<   2012年 09月 ( 15 )   > この月の画像一覧


2012年 09月 29日

中秋の名月 2012年

b0061413_23444890.jpg 2012年の中秋の名月、9月30日の夜は台風の暴風域に入る可能性がある。名月の写真は撮れないかもしれない。そんなこともあろうかと(ホントはあんまり考えてなかった)前の満月の写真を撮っていた。競馬の『一馬』(かつていちばん丁寧に読んでいた新聞)の一面には月齢表が載っている。それは搭乗する騎手、過去のレース、所属厩舎、持ちタイム、調教状況、芝やダートの状況、血統、馬体重の増減などといったデータに比べれば取るに足らない情報であると考えていたが、案外とこれは大きな情報ではないか?と思ったことがある。「これは個人の感想です」と前置きしなければならないが、メインレースでも最終レースでもまだ月は空に登場しない夕刻の時間帯であるのにもかかわらず、どうも満月の日のレースは万馬券続出の大荒れになることが多く、逆に新月の日のレースは本命路線で決着することがやけに多いような気がしていた。2012年9月30日は、満月(中秋の名月)でGⅠレースのスプリンターズステークスがあるので、久しぶりに馬券を買ってみようか?とも思ったが、本命路線なら絞れるが万馬券の組み合わせなんて多すぎて買えないなぁ。 「満月の日はね、地面全体が50センチ以上は月の方向にひっぱられて盛り上がっているんだよ」と言っても、誰も信じてくれない。中学生の長女も小学生の息子も信じてくれず、6歳の末娘は私が言っていること自体がわからない。海面なら月の引力によって満潮時と干潮時の水位の差は最大で15メートルにもなることがあることはすぐに理解してくれるのに、どうも目で確認できる天動説的真理はすぐに理解してくれるのに、地動説的真理は「何をバカなこと言っているの?」と虐げられてしまうのだ。 ともかく、地面や水面がこれだけの影響を月から受けているのであるから、80%が水分である我々人間が影響を受けないはずがない。さらに、人間よりも本能に忠実なお馬さんが影響を受けないはずはない。オッズなどはデータや実績重視の人間の見解、さらにはその見解の違いで人間が勝手に作ったものであるから、そんなものを打ち破っていちばんムーンパワーみたいなものを受けやすい馬が激走して大穴を開けるという仕組みだと思っている。あとは、月の影響を受けやすい馬を見抜く眼だけがあれば大儲けなのだが、パドックでじっと馬を観察していても…それがわからん。逆に馬に人間を観察されるだけだったか。

マーヒー加藤
[PR]

by kaneniwa | 2012-09-29 23:45 | 草評
2012年 09月 27日

鶴ではなくてサギだった

b0061413_23421270.jpg 複数の落語家(真打からも二ツ目からも、関東でも関西でも)から、同じマクラ(本題への導入部分)としてこの噺を聞いたことがある。その世界ではけっこうスタンダードであるのかもしれない。民話の「鶴の恩返し」のストーリーが語られてラストがパロディになっていた。「決して部屋を覗いてはいけませんよ」という娘の忠告におじいさんとおばあさんは忠実に従うのだが、朝起きてみればその部屋にあった家財道具が全部なくなっている。「あの娘、鶴ではなくてサギだった」というオチがつく。「あの女、サギではなくてペリカンの宅急便の社員だった」というバリエーションのオチもあるとかないとか。 というブログ本文のマクラを語ったところで、鳥が来た。小鳥はしょっちゅう来るのだが大きな鳥は珍しい。鶴を助けた覚えはないので、鶴ではないなぁと思っていたが、やっぱり鷺だった。これは真面目な話、鷺の方に保護色の観念(というか動物だから本能か?)というのがあったのかなかったのか、屋根の色と写真で見る以上に一体化していて、一瞬、異様な置物が置いてあるみたいでビックリした。そっと写真を撮った次の瞬間、実に豪快に飛び立って行って何だかJALのマークみたいだった。 これはブログなのでわざわざ落語のようにオチをつける必要はないのだが、やっぱり書くのやめようかな?ま、いっか…書いちゃえ。長女が最近、私とシャラポア(妻・日本人)の結婚式前後のスナップ写真を見た。「お父さん15年近く前と今と、ほとんど変わってないじゃない…ところでお父さんの隣に居る、このとても細くて綺麗な女の人は誰?」

マーヒー加藤
[PR]

by kaneniwa | 2012-09-27 23:53 | 雑草
2012年 09月 25日

コッヘル184番 カット茄子の浅漬

b0061413_2120238.jpg まだ続くコッヘル上の浅漬シリーズ。わざわざカット茄子の浅漬としたのは、やはり丸ごとの茄子も間を置いた後で改めてコッヘルナンバーを与えて登場させたいからに他ならない。小茄子や、あるいはもっと大きめの茄子の丸ごと漬けたものの美味しさについてはその時に語るとして、漬けてから2〜3時間ほどですぐに食べるのであれば大きめの茄子をカットしたものをサッと漬けるというのもいいものだ。いくら新鮮であっても生のままの茄子というものをたくさん食べられる人というのはまずいないと思うが、それを加熱をしない状態で2時間ほど待つだけで美味しく食べられるものになっているというのが漬物の不思議であり、偉大であるところだ。漬物という形の「サラダのようなもの」がなければ食卓、特に和食は寂しいものになっていただろう。

