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2007年 03月 18日

正座について考える (3)

b0061413_2347399.jpg本来は、正座についてのお話で書くべき話題ではないのかもしれない。たまたま左ひざに炎症を起こしたついでに書くべき話ではないのかもしれないが、私の所属する善良寺という寺院では、10年ほど前から畳に置けるタイプの椅子が70脚用意されている。一応これで、それ以上の人数が集まる行事や葬儀を除いて、参集される方に長時間の正座を強いるということはない。参集される方の人数に合わせ、この椅子をセッティングさせていただくという方式をとっている。それまでにも、足の具合が良くない方のために、10脚ほどの椅子は常備されていたのだが、どうしても椅子を使われる方は遠慮がちに最後尾に座られていたなぁと、今になってはっきりと思えてくる。

新潟県の十日町市に西永寺という真宗大谷派の寺院がある。この寺院をある研修会のための会場としてお借りしたことがあるのだが、この寺院は福祉活動にたいへん力を入れていらっしゃる寺院であり、住職の渡邊さんとお話させていただいたのだが、この渡邊さんのキャラクターが強烈ながら何とも素晴らしく、マーヒーの稚拙な文章では、とても渡邊さんの素晴らしさを表現できないと思うのだが、とにかくこの住職さんは自分の苦労話を爆笑しながら語られるのだ。苦労話というものは、自慢とかに結びつけられるとかえって不快になることもあるのだが、この住職さんの苦労話というのはそういうものとは別格で、ウジウジと考え悩んで一歩も踏み出せなかった時代の自分自身のことを底抜けに明るく笑いとばしながらされるのだ。理屈ぬきに、私も同行した門徒(檀家)さんも、すっかりこの住職さんの人柄に魅せられてしまった。そして、次々に西永寺という場にやって来られる門徒さんやいろんな分野の関係者の方々と、椅子を囲んで談笑されるご住職の姿が生き生きとしたものとして写った。

その数日後、その研修会に同行していただいたあるご門徒さんが、寺院に70脚の椅子を匿名で寄付したいと申し出た。こう書くと大変に失礼な表現になってしまうが、その方は決して経済的に恵まれた方ではない。

椅子が導入され、善良寺の仏事のほとんどが「みんなで座る」というスタイルになった。(原則として僧侶だけは正座) 足の具合の悪い方はもちろん、正座に慣れない若い人たちもたいへん喜ぶ。その時になって初めて気がついた。今まで、足の不自由な方や正座が苦手な人だけが椅子を使えば問題はないと思っていたが、特に浄土真宗の仏事というスタイルでは「みんなで座る」ということがいかに大切なことであったかに。時には、法事の後で椅子に座ったまま、亡くなった人についての談話をそのままするという機会も増えた。もちろん、今の時代でもたまに「正座がいちばん落ち着く」という方もいらっしゃるので、そういう場合は正座していただいてもいい。

「進んだ考えのお寺ですね」「斬新ですね」などとおほめの言葉をいただくと、「いいえ、そうではありません・・・」と言いながら、遠く足元にも及ばないし、形やキャラだけを真似てもいけないが、このマーヒーもいつかはあの渡邊さんのように、自分自身を笑い飛ばせるような人になりたいと、心底から思うのだ。

マーヒー加藤
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by kaneniwa | 2007-03-18 23:46 | 草評
2007年 03月 18日

超訳徒然草・吉田くんのブログ(第108段)

寸陰惜しむ人なし。これよく知れるか、おろかなるか。
おろかにして怠る人のために言はば、一錢輕しといへども、
是を重ぬれば、貧しき人を富める人となす。
されば、商人の一錢を惜しむ心切なり。
刹那覺えずといへども、これをはこびてやまざれば、命を終ふる期忽に至る。

されば道人は、とほく日月を惜しむべからず。
只今の一念、空しく過ぐる事を惜しむべし。
若し人來りて、我が命、明日は必ず失はるべしと告げ知らせたらんに、
今日の暮るる間、何事をか頼み、何事をか營まん。我等が生ける今日の日、
何ぞ其の時節に異ならん。
一日のうちに、飲食、便利、睡眠、言語、行歩、止む事を得ずして多くの時を失ふ。
其の餘りの暇幾ばくならぬうちに、無益の事をなし、
無益の事をいひ、無益の事を思惟して時を移すのみならず、
日を消し、月を亙りて一生を送る、尤もおろかなり。

