のため戦争マラリアと呼ばれるマラリアが流行して当時の人口の10分の1以上である3647人が亡くなり、波照間島などは当時の人口の3分の1の方々が亡くなられていたという事実に現地で初めて気がついた。八重山諸島を含む沖縄はどこから何を見るかで、まったく風景が違うと思う。右から見るか、左から見るか。「私は右でも左でもない!」という人がいるけれどもブレブレ人生の私はそんなことは言えない。「私は右であり左である」なら言えるかもしれない。コウモリ人生だ。でも、コウモリらしくアンテナの感度は高くしておきたい。子どもたちは、この浜島という場を訪れたことを象徴的な経験として八重山諸島をはじめとする沖縄に関心を持ち(すでに毎朝、テレビで沖縄の天気に注目しているなぁ)、この浜島の海がずっとそのままでありますようにという祈りに似た気持ちを持ち始めたようだ。


マーヒー加藤
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by kaneniwa | 2014-04-11 06:33 | 七草
2014年 04月 09日

うちら家族の石垣島ベスト7(5) シュノーケリング

b0061413_10523235.jpg まず、最初に断っておくが私は泳ぐのがとても苦手である。人生最初の鮮明な記憶が3歳前後の時に旅行先の十和田湖で溺れかけた(実際は大人がそばに居たし大したことはなかったのだろうが)恐怖体験であるということが大きい。したがってスポーツは何でも好きだというような顔をしつつマリン系は避けてきた。なんせ水中で目を開けることができないので小学生の頃のプール授業にしても、平泳ぎはずっと顔を水面に出した状態のまま根性で50メートルを泳いだ。学校の先生から「せっかくいい身体能力があるのだからクロールはしっかりやれよ!」と言われても、水中に顔を入れる時には目をつぶってしまい真直に進めなかった。人生で一回、30歳前後の頃に東京代々木のオリンピック記念青少年総合センタープールというところで水中で目を開けられたことがある。今でも2時間で400円程度の公営プールで、全然期待せずに運動不足解消のために行ったのだが、近くにモデル事務所なども多いせいかキレイな姉ちゃんがいっぱい居て、その時にはなぜか人生で初めて水中で目を開けることができたのであった。その時には「奇跡の開眼」ができた私であり、その後の人生に奇跡の開眼は活かされるはずだった。

b0061413_10525599.jpg 奇跡の開眼の後、サーフィン、ウインドサーフィン、シーカヤックなどのマリンスポーツに誘ってくれる人もいて、それらを人生の一部に取り入れていたならば私の人生も変わっていたのだろうが、あの代々木のプールでの奇跡は起こらなかったというか、モチベーションが沸いてこなかった。家族で海水浴という時も、私は浜辺にダッチオーブンを置いて昼食作りをしつつ、食前に15分程度水面に顔を出したままの平泳ぎをしつつ「あー、泳いだ泳いだ!」と言うのが常であった。だから、このシュノーケリングも本部(船上)で待機をしていようと思っていた。「このサングラスも度入りで、僕は近眼だから…」と言うと海八のスタッフは「あ、度が入った水中メガネのシュノーケリング道具も積んでいますよ!はめてみてください」と言われ、すぐに飛び込み体制に入ってそのまま海のなかにドボン。何と度付きの水中メガネは視力にバッチリ合っていて、20年ぶりに水中で目を開くという奇跡を再び起こせば、広がってきたのは写真のようなサンゴ礁であったのだ。これは望外の光景であり喜びであった。そして、出発前にはまったく予期していなかったことではありますが、不肖・マーヒー加藤、シュノーケリングというものにハマりそうであります。それもドツボにハマりそうです。だって、こんなに楽しいことだったなんて!