b0061413_21203881.jpg コッヘル180番台に出てきたものを勢揃いさせて盛りつけてみた。個別なものとしてもなかなかいいものであると思っているが、こうしてチームになってみるとまた趣がある。ダイエット(diet)という言葉はほぼ「体重を減らす」とか「体型をスリムにする」という意味で使われ、時には「食事を減らす」という場合にも使われるが、本来の意味はむしろ「食物を摂取する」ということである。私は「食べ物を制限する」という考え方ではその制限を飛び出したくなる性格であり、「食べ物を我慢する」という方針では辛抱たまらん精神状況がすぐにやって来てしまうようだ。なので「美味しい野菜をたっぷり食べたい」という欲望や本能の方に忠実になる方向性で行くことにした。美味しい野菜をたっぷり食べていると、これも本能的にタンパク質や炭水化物も欲しくなってくるのであるが、その時欲するタンパク質や炭水化物の分量は、おそらく適量であり適切であるはずだと思っている。塩分過多には気をつけなければならないが、美味しい野菜をたっぷり食べたいという時に浅漬というバリエーションは欠かせないものとなっている。


マーヒー加藤

コッヘルバックナンバー
[PR]

by kaneniwa | 2012-09-25 22:01 | 草外道
2012年 09月 23日

草仏教掲示板(44) 幸せはそれを感じる人にくる

b0061413_14171530.jpg 幸せはそれを感じる人にくる お盆前からこのお彼岸期間まで掲載した法語三つはいづれも川柳作品であった。この言葉は境内の掲示板に掲載した。同時期に寺の南側の道路に向けて掲載している さいわいは不幸中にもあるんやね(ヒヤケナス先生) の言葉とともに、私もしばらく毎日のようにこの言葉を目にして、大変に漠然としているが「幸せというのはいったい何だろう?」と考えた。「ハピネスとはいったい何か?」これは古今東西の哲学者や思想家はプロ・アマ問わずに問い続けた問題で、私にはハピネスの定義すら難しい。代わりに思い出したのは羽根台(具体的にいえばゼロタイガーあたりの時代)のパチンコに没頭した学生時代に、ひたすら目でパチンコ玉を追いながら(今のスロットを目で追うパチンコはもはや球技とは言えなくなったので足を洗った)長時間「いったいラッキーとは何だろうか?」という問題を自問した数日間のことであった。 学生時代のある日、中型のオートバイで京都の堀川通を走っていたら白バイに捕まった。違反切符をきられた上に多額の反則金を払わねばならない。当然落ち込んだ。そのままフラフラと烏丸七条付近のパチンコ屋に入った。すると、ポッケットに入っていた300円か400円ほどの小銭でまたたく間にまず一台を予定終了。さらにそれを現金に替えて続けて打っていたら何と3台を予定終了。反則金の倍ぐらいの額を2時間ちょっとで稼ぎだしちゃった。(今、書いて分かったのは大して急ぐ用事もなかったのにバイクですっ飛ばしていたバカだったんだなぁ)すごくアンラッキーな一日であったはずが、ラッキーを感じて終わる一日になった。 さらに、それからしばらく、空いた時間のすべてをパチンコに費やす数日間があった。羽根台時代は今のパチンコと違って一進一退。あっという間に2箱出したと思えばそれからジワジワと後退していき残り数発となり、そこからまた盛り返して2箱に戻したりする。その間にあっという間に数時間が経過していくのだが、その間に「時間とはいったい何か?ラッキーとはいったい何か?」ということについて、漠然とではあるが思考を巡らしていたのである。目を閉じての瞑想ではなく、パチンコ玉を見つめながらの深い瞑想であった。その時のパチンコ屋の店内には USA For Africa の We Are The World が30分に1回の割合のヘビロテで流れており、「またウィリー・ネルソンのパートの時に羽根台の羽根が動いた」などと、まさに出玉の状況と合わせてのデジャ・ブが止まらなかった。

今、その時の瞑想をもとに、ハピネスとラッキーについて考える。
しばらくやっていないパチンコで一日に10万円を手にするというのもいいが、
どうせなら宝くじで6億円を当ててみたい。
まあ当然ではあるが、6億円がポンと入れば、
どう考えても今から私が稼ぎだす生涯賃金の何倍もの額であることは確実で、
田園調布に家が建つどころか寺を建てることもできるかもしれない。
欲しいものは人並みか人並み以上にあるはずだが、
さすがに6億円以上のお金で買えるものは想像の範疇にすらない。
また、6億持っている安心感とともに貧乏生活に専念するというのも悪くない。