謝靈運は法華の筆受なりしかども、心常に風雲の思を觀ぜしかば、
慧遠白蓮の交を許さざりき。
暫くもこれなき時は、死人に同じ。
光陰何のためにか惜しむとならば、内に思慮なく、外に世事なくして、
止まん人は止み、修せん人は修せよとなり。

(吉田兼好法師 『徒然草』 第108段)

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わずかな時間を惜しむ人がいない。
わずかな時間を惜しむ必要はないと達観しているのか、
それともバカだからわからないのか。
そのバカのために苦言を呈するならば、一銭なんてたわいない額であるが、
これが積み重なったら、貧乏人も大金持ちにさせてしまう。
だから商人が一銭たりともムダにしない気持ちはマジである。
一秒より短い時間ははっきりと意識できなくても、その時間を次々に経過させて
しまっては、あっという間に生涯を終える瞬間がやってきてしまう。

だから仏道の修行者は、長い月日の経過を惜しんじゃいけない。
今、この瞬間が空しく過ぎていくことを惜しまなくちゃダメだ。
もしも怪しい誰かがやってきて、「あなたの命はまずもって明日まで」と告げにきたら、
今日の日が暮れるまで、何をあてにして、どんなことをセッセとするだろうか。
私たちが生きている今日この日も、どうして人生最後の日ではないと証明できるのだろう。
しかもその一日のうちに、ご飯、おトイレ、睡眠、会話、散歩などに多くの時間を割く。
それらに費やして余分な時間は少ししかないのに、ムダなことをして、
ムダなことを言い、ムダなことを考え、そうやってムダな一日を過ごすだけでなく、
日々を過ごして月々を経過させ、一生を送るのは実に愚かだ。


中国の詩人である謝霊運は法華経の翻訳を書いたほどの人だったけれども、
心の中ではいつでも風雲の風景が浮かび、それをながめて楽しんでいたので、
高僧である恵遠は、自分の教団である白蓮社に仲間入りすることを許さなかった。
少しの時間でも惜しいと思ってする気がないのならば、生きていても死んでいるのと
変わらない。では、どうして時間を惜しまなくてはいけないかというと、
心の中であれこれと思い考えることはせず、外には雑用がないようにして、
悪いことを考えている人はそれをやめちゃって、
いいことを実行しようと思う人はやっちゃいなということである。

超訳BYマーヒー
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by kaneniwa | 2007-03-18 00:12 | 徒然草
2007年 03月 17日

正座について考える (2)

たとえば、映画とかテレビ時代劇の戦国時代などの描写で、
お茶会のシーンだったとしても、正座でお茶を飲んでいるような場面はウソである。
そういう場面が描かれている骨董品に出会ったらまず偽物だということになる。

正座の歴史というのは、古いようで意外なほど新しい。

まず、正座という言葉自体が新しく、戦前の「修身」なんかの言葉から来ているようで、
それまでは端座と呼ばれていたようだ。

その端座の姿勢にしても、何か特別な礼拝とか、何か特別な儀式とか、
座禅のメジャーではない方のスタイルとか、(罪人など)何か特別なお仕置きという
ことだったみたいだ。

畳が広く一般にも普及して、小笠原流などの生活作法として
正座が正式なすわり方とされたのは、八代将軍吉宗の時代以降といわれており、
さらに広く普及したのは、江戸中期も後半になってからのことらしい。

だから、ひいおじいちゃんたちのおじいちゃんたち・・・というとどれくらいの人数だろう?
の時代なんかは、たぶん正座はしなかったのだろう。

江戸時代後半の寺子屋の学習風景などになると、これは正座が当たり前みたいで、
これはそういう絵があっても偽物ではない。

イスラム教の礼拝がモスクのなかでほとんど正座と同じような体勢で
礼拝をするが、寺院のなかに大勢の人が入る場合、とる体勢というものも
似てくるのかもしれない。


マーヒー加藤
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by kaneniwa | 2007-03-17 00:54 | 草評
2007年 03月 16日

正座について考える

実はマーヒーは今月の初めから左のひざに違和感を感じていた。
正座をすると痛かったのだが、筋肉痛のようなものだと思っていたので久光製薬の、
サロンパスよりはちょっとグレードの高いものを貼っていた。