b0061413_10531759.jpg 実は石垣島への出発直前にオリンパスのTG-2 Toughというカメラを買って持っていった。ウルトラワイド21ミリからのズームを搭載したTG-850 Toughという新製品も出る(なんせカメラメーカーは消費税UPのこの春の新製品には企業生命を賭けている)ことも知っていたしTG-2は三浦雄一郎がエベレスト山頂にも持っていったこともあって人気商品なのでそんなに大きな値引きはなかったのだが、少なくとも私よりは泳げるシャラポア(妻・日本人)に頼んで水中写真を撮ってもらおうかと思っていたのであったが自分で撮ることになった。私としても銀塩フィルム時代からデジタルに移行してから一眼レフはまったく持たずに「またコンパクトデジカメが増えてどうするつもりか?」と思いつつ、安くはない出費も含めて少し悶々とはしていたのだが、この日に撮影した何枚かの写真で「やっぱりTG-2があって良かったなぁ!」と吹っ飛んじゃった。露出補正のやり方が私には面倒に感じてなかなか慣れないことを除けば陸上でもなかなかいいカメラだ。オリンパスは顕微鏡メーカーでもあって生物記録系プロカメラマンがTG-2をサブカメラとして使っている例も多いようだが、プロのサブ機というのが今の私には何だかちょうどいい感じだなぁ。

b0061413_1053331.jpg 釣り、シュノーケリングやダイビングのエキスパートであるコザカナクンことまことさんが海底に巨大ナマコを発見。何だか日本海でお馴染みのナマコと、よくわからんが種類が違う感じだ。それにしても、その後に「巨大海鼠、大きななまこ、ビッグナマコ」などのキーワード検索でいろいろな巨大なまこを参照してみたけれども、この時の巨大なまこは本当にそれらと比べても巨大であったと思う。根性でなまこを調理した経験がある末娘も、この巨大さには驚いて「ぎゃああああああ!」という悲鳴をシュノーケリングのクダというのかホースを通じて上げた。その巨大さを充分に鑑賞させてもらった後に、コザカナクンことまことさんに元の住処に戻してもらった。何となくだけど、今年は毎年の夏の思い出のようなものを3ヶ月ほど先取りさせていただいたような気がする。

b0061413_10534714.jpg 初めてのシュノーケリングで、泳ぐだけでも得意ではない私が泳ぎながら呼吸に神経を使いながらTG-2を操りつつ写真を撮るということは難しいことで、「これはいい!」と思った写真に私自身の指が写り込んでいたりしたのであるが、それでもなかなか楽しい。私よりもはるかにシュノーケリングに夢中になる息子の写真。本格的な装備ではないけれども村上市の笹川流れなどの海岸では時々やっている。こういう一瞬の表情を見ると、父親似であると言われることが多い息子であるけれども母親(シャラポア・日本人)に実に似ているなぁと思う。私を含む家族全員がシュノーケリングを楽しむなかで、末娘がいったんはリタリアしかけたのだが、スタッフのかおりさんの素晴らしいなだめ方で船上でひと休みした後で見事にシュノーケリングでの水中散歩に復帰。

b0061413_1054863.jpg シャラポアと息子はこのシュノーケリングの機会を滞在中の最大の楽しみとしていたのではしゃぎまくっていた。長女もまた楽しみにしつつも、水がやや苦手な私に似たところがあるのか最初に海に飛び込む瞬間だけは躊躇していたのだが、なかなか最初の一歩を踏み出せずにいた。船長の八木原さんが「オレが救命胴衣のヒモのところを掴んでいてやるからそっと踏み出しな!」と言ってくれていた。長女はその通りにしていたのだが、飛び込む際にはけっこう思い切りが良くて船長さんが持っていたヒモがちぎれてとても勢いよく海にドボ~ン!そのコント的なシーンを海から見ていたシャラポアの体内で笑い袋が破裂したみたいで「いったい何が起こったの?」というぐらい爆笑を続けていた。母親が笑うと子どもたちも一斉に笑った。長女本人も照れ笑いでもあるけれども笑った。そして泳ぎが苦手であるはずの私もシュノーケリングというものを心から満喫した。八重山諸島の美しい海に家族を連れていってやるという意識の私であったが、家族が私をこの世界に連れてきてくれたんだなぁ。


マーヒー加藤
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by kaneniwa | 2014-04-09 00:01 | 七草