ともかく、日頃の心で考える範疇では、6億がポンと入るということは
これ以上ないほどのグレードでの「ラッキー」である。

しかし、それはワクのない夢想であるようであって、実は
「日頃の心で」 という条件つきなのである。

親鸞おじさんは「うぉほほほ、日頃のこころではなかなか念仏できませんぞぉ」
とおっしゃっているのであるが、
なるべく、その日頃の心を離れる夢想を続けてみよう。

私は病院の集中治療室に居るとする。
「あの患者さん、保ってあと半日かなぁ」
という、お医者さんと看護師さんの会話が耳に入り、
遠のく意識ではあるが、何となくそれが自分のことだと察する。
そんな状態のなか、新聞を持って集中治療室に駆け込んできた
シャラポア(妻・日本人)が

マーヒー!あなたが買った宝くじ、前後賞合わせて1等が当っているよ!」
と言われても…
少なくとも、今、日頃の心を軸にして夢想しているラッキーとは違い、
ハピネスとは程遠い。


水も氷も、雨も雪もH20であるはずなのに、同じものであるはずなのに、
置かれた環境が違えばあり方が違うように、
心が置かれた環境が違うだけで6億円が6億円ではない状況というものがある。
ラッキーもハピネスも、置かれた状況での心が決めている。
ラッキーであることがラッキーではない、ということはある。
躍り上がるほど嬉しいはずのことが、心の状態ではそうではないことがある。
ハピネスも感じられるか感じられないか、というところにある。
だから、定義すら難しいのだなぁ。

さて、その日だけは…
冷蔵庫のなかのヨーグルトの賞味期限を気にして生きるのは御免だし、
6億円の使い途に心迷わされて生きるのも嫌である。

さまざまな人やイベントに出会えたラッキー自体に感謝をし、
さまざまなプチハッピーの集合体をありがたく感じ、
身は頭も下げられず、両手も合わせることすら難しいなかで、
心の世界の方では、日頃の世界の心をひるがえして五体投地。
やって来てくれた幸せをそんな身にいっぱいに感じたい。

川柳(法語) 丁珍姉御
ブログ文 マーヒー加藤
書 シャラポア(妻・日本人)

 ※ なので、どうせ6億円当たるなら、日頃の心の今だね。
[PR]

by kaneniwa | 2012-09-23 15:39 | 草仏教
2012年 09月 21日

オスプレー(OSPREY)

b0061413_2172531.jpg オスプレー(OSPREY)といえば、今日のニュースなどでは山口県の岩国基地から試験飛行が行われた軍用機のMV-22を思い浮かべる人がほとんどであろう。ただ、数カ月前まではカリフォルニア州サンタ・クルーズに拠点を置くアウトドア系バックパックメーカーを思い浮かべた人も少なくないのではないかと思う。オスプレーのバックパックは憧れであった。オスプレー(Osprey、オスプリー、オスプレィ、オスプレイ)は猛禽類のタカの一種である「ミサゴ」のことである。今、絶滅の危機にある鳥である。軍用機にしろバックパックにしろ「多くの荷を運ぶ」という点では似た面もあることはある。「キャンプ」と言う場合、野球用語である可能性もあるが、それが軍事用語であるかレジャー用語であるかでずいぶんと雰囲気は違う。ただし、ハッキリ言って「もともと接点はある」といえる。私と同年代かさらにその上の世代のアウトドア愛好家はボーイスカウト活動の経験者が少なくない。ボーイスカウト活動は今は規模も世界的であり軍隊色は弱くとも、創始者がイギリスの退役軍人のロバート・ベーデン=パウエル卿である。飯盒炊爨(はんごうすいさん)を中心にした私と同世代が経験したキャンプもまた「戦争を知らない子どもたち」が中心であったとしても、あるいはそれ以降の「戦争を知らない子どもたちという歌を知らない子どもたち」が中心であったとしても、たとえば米を炊くことを指導する人は戦争を知る人、あるいはかつて戦争を知る子どもだった人だった場合が多かった。ある意味、私から上の世代のアウトドアは入り口は軍事文化の影響を少しは受けていたものであった気がする。良い悪いは別であり、そうであった気がする。 今、たとえば苗場のフジロック・フェスティバル(FUJI ROCK FESTIVALは名称から富士山の麓のイメージがあるけれども1999年以降は苗場でやっているようです)などの夏の野外音楽フェスをきっかけにしてアウトドアの世界に入ってくる人たちというのも、私より下の世代では多くいると思う。ラジカセでガンガン音を鳴らすようなグループは論外として、多くは一人用か二人用のテントを購入してギターかウクレレをポロンと鳴らす。山ガールや森ガール一味にも、この野外フェスを入り口とした人は少なくない気がする。アメリカではいち早くウッドストックなどの野外フェスでその道を歩んだヒッピー系の人々は多く、確かオスプレー(アウトドアバックメーカーの方です)もそうだと思ったが、カリフォルニアに拠点を置くアウトドアメーカーの創始者は、そうしたヒッピー系アウトドア愛好家である場合がものすごく多い。それはベトナムからの帰還兵ともだぶるし、アメリカの仏教徒ともだぶる。 ああ、何が言いたいんだか自分でもわからなくなってきたが、とにかく「アメリカのオスプレー」と言えばボーイングの系列会社とヘリコプターメーカーが共同開発した軍用機ではなく「バックパックのオスプレー」のことであって欲しいなぁということが言いたいのであった。道具というのはすべて使い用であり、どんなものでも凶器になる可能性があるし、軍用機が大惨事の際に人を救うということもありえるのだが。