ところが先週末の法事を勤めた時に後半から左のひざに激痛が走り、法事は中断する
わけにもいかないので根性で正座を続け、終わった後に腰砕け状態になった。

整形外科に行くとレントゲンの結果は骨には異常は見あたらなかったのだが、
筋肉のハリだと自分では思っていた左ひざ周辺の腫れは水がたまって
張りながらふくれていたものであり、二日間に分けて水を抜いてもらった。

水を抜いてもらって、とりあえず激痛は回避できたものの、痛みは残っているし、
「当分激しい運動と正座は避けてくださいね・・・・あっ、お坊さんでしたね、
正座はなるべく避けてくださいね」
と医師から言われ、痛みの原因に痛風やリューマチが考えられるので
血液検査をした。

その結果が出たのだが、幸いに痛風とリューマチや糖尿病に関しては無関係だと分かり、
(特に心当たりがあってちょっと心配していた尿酸値は正常だった)
左ひざ関節炎で全治10日という診断だった。
「10日間、正座はしないでくださいね・・・あっ、お坊さんでしたね、
しかももうすぐお彼岸ですね。なるべく避けてくださいね。
お彼岸中、正座をして痛み出したらまた来てくださいね」
というお言葉をいただいた。

数年前、扁桃腺(へんとうせん)が腫れた時にお葬式が入り、
「苦しくても声を出さなければいけない」
という身体的な苦悩を経験したが、
今回はひざの関節炎で「正座」という避けがたい問題と直面した。

正座は弱い方ではなかったので、まさか使うことがあるとは思わなかったが、
仏具の通販カタログに載っていた「足のしびれ防止簡易座椅子超ミニ」を
お彼岸の期間中などには使うことになりそうだ。

マーヒー加藤
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by kaneniwa | 2007-03-16 01:18 | 草評
2007年 03月 15日

超訳徒然草・吉田くんのブログ(第107段)

女の物言ひかけたる返事、とりあへずよきほどにする男は有り難きものぞとて、
龜山院の御時、しれたる女房ども、若き男達の參らるる毎に、
「郭公や聞き給へる」
と問ひて試みられけるに、なにがしの大納言とかやは、
「數ならぬ身はえ聞き候はず」
と答へられけり。堀川内大臣殿は、
「岩倉にて聞きて候ひしやらん」
と仰せられたりけるを、
「是は難なし。數ならぬ身、むつかし」
など定め合はれけり。

すべて男をば、女に笑はれぬやうにおほしたつべしとぞ。
「淨土寺前關白殿は、幼くて、安喜門院のよく教へ參らせさせ給ひける故に、
御詞などのよきぞ」
と、人の仰せられけるとかや。山階左大臣殿は、
「あやしの下女の見奉るも、いとはづかしく、心づかひせらるる」
とこそ仰せられけれ。
女のなき世なりせば、衣文も冠も、いかにもあれ、ひきつくろふ人も侍らじ。

かく人にはぢらるる女、如何ばかりいみじきものぞと思ふに、女の性は皆ひがめり。

人我の相深く、貪欲甚だしく、物の理を知らず。ただ迷の方に心も早く移り、
詞も巧に、苦しからぬ事をも問ふ時は言はず。用意有るかとみれば、
又あさましき事まで問はず語りに言ひ出す。
深くたばかりかざれる事は、男の智慧にもまさりたるかと思へば、
其の事跡よりあらはるるを知らず。すなほならずして、拙きものは女なり。
其の心に隨ひてよく思はれん事は、心うかるべし。
されば、何かは女のはづかしからん。
もし賢女あらば、それも物うとく、すさまじかりなん。
ただ迷をあるじとしてかれにしたがふ時、やさしくも面白くも覺ゆべき事なり。

(吉田兼好法師 『徒然草』 第107段)

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「女が何かを言い出したときに即答しつつ、さらに気がきいたことが言える男は
実にマレだ」と言うので、亀山天皇の時代にいたずら好きな女官たちが、
ウブな若い男の子がやってくるたびに、
「ホトトギスの鳴き声をもうお聞きになりましたか?」
と尋ねてどんな答えを出すかという実験をした時、
大納言の何とかという人は、
「私のようなつまらん人間の耳には聞こえません」と答えた。
堀川の内大臣は、
「岩倉あたりで聞いたような気がします」
と答えたので、女官たちは
「これは実に無難な受け答えだけど、自分をつまらないという人こそつまらない」
などと批評しながら男の格付けチェックをしていた。