マーヒー加藤
[PR]

by kaneniwa | 2012-09-21 21:50 | 草評
2012年 09月 19日

草仏教掲示板(43) さいわいは不幸中にもあるんやね

b0061413_23232253.jpg さいわいは不幸中にもあるんやね ヒヤケナス先生の川柳だ。私とヒヤケナス先生との関係は、まったく不思議としかいいようがない。まず、実際にお会いしたことが一度もない。知ろうと思えばすぐ分かるが、私はヒヤケナス先生の本名を知らない。ヒヤケナス先生はお亡くなりになられているので、これからも直接にお目にかかってお話するということはない。それでは私はヒヤケナス先生と出会っていないのか?と言われると「いいえ、出会っています」と答えたい。先月、ヒヤケナス先生の川柳仲間であり親友であった河童猿さんがお亡くなりになられた。その河童猿さんが「毎日新聞の万能川柳のファンサイト」という形で運営されていた ゆかい模様 というホームページに12年ほど前は毎日のようにお邪魔し、まさにオモシロイ人たちが集まることでは日本有数だったそのホームページの掲示板で常連だったヒヤケナス先生とはたびたび交流していた。その掲示板のことを思い出すと、天才的毒舌家であるヒヤケナス先生の言動には正直言って軽く緊張していたのだが、その交流は心から楽しかった。そして、なぜかヒヤケナス先生は私に好意的であった感触がずっと残っている。 河童猿さんとは1回だけだが直接お目にかかれたことがあった。私だけではないと思うが、会ったら好きにならずにいられないような素晴らしい方だった。追悼のために河童猿さんの川柳を法語掲示板に掲げようかとも思った。ただ、私が大好きな河童猿さんの作品は「ナンパした駅に今じゃあ娘(こ)を迎え」他多数のように五七五の文字だけで時間を越えるユーモラスな作品群である。そこで、河童猿さんが大好きだったヒヤケナス先生の川柳作品を掲げることにした。誰が作ったものかということは当然大切なことであるが、誰が愛した言葉か、ということもまた言葉のなかに新たな生命のようなものが吹きこまれているように思ったのだ。 思えば不思議なことであったがふと思い立って ヒヤケナス先生のブルース というものを作ったら亡くなられる3ヶ月前の河童猿さんがそれを大いに気に入ってくださり(五七五の川柳の定形を崩した曲なので、私はヒヤケナス先生をよく知る人からは怒られるのではないかとヒヤヒヤしていました)facebookでつながることができた。そしてその直後に河童猿さんが余命を宣告されているような大変な状況であると知った。ソフトボールのチームを運営し、スキーの愛好家であった河童猿さんが…と信じがたい思いだった。

b0061413_23233456.jpg facebookの「友達」のところには本名の河童猿さんがいる。mixiも含めて、SNS(ショーシャル・ネットワーク・システム)でつながった人で亡くなられたというのは河童猿さんが初めてであった。偉大な人格者の先輩に対して「友達」というのは不遜なのであるが、ちょっとカッコつけさせていただくならば、生きていようと亡くなられていようと、そんな生死の別を越えて河童猿さんは存在感のある「友達」として、その穏やかな笑顔でfacebookの画面からずっと見つめてくださっているのだ。そのfacebookのメッセージ交換欄を開くと、胸がいっぱいになってしまう。「まひとさん、僕が言うのも変だけど、ナスさんの言葉をブルースにしてくれて、ありがとう!!ナスさんもミュージシャンを目指していた音楽好きだったよ。手を怪我してギターを置いたナスさんの分まで、ギターを弾いてきてね」というメッセージには、泣いた。いちばんありがとうを言いたい人からありがとうを言われてしまったのだ。河童猿さんほど、私をいろんな素晴らしい人達に引きあわせてくださった方はいないのに。 お盆前からお彼岸明けまで、通学の中・高校生もよく通る道沿いの掲示板にヒヤケナス先生の2作品を並べさせてもらった。昨日、その言葉の前で足を止めてくれる高校生の姿を目にした。また、言葉に新しい生命のようなものが吹きこまれた気がした。


マーヒー加藤

書 シャラポア(妻・日本人)
[PR]