大体、男は女に笑われないように育て上げなければならない。
「浄土寺の前の関白殿は、幼いので、安喜門院(御堀河天皇の皇后)によく
しつけられたのでお言葉なども立派なんだ」と、誰かが言っていたようだ。
山階(やましな)の左大臣は、
「女官とかそういう身分でなくてもただ女の子に見られるだけでも、鼓動がドキドキして
かなり気を使ってしまう」とおっしゃった。
もしも女のいない世の中なら、着るものだって帽子(冠)だって、
もうどうでもよくなってしまって、きちんと整える人なんかもいなくなっちゃう。

これほど男に気をもたせる女というものはどんなに立派かなぁと考えてみるが、
女の本性というものはどうもねじれている。
女は自我への執着が強くてやたらとモノを欲しがり、道理が通らない。
心はいつも迷いの方向へと急傾斜しており、口先も達者で、言ってもいいことを
こちらから尋ねても隠したりする。
口が堅かったり、慎重なのでしゃべらないのかと思ったら、聞かれてもいないのに
とんでもないことをしゃべり出したりする。

深く考えながらうわべを装っているので、男の知恵や分別よりも
優れているのかと思えば、そうでもなく、しゃべるはなからメッキが剥がれていくことに
気がついていない。素直じゃなくて、エラーだらけなのが女なのだ。
男が、そんな女の気持ちのとおりになって好かれようと思っていることは情けない。
だから、女の子に見られてハズカシーなんて思う必要なし。
もしも、秀才の女の子がいるとして、それも何となく親しみがわかず恋の心も芽生えない
という感じがする。
迷いに心を支配されて、女心のままにふりまわされる時だけ、
とってもおもしろいと思って夢中になるのだ。

超訳BYマーヒー

 若い美男子には甘い吉田くんだが、女性を見る目はとても厳しいのだった。
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by kaneniwa | 2007-03-15 23:57 | 徒然草
2007年 03月 14日

マーヒーの鮭茶漬け

b0061413_236660.jpgお通夜などの後、これは地方によって違うだろうがオードブル的なものが出ることがある。最近、鮭のマリネというものがよく付くようになった。これが余った時のお話だが、お土産にもって帰らせてもらうのだが、お通夜が終わった後は家族も夕食を済ませているし、子どもはすでにもう寝る時間が近い。マーヒーだけが「ちょっとあっさりとしたご飯ものが食べたい」という状態になって帰ってくる。そこで、この鮭のマリネを二次使用させていただいての鮭茶漬けというものを思いついた。ご飯の上に鮭のマリネを敷き、海苔を散らす。マリネだからどうせなら酸味も強調しようと自家製梅干しを一個載せる。そしてチューブのワサビをたっぷり。
b0061413_2363615.jpgそこに熱いお茶を注いでいくと左の写真のようになる。マリネ用に薄切りにされた生の状態の鮭は熱いお茶で反り返り、何というか特有のダシが出てくる感じだ。お茶を注ぐ前と色も変わり、見た目は何だか鮭というよりもラーメンのチャーシューのように見えてくる。しかし、これは箸の先で簡単にほぐれていく。味もかなりいいと思う。やはり梅干しの存在が大きかった。もともと、おにぎりやお茶漬けでは鮭と梅は合うのだが、この場合はすっかりと洋風に仕上げられてヨソヨソしい鮭に対して梅干しは 「欧米かっ!」という一喝を浴びせつつ、仲直りをしていく感じがする。何だかヨリを戻した安心感にホッとする味であり、クセになりそうだ。

マーヒー加藤
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by kaneniwa | 2007-03-14 23:20 | 雑草
2007年 03月 14日

超訳徒然草・吉田くんのブログ(第106段)

高野の證空上人、京へのぼりけるに、細道にて、
馬に乘りたる女の行きあひたりけるが、口ひきける男、
あしくひきて、聖の馬を堀へ落してけり。

聖いと腹惡しくとがめて、
「こは希有の狼藉かな。四部の弟子はよな、比丘よりは比丘尼は劣り、
比丘尼より優婆塞は劣り、優婆塞より優婆夷は劣れり。
かくの如くの優婆夷などの身にて、比丘を堀へ蹴入れさする、未曾有の惡行なり」
といはれければ、口ひきの男、
「いかに仰せらるるやらん、えこそ聞きしらね」
といふに、上人なほいきまきて、
「何といふぞ、非修非學の男」
と、あららかにいひて、きはまりなき放言しつと思ひける氣色にて、
馬ひき返して逃げられにけり。

たふとかりけるいさかひなるべし。

(吉田兼好法師 『徒然草』 第106段)

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高野山に住む証空上人が京の街に降りてきたときに、
細道で、馬に乗った女と出くわしたのだが、馬の口を引いている男が、
誤操作をして馬を引き、上人の乗っている馬をそばの堀に落としてしまった。

上人はカンカンに激怒して
「これはとんでもなく乱暴なことじゃ。
釈尊の弟子の間の4部制リーグの中では出家した比丘よりも
比丘の尼のほうが格下で、
その比丘の尼よりも在家信者たる優婆塞のほうがさらに格下で、
優婆塞よりも優婆夷のほうがさらに格下だ。
おまえのようなリトルリーガーがメジャーリーガーである私を堀に落とすなんて
こんなことは前代未聞のヘッポコプレーだ」
と言ったので、女の馬を操っていた男は
「何をおっしゃっているのか、さっぱりわかりませーん」
と言えば、上人はもっともっと逆上して
「何を言ってるんだ、この勉強不足の未熟者がぁ」
とエキサイトしてわめいたのだが、
(上人に最低限の良心が残っていたのか)
あまりに酷いことを言い過ぎたと思った様子で、乗っていた馬を
来た方向に向けて逃げて行ってしまった。

尊い、なんて言葉は本来は似合わないが、
修行者である上人と正直で純朴な男との間の、
みごとな口ケンカだ。


超訳BYマーヒー
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by kaneniwa | 2007-03-14 22:15 | 徒然草
2007年 03月 13日

大人のための子ども向け映画講座 (3)

これは、まだ子どもが2才の長女だけの頃だったので、2001年の秋のお話だ。
2001年の夏に、はじめて2才の娘に宮崎駿アニメの『となりのトトロ』をビデオで
見せた。2才半といった頃なので、ストーリーのようなものが理解できるかどうかと
思っていたが、娘にトトロの影響力は絶大で、トウモロコシを食べたがったし、
新鮮なキュウリを見ると「めいちゃんみたいに食べるぅ」と言って丸かじりをした。

何だか、その様子を見ていると、木を育てる力をもつトトロというのは、何だか
生命力のようなものの象徴のような気がしてきた。
子どもの味覚はバカにできない。それまでも、鮮烈な生命力をくれる新鮮な
旬の味には子ども大人より敏感なのかもしれないと思っていた。
正確に言うと味よりも生命力というものに直感的に敏感なのだ。

当時は3人家族でアパート暮らしをしていたのだが、夏が過ぎ秋が来て、
トトロを見てから3ヶ月か4ヶ月後という頃にマーヒーの妻が急性の腸炎で突然倒れ、
すぐに夜中に診断→検査入院→入院、ということになってしまった。
結果的に10日ほどの入院生活となった。この腸炎の原因はいまだによくわからないが、
手術のようなものはなしに幸いに10日目で完治して帰ってきてくれた。

今になるといい経験でもあったし、いい思い出のように感じることもできるようになったが、
しかし、その時はまいった。たまたま私の実家にも妻の実家にも用事が押し寄せ、
お互いの両親の体調も良くなかったので応援をたのむことができなかった。

車で10分ほどの場所にある保育所が、事情を聞いてくれて
朝の8時から夕方の6時30分まで娘をあずかってくれることになったので、
毎日保育所に送り、仕事に行って夕方の6時30分に迎えに行って一緒に
スーパーに買い物に行く生活が10日間続いた。
娘は、毎日、コーンスープを買ってくれとせがんだ。
トウモロコシが、いちばん生命力を与えてくれる食べ物だと、トトロを観て、
教えられたのだろう。
マーヒーは、家事のなかで料理だけはもともと得意分野であったのだが、
娘の要望で必ずコーンスープが付く夕食を毎日食べていた。