by kaneniwa | 2012-09-19 23:41 | 草仏教
2012年 09月 17日

iPhone5は買わないだろうなぁと思う理由

b0061413_2531441.jpg 刑事ドラマの再放送なんかを目にすると使っているケータイで何年前に制作されたものかだいたい分かる。水谷豊なんかは鑑識からの新事実の報告の電話が入ったりなんかして「失礼」とか言ってケータイをパカっと開けて話す。新しい放送でスマートフォンを使うようになっているのかどうかというのはけっこう注目すべき点だ。現段階で日本人の6割以上がスマートフォンを使用している。写真はCASIOのG'zOneの2代目。2000年に初代G'zOneが発売されてそれを初めてのマイケータイにして以来、3年後に大変に高い完成度であった2代目をしぶとく6年ほど使い、3代目をパスして今、3台目のケータイ(12年間で3機種というのはかなりのスローペースになるのだろうなぁ)としてG'zOneの4代目を現在使用中である。その12年の間、手に持っている位置や胸ポケットから落としたことがある。あと、ヒゲを剃っている最中に洗面所で水没させたことが1回ある。それから着物(主に僧衣である)の袖のところに入れていてテーブルのカドなどにぶつけてしまったことが、これはけっこう数えきれないほどある。千原ジュニアがマチュピチュでiPhone4sを落として液晶を割ってしまっていた。住所録にもう500件を越えてデータが入っているので、それを連絡取り直すのはタイヘンで、とりあえずG'zOneにしておいて良かったなぁと思う。モデルチェンジも元々緩やかであったし、G'zOneのスマートフォン版というものも出てはいるが、これがガラケー(従来のガラパゴスケータイ)に絞れば、さらに買い替えは緩やかになる。さて、iPhone5が発表されてもうすぐ発売ということになって縦長になったのは人間の耳の位置と口の位置を考えると電話としてはその方がいいように思えた。ただ「私にはiPhone5は要らないなぁ」と思わせてくれたのが皮肉なことに同じアップルのiPadである。タブレット端末としてiPadぐらいのスペースがないと私には文字の打ち込みがキツイということをつくづく実感した。それでもiPadを常に持ち歩くというのもキツイので、A5版の紙のノートとボールペンを常に持ち歩くようにしている。わはは、軽くていいです。起動も早いし。 ともかくiPhone5については接続端子(コネクター)を変えちゃったということにいちばんビックリした。iPhoneはiPodなどとも端子を共用しながら「充電しながら音楽を再生するための専用スピーカー」みたいな周辺機器がたくさん造られている機種である。Bluetoothという無線操作もあるにしろ、端子が変わったということはそういう製品を造っているメーカーさんにとっては衝撃的だっただろうなぁ。たぶん2800円で別売りされるアダブターみたいなものが、それに対応しているのだろうが、今度の端子が今までの接続端子を古くしちゃうということはあるだろうなぁ。今、1年半ぐらい前のiMacを使っているが、これはSnowLeopardという愛称のOS10.6という旧OSのものを使っているのだがⅠ年ちょっと前に「これからのMacはLionというOSに刷新されて周辺機器で対応されないものが増えてくる」という噂を耳にして駆け込みで購入したものであった。駆け込みで、しかもMacには珍しい大幅割引の旧OS叩き売りがあって購入したのだが、これは今でも正解だったと思っている。ICレコーダーなどはⅠ年を経た今の時点でも「Lionにはまだ対応していないけれどもSnowLeopardなら使える」というものが現行の新製品に少なくはないのだ。そして、Lion以降は「ファックスなんて古い機器だからファックスとの接続なんて全く考えてないよ」という態度をとられているのだが、ワープロを打ったデータをそのまま先方にファックス送信できうることなんかは今更ながらタイヘンにありがたいことである。寺院関係者は「名前の文字はこれで間違いはありませんか?」なんて用途で使うためにファクシミリはなかなか手放せない機器である。 さてさて苦情のようなことも書いたけれども、Siriという音声認識ならびに音声応答機能というものには興味はある。英語圏ではすでにやっていた人もいるだろうし、バージョンアップさせて4sの日本語版でやっている人も居るかもしれないけれども 「明日の東京の天気は?」などという質問ではなくて「人間は何のために生きているのでしょうか?」とか「私たちは何処から来て何処へ行くのですか?」などという根本質問をたくさんしてみたい。二つ三つなら「ちょっと貸してね」でいいと思うけてども、それを百や千もしたいと思うならば、自分のiPhone5を手に入れるしかないかな。

マーヒー加藤
[PR]

by kaneniwa | 2012-09-17 04:14 | 草評
2012年 09月 15日

コッヘル183番 山芋浅漬チップス

b0061413_0404312.jpg 最近、コッヘル上に浅漬ばっかりのせているように思われるかもしれない。浅漬の良さを再認識していることも確かだが、もう一つ事情を開陳すれば、コッヘルバックナンバーというものも一応作ってはいるが183番目ぐらいになってくるとバックナンバーを参照しながら「これはもう書いたっけ?」ということが増えてきたのだ。後々のために「180番からしばらくは浅漬をやった」というような記憶の楔になるようなものが必要だなぁと感じてきたということである。さて、今回は山芋である。摺り下ろしていただくという人がいちばん多いと思う。その次には居酒屋メニューなどにある短冊切りだろうか。丸型というか、ちょっと厚めのポテトチップス状にカットする。それをサッと漬けただけ。さすがに写真が寂しかったのでミツバの根本を刻んで添えた。油を使わないポテトチップスだ。ビールよりも日本酒が合うというポテトチップスだ。パリっというよりもサクッとしている。ただし、手で食べるとベトベトとネバネバがあるので、チョップステックス(箸)で食べるというチップスである。