娘と二人で風呂に入る時、どうしても意気消沈(いきしょうちん)している娘を見て、
マーヒーもふと
 「そうだ、こういう時こそトトロに出てくる、あのパパみたいにならなきゃ」
と思って、バカ笑いをしながらお風呂のなかで娘と水遊びをした。
しばらく二人で笑いながらお風呂に入っていたが、娘は半開きになっていた
お風呂の窓から月が出ている外に向かって、突然
 猫バス来て~、猫バスぅ、ママのところに連れていって
と、大泣きしながら叫びはじめた。

そして、泣きじゃくりながら、

 ママがいないと楽しいことが楽しくない

と言った。このひと言は、このマーヒー、たぶん一生忘れない。
病院には、(もしかしたら伝染性の難病かもしれないので)お見舞いに来ても
面会はできないと言われていたが、泣きじゃくる娘を抱きしめて
「パパが猫バスになってやる」 と何度も言った。
何度も言ううちに、こっちもすっかり涙腺がやられてしまった。

結局、原因はよくわからなかったのだが、伝染性のものではないということが
わかり、腸にも異常が見つからなくなって妻は10日目に退院した。
退院の日に(その前日にもようやく許可が出て娘とお見舞いに行けたのだが)
ようやく猫バスになれたパパは車に娘を乗せ、帰りは3人でトトロを歌って帰った。

お医者さんからも「今日は軽めのお食事にしてください」と言われていたので、
妻が退院したその日の夕食は・・・コーンポタージュスープ。


マーヒー加藤
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by kaneniwa | 2007-03-13 00:17 | 草評
2007年 03月 12日

超訳徒然草・吉田くんのブログ(第105段)

北の屋かげに消え殘りたる雪のいたう凍りたるに、
さし寄せたる車のながえも、霜いたくきらめきて、
有明の月さやかなれども、くまなくはあらぬに、
人離れたる御堂の廊に、なみなみにはあらずと見ゆる男、
女となげしにしりかけて物語するさまこそ、何事にかあらん、つきすまじけれ。

かぶし、かたちなどいとよしと見えて、えもいはぬにほひの、
さとかをりたるこそをかしけれ。氣配など、 はつれつれきこえたるもゆかし。

(吉田兼好法師 『徒然草』 第105段)

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家の北側の影に残っている雪がガッチンガッチンに凍っている所に、
寄せて停車している牛車の牛につなぐ長い二本の棒も霜でキラキラと輝いて、
有明海の明け方の月が光っているのだけど、
月の形はハッキリと見えるのだが、その月面に曇りがないというほどでもない。
そんなぼんやりとした月の光の下、人影のない御堂の廊下の装飾のついた板に
腰をおろして、ただ者ではなさそうな男女が語らっているのだが、
いったいどんな話をしているのだろうか?話はいつまでも終わらない感じだ。

女の顔やスタイルなど、とても美人に見えてくるし、
何ともいえない香りが薫ってきてたまらん。
話し声などが、ところどころ聞こえ、ところどころが聞こえない。
盗聴器が心底欲しくなるほど じれったい。

超訳BYマーヒー
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by kaneniwa | 2007-03-12 22:33 | 徒然草
2007年 03月 11日

大人のための子ども向け映画講座 (2)

最近だとテレビ版の『のだめカンタービレ』など、大人が楽しんで観ているものを
子どもも真剣に観るというパターンはけっこうある。
特に のだめ の場合は、原作が漫画であるということもあって子どもにも
わかる漫画チックな演出があり、そしてクラシック音楽という媒介を通して
楽しめたようだ。

逆のパターンで、子ども向けのものを大人が途中からでも「見入っちゃう」という
ことはそれほどは多くはない。
本音をいうと、子どもといっしょに子ども向け映画を自宅のテレビでいっしょに
観る時間があるならば、買ってあるのだけれどもなかなか観られずにいるDVDを
まとめて鑑賞したいと思う。

しかし、そんななかで2001年の作品で、これは2003年頃にレンタルビデオで
借りてきて初めて観たものだったと思うが、
『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲』 は、いっしょに観て
いて途中からかなり真剣に鑑賞してしまった作品だ。

一部、ネタバレ的な記述も入ってくると思うので、ここから先はMOREを
使って書いてみよう。

More
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by kaneniwa | 2007-03-11 22:54 | 草評