マーヒー加藤

コッヘルバックナンバー
[PR]

by kaneniwa | 2012-09-15 00:57 | 草外道
2012年 09月 13日

思案暮れる日々

b0061413_233547.jpg 京都市の荒神口にかつてあった「しあんくれーる」というお店について教えて欲しいというご依頼があった。その目的がちょっと面白くて、演劇に関わっておられる方が課題で「昔、京都にあって今はなくなったもの」をテーマに発表をするのだという。何だか積極的に協力したくなった。「野球チームの監督と映画の監督こそが男のロマンの究極」であると言われることがある。野球の監督の方の夢は、プロチームというわけにはいかず草野球であるが、正監督に用事がある時の臨時ながら何度かその夢は叶えた。しかも村山実氏ぐらいしか言えなかった「リリーフ、俺!」というセリフや野村克也氏か古田敦也氏ぐらいしか言えなかった「代打、俺!」なんていうセリフを審判に告げることができた。同じく、劇場映画というわけにはいかないが30分ぐらいの映像を編集してYouTube投稿を2分30秒づつ分割して投稿し、それを貼り付ける形での「ブログ上映」ということなら夢であっても夢ではない。もしかしたら、草野球と同じノリではあるけれども「俺は野球チームの監督もやったし映画監督もやった」と近い将来なのか遠い未来なのかはわからないけれども、やがて言えるようになるかもしれない。

b0061413_23371715.jpg 『大洗にも星はふるなり』という、回想シーンを除いてほとんどが舞台を真冬の海の家のなかに設定した映画を見て、それは低予算で作成された映画であるということもあるが、そんな夢もどこかで持つようになった。そして「舞台設定」ということに小さな関心を向けることになった。たとえばストーリーの骨子を古典落語から拝借するとして、江戸時代の長屋を再現することは予算的に非常に困難であっても「舞台をキャンプ場のテントのなかに置き換え、ご隠居役と与太郎役とそのおかみさん役をそろえたら、そんななんちゃって映画が撮れるのではないか?」なーんてことも実は密かに考えていたのだ。(今年の夏に4〜5人にそのプランを打ち明けたことがある)そんななか、演劇に携わっている方から「昔、京都にあって今はなくなったもの」について関心を持たれ、もしかしたら舞台設定というものについて私が知っていることがお役に立てるかもしれない。これも巡りあわせだと思った。先方は発表や稽古のスケジュールの関係でお急ぎになっているようだ。なので私も急いで記憶から取り出したものを急いでここに記していく。記憶違いというものがあれば昔の常連客さんなどでもしこれを読まれている方がいれば遠慮なくご指摘いただきたい。それから写真掲載の順序を間違ったが、これは1階のクラシック喫茶しあんくれーるのマッチである。2階建てで、ジャズ喫茶しあんくれーるは2階だった。外見は、今でも居酒屋の「ん」の外装がレンガ色であると思うが、何か申し合わせがあったのか、荒神口交差点付近のお店はレンガ色が並んでいた。

b0061413_2337793.jpg しあんくれーるの店内。 カウンターはあるが、カウンター席というものはない。キャパは最大で30人しか入らなかった。立命館大学が近くにあった頃は盛況だったらしいが、祇園祭や五山の送り火などのイベントがあって人通りが多い時以外はまず満席になることなどなかった。カウンターの前に60センチ×45センチほどの木製の机が4つくっつけられ、周囲に椅子が置かれて8人ぐらいが囲める「シマ」が形成されていたが、あとは鴨川側の壁の方に横並びで座れる備え付け長椅子が設置されていた。ただし、しあんくれーるに来るお客さんの7割ぐらいが「一人」であり、団体はもちろん、カップルが来るということさえ珍しかった。河原町通り側の窓(常にブラインドは降ろされ、ドライフラワーが飾られており、いつも店内はとても暗かった)の下には大きなホーンを付けた改造JBLの巨大スピーカー(その形状からアルテックの劇場用スピーカーだとよく勘違いされていた)が鎮座していた。それを操るのが黒いマッキントッシュ(パソコンのマッキントッシュとは綴りも違い別会社)のプリアンプ。(パワーアンプもマッキントッシュだった)管球式ではなくトランジスタ。ガーランドのアナログプレイヤーの上にレコード盤を乗せ、その大出力アンプを時計の短針でいえば10時から12時の間で再生する。そうするとほとんどの音が「生演奏の音よりも大きい」という異様な世界に入っていった。それを長時間耳にしていると、どうも異様を通り越す世界に入っていった。 

b0061413_23355147.jpg 書きながら思い出した。「店内に公衆電話ボックス」があった。アメリカンモダンな木枠が入った透明な電話ボックスである。それはまさに公衆電話がボックスごと店のなかにあると同時に、それがしあんくれーるの電話であり、お客さんが道を尋ねてくる他に経営者などからもたびたび電話がかかってきてボックスのドアを開けて電話に出るのである。ピアノ・トリオぐらいなら電話がかかってきたことがわかるのだが、ホーン・セクションの大音響が改造JBLから流れている時などは、なかなか電話が鳴っていること自体がわからなった。それぐらいの大音響。5000枚以上のレコード(LP)はボーカルものだけは鴨川側の、経営者とマイルス・ディビスがツーショットで写っている壁の棚に入っており、あとは巨大な棚に整理されていた。書きながら思い出したが「ボーカルものは昼間はかけない」というお店のルールがあった。その影響で、今でもジャズ・ボーカルを耳にすると「夜だなぁ」と感じるぐらいだ。巨大な棚の材質は木で、「使い込んだカリモク製」みたいな質感だった。5000枚以上のレコードがどのように整理されていたかというと、オリベッティのタイプライターで打たれた演奏家のアルファベット順に整理された非常に分厚いファイルが12冊以上あった。お客さんのリクエストには「定番」や「法則性」のようなものがあったので慣れたが、有名なジャズ演奏者の名演アルバムでも、必ずしもそのアルバムでリーダーを努めているわけではなく、正直、慣れるまでは大変だった。

b0061413_23354840.jpg メニューの主流はコーヒー。keycoffeeのオリジナルブレンド。これをペーパーフィルターでホーローのポットに落としておき、注文分をティーカップで測ってホーローの手つき鍋に入れ、カウンター内のガスコンロで温めて出すという、喫茶店としては乱暴なホットコーヒーの出し方。しかし、濃い目ではあった。そのコーヒーを「美味しい」というお客さんが、当時は信じられなかったが、今では「味があった」と言える。少なくともあの空間の異様さと呼応していたのだ。時々、このやり方でkeycoffeeのオリジナルブレンドを飲んでみれば、ちょっとあの大音量の異様な空間を懐かしく思い出せたりする。私が居た1982年〜85年あたりは、ホットコーヒー1杯が360円から380円の時代だったと思う。ただ、お店には大音量のジャズが流れている。話などをすることは隣の人とも容易ではないぐらいだ。コーヒー、紅茶、ココア、すべて「こ」の音から始まるから、注文をよく聞き違えた。そのうち自然と読唇術というか、唇の動きをよく確認するようにして間違いは少なくなった。いちばんの聞き間違いは「ジャム・セッションをたのむよ」(レコードのリクエスト)と言われてジャムトーストを作っちゃったことだろうか。結構な分量のバンホーテンココアを少しづつ熱した牛乳を入れて丁寧に溶いて砂糖を投入し、それを氷を山盛りにしたグラスに一気に注いでかき混ぜ、その上からフェレッシュミルクを渦巻状に注ぐアイスココアは、今でも時々作っていて、これは家族にも好評。それからシナモントーストも作った。その他、サンドイッチやカレーというメニューもあったが、この二つは、カウンターの内側に一階との「秘密のハシゴ通路」があり、注文が入った時には一階から手渡ししてもらっていた。

b0061413_23352615.jpg しあんくれーるはお酒も出した。キリンビールの小瓶。そしてウイスキーはサントリーのホワイトと角。ロック、ストレート(リクエストにこじつけてストレート・ノー・チェイサーと言う客がいた)、水割りの他、ハイボール、それからこれは時代を感じるけどコーク・ハイがメニューにあった。夜になるとカウンター内のスイッチを入れて店の外の大きな電飾に明かりをともした。これは電飾看板の縁取りが緑で平仮名で「しあんくれーる」の文字。河原町通りを走っていていい目印になっていたと思うし、今でも荒神口周辺の方々のなかには小さな店としては大きなこの電飾看板を覚えている方も少なくないと思う。それは私が学生生活を終え、しかしながら時々仕事などで京都を訪れた時に目にして「まだあるな」と思っていたが、いつの間にかその灯りは消え、しばらくあった店の跡もやがて駐車場となり、そしてまたそこには別な建物があった。閉店の経緯はよくわからないが、ジャズの文化そのものが、たとえばバブル期(ただ、私自身は日本がバブル期と言われた頃は外国に居たのだが)には生演奏があるライブハウスや、ジャズがBGMとして使われるデートに最適な小洒落たお店は随分ともてはやされたように思うが、文庫本を片手に独りでやってきてコーヒー一杯で長時間そこに居て、文庫本に読み疲れると目を閉じて大音量のなかで不思議な瞑想をしているような客が主流のジャズ喫茶は、文化の主流からどんどん外れていっていることだけは予感していた。

b0061413_23351359.jpg しあんくれーるというお店は1956年、私が生まれる7年前からそこにあった。オーナー(女性・故人)のお父さんは有名な数学者、数学教育者であり、数研(学習参考書出版社)の「チャート式」というものの創始者であった。その印税がしあんくれーる創設の資金にもなったのかなぁという穿った見方よりも、今思えば、女性オーナーが改造JBLをはじめ当時の最先端オーディオを導入していたことといい、アルバイト学生が打っていたり訂正していったりということはあったにしろタイプライターというものを使って非常にデジタル的に5000枚以上のレコードコレクションを整理していた手法といい、何だかアルバイトに入っていた当時は気がつかなかったが、亡くなられた女性オーナーの理系的センスをしみじみと感じることができる。ただ、それは経営の数字合わせにはあまりつながらず、1980年代は夜11時頃の閉店時間近くに伝票を整理しながら「きょうも思ったほど客が来なかったのね」とため息をついていたのであった。夜のしあんくれーるでは「ニューヨークのため息」と言われたヘレン・メリルのボーカルと、オーナーのため息とがクロスオーバーする。 私がしあんくれーるでバイトしていた1982年はフュージョン全盛期で、当時からジャズ喫茶の存在自体が自然とレトロなものになりつつあった。客も「たまには忙しい時がある」という感じで、まばらだった。ただ、レコード会社などから見本盤が郵送されて来て、特にCBS音源のマイルス・ディビスやウェザーリポートの新譜は日本でももっとも早く耳にできるという役得もあった。

b0061413_2335823.jpg お客さんについて書くとキリがないなぁ。今回は二つのエピソードだけ。一人は『スイングジャーナル(Swing Journal)』誌の執筆陣であったK氏。月に1回、しあんくれーるでレコードコンサートとカルトクイズを合わせたような集いをされていた。そのクイズに正解すると『スイングジャーナル』の最新号他の景品をもらえるのだが、そのマニアックなジャズクイズに正解して景品を勝ち取っていく人が毎回同じ人。その月に1回の集いの時以外には、店内でそのお客さんの姿を見かけたことはあんまりなく、何だか「オタクの独り占めだなぁ」と思っていた。 それから、近くの京都府立医大病院から抜けだしてジャズを聴きに来ていた強者のお客さんが居た。なぜ分かったかというと、パジャマに「京都府立医大」と印字されたスリッパを履いて来ていた。実に美味そうにコーヒーを飲み、どんなジャンルのジャズであろうと実に楽しそうに腕を組みつつ目を閉じて聞き入っていた。1ヶ月ぐらいしてその姿を見かけなくなった。病気(何だかわからない)が重くなったのではなくて無事に退院されていればいいな、と思った。


マーヒー加藤

※ JAZZの大音響ばかりを思い出し、その記憶のなかの大音響にかき消される形で、
  おそらく演劇にもっとも参考になるであろう、会話や言葉はさっぱりと
  思い出せません。
[PR]

by kaneniwa | 2012-09-13 00:24 | 草京都
2012年 09月 11日

オリンピック東京誘致が本気なら 首都高マラソン ってどうだろうか?

1964年東京オリンピックのマラソンコースってどんなんだったんだろう?
と、ふと思った。
国立競技場から代々木経由で甲州街道へ。
そこからはまっすぐ。
調布・味の素スタジアムまで約21kmの道のりが折り返し地点。
(今でも調布に1964年オリンピックマラソンコース折り返し点の看板有)
そういうコースだったみたいだ。

なぜ、そんなことをふと思ったかといえば、
この夏の気候を考えたら、小中学校の運動会だって開催を避ける
7月や8月の東京というのは、古今東西のマラソン競技で
高い気温に加えて高い湿度などもっとも過酷な場であったのではなかろうか。

2020年のオリンピック東京誘致が本気なら、
そのマラソンコース設定が大きな要素となると感じる。
他の競技でも日本の夏は過酷だが、何といっても
気候の要素がいちばん影響を与えるのはマラソンだ。

当然、アテネ大会のように深夜から明け方にかけての競技時間帯設定などは
必要であろう。
(それでもこの夏は早朝から蒸し暑い日は多かったが)

それプラス、世界のテレビ視聴者への観光ガイド以上の「何か」が
必要な気がする。

そこで思い出したのが首都高(首都高速道路)の風景である。
東京に住んでいた頃、山梨などの遠方に出張する際に、
時々明け方の首都高にのった。(もちろん車)
あのビルの谷間を鉄腕アトム的にすり抜けていく感覚は、
昼間の慢性渋滞の時とは違って、明け方なら首都高料金も
なかなか適切な入場料であり通行料に思えた。

首都高を、大勢のランナーが走り抜けていったら、どんなんだろうか?
ニューヨーク・シティ・マラソンではクウィーンズボロ・ブリッジを渡りきって
マンハッタンに出るシーンがマラソンコースのなかでのハイライトというか、
壮観であるが、コース設定によっては、そんなハイライトシーンが
続くような映画的なドラマがあるコースとなるのではないだろうか?

従来の2月の東京マラソンでも、主要な幹線道路をマラソンのために
長時間交通規制をするので、東京マラソンは世界でもおそらくもっとも
高額な3万円という参加費がかかる。
それでも大人気で、抽選で一般ランナーは10人に1人しか参加できない。

ただ、もしも首都高を思う存分に走らせてくれるというのなら、
3万円でも高くないなぁと私は感じる。
3万円の参加費で多くの参加者を集めて東京名物となる経済効果と、
首都高を最低半日は封鎖することの経済損失はどっちがどうなるか?
私には計算できないけれども、オリンピック誘致の目玉にはなるだろう。
日本道路公団による高速道路建設が動き出したころに
1964年の東京オリンピックの開催が決まったという「歴史」もある道だ。

偉そうなことを書いたが、人生で最も長い距離を走った経験は
三浦国際市民マラソンのハーフマラソンコース。
タイムは世界記録のちょうどハーフスピードである2時間5分。
そして、長距離走は、どんなにゆっくりなスピードでも気温が30度以上の暑い日には
一切しない主義である。

そう、この夏はほとんど走っていない。
9月中旬だが、まだ走らない。

マーヒー加藤
[PR]

by kaneniwa | 2012-09-11 01:41 | 草走