<   2014年 03月 ( 11 )   > この月の画像一覧


2014年 03月 29日

一生忘れないクリームソーダ色とピカソブルーの思い出

b0061413_043355.jpg ※ これから表示される文中でTRICKシーズン1の最終回のラストシーンのロケ地は、石垣島ではなくて宮古島であることがわかりました。ただ「この日本に満潮時には沈んでしまう美しい島がある」ということを勘違いながらそれで教えられていなかったら、今回の旅行先に石垣島の沖にある浜島をいちばんの目的にした家族旅行はあり得ませんでした。したがってこの追記を先に置いて勘違いもそのままにブログ記事を書いたとおりに表示いたします。(冒頭の追記、2014年3月31日)  五日間、ブログを更新していませんでしたが、春彼岸の期間の終了とともに実に久しぶりの家族旅行に行ってきました。長女の高校合格と進学、長男の中学校進学、私の住職就任が重なったということもあります。その日程のなかでも白眉である3月25日のことをブログ記事にしようと思ったけれどもちょいと疲れたなぁと思っていたら、お世話になった まことさん(さかなクンにそっくりなので通称こざかなクン)がスタッフブログでその一日を克明にまとめてくれていました。そして、よく見たら、かおりさんもその一日のことをブログにまとめてくれていました。スキージャンプの葛西選手のような、あるいは中年ロックスターのような風貌(サスケのファンのうちの息子はサスケのレジェンド選手である長野誠船長にソックリだと言っていた)の八木原キャプテン(船長)と、まことさん、かおりさんが意識せずに繰り広げる船上コント(こんな明るい職場は世界でも珍しい)に大笑いしつつ、テレビ番組のTRICKのシーズン1(2000年)での最終回で「宝を隠した場所」として登場し、その鬼束ちひろがご本人登場で(最初は合成映像だと思っていた)テーマ曲(主題歌である月光)を歌った「満潮時には完全に沈んでしまう」という「幻の島・浜島」に家族5人で上陸することができるとは!沖縄出身の仲間由紀恵さえロケで「こんな場所があるなんて!」と驚き、あこがれの場所となっていました。その後、TBSの世界ふしぎ発見!で紹介されて以来、CM撮影などにも使われて真夏の条件がいい日には「満員」になることがあるというその島に、何と天候に恵まれたのに5人家族で独占できたとは、シャラポア(妻・日本人)と「こりゃ、あのビルゲイツ様でもできないことだよなぁ」なんて話しました。しかし、船を操るキャプテンはもちろん、スタッフのまことさん、かおりさんは朝から船を出し、われわれ家族の釣りをサポートし、浜島に上陸させてくれ、その後はシュノーケリングを指導しつつガイドし、取った魚を料理し、夜は居酒屋の従業員をやっていらっしゃっているのに、まさか翌日の昼間に克明なブログ記事までをまとめてくださっていたとは…もう優しくて強くて面白くて働き者のこの3人のトリオにも美しすぎた光景とともに、もうまいってしまいました。ただ、キャラ立ちでいえば私たち5人家族も負けていないので、船上で「何だかマンガのONE PIECEみたいだなぁ…」と、じんわり感動したのでありました。

マーヒー加藤
[PR]

by kaneniwa | 2014-03-29 00:55 | 雑草
2014年 03月 24日

草仏教掲示板(64) 生まれかわるなら 生きているうちに

b0061413_23381581.jpg うまれかわるなら 生きているうちに 長渕剛の言葉である。宗派の違いというのか、伝統と新興の違いというのか、釈尊についての見解が違う教団の影響を受けた人の言葉をとりあげただけでもご批判や揶揄する声をいただくことがある。「しかし、言葉とか作品というものはそんな壁をこえたところにある」として言葉を選んで掲示してきた。しかし、今回はそんな私でもちょっとだけ迷った。1995年に大麻取締法違反で逮捕され、起訴猶予とはなったもののその時に「仏性」という言葉を何度も使った彼の反省文があった。(私は週刊誌でそれを読んだ)この言葉はその流れのなかにある言葉である。生まれかわりというものが、あるのか、ないのか、わからない。極めて大雑把だがインドやチベットの人々の多くはごく自然にそれを信じ、漢民族の観念のなかにそれはあまり入っておらず、代わりにというわけではないが魂魄(こんぱく)思想というか、霊魂不滅的なものを自然に信じる文化がある。どちらか、わからないし、どちらが正しいとも言えないが、とにかく「生まれかわり」というものを問題にするならば、それは死後の世界よりも「生きているうちのことだろう」と思った。

マーヒー加藤(ブログ解説文)
日本人・シャラポア(書)
[PR]

by kaneniwa | 2014-03-24 00:00 | 草仏教
2014年 03月 20日

絵文字についての考察

「あった!涙がとまらん!」
というシャラポア(妻・日本人)からの長女の高校合格を伝える短いメールには
とても感激をした。
感激しつつ、そして素直に娘の合格をじんわりと喜びつつ、
頭のどこかでまったく別なことを考えていた。

それは
「シャラポアから絵文字が入っていないメールを受け取るのは何年ぶりだろうか?」
ということであった。

シャラポアと私のガラケー(日本のガラパゴス携帯電話)のメール交換歴は長いが、
シャラポアから私へのメールには必ずといっていいほど絵文字が入っている。

時代はガラケーからスマートフォンを使う人が多くなってきていて、
そのスマートフォンを指でシュッシュしながら
「LINE」などで男女問わず「スタンプ」と言われる画像を貼り付ける時代であるようなことは
漠然とであるが把握しているつもりではあるけれども、
メールにおける絵文字の使用頻度の男女差は、これはどういうことだろう?
なんてことをシャラポアからの久しぶりの絵文字抜きのメールで考えた。

昔から
「なんで男同士の電話の通話は短くて、女同士だと長いのだろうか?」
という問題は考えたことはあった。
イメージにあるのは『はじめ人間ギャートルズ』的な世界であり、偏見もあるかもしれないが、
おそらく男は黙って狩りをしている間に女は洞穴で
「あっちの森のなかでイノシシを見かけた人がいるらしい」
などの有益な情報交換というものを果たすべき重要な役割として担ってきた。
そんな人類としての歴史的な伝統のようなものであると考えてきた。

そういうことからの関連で
「なんで男は絵文字をあまり使わず、女は多用するのか?」
という問題をついつい考えはじめたのであった。
男でも、たまに絵文字を多用する人はいることはいる。
男でも、長電話をする人はいることはいる。
でも、これも確かな確証はないけれども私はそこに
「男性のなかの女性的なもの」
を見る。

なぜ女は絵文字を多用するのか?
仮説をたてたいと思う。

それはね、そもそも象形文字を考えたのはね、男ではなくて女だったんだよ。
(誰の口調なんだ?)

という仮説である。
仮説というよりはヒラメキというか感触であってまだ説にはなっていない。
ちょっと無理をして説として展開をしていくならば、
『絵文字経典・トンパ経』
の存在がそう思わせてくれた。
つまり象形文字でできている経典というものがあるのだ。
しかも、チベット東部や雲南省北部に住む少数民族の一つナシ族に今も伝わる。
そして、このナシ族というものが今でも世界で唯一「生きた象形文字を使う民族」と言われる。
そのナシ族のナシ語の表記(トンパ文字)は、
異体字を除くと約1400の単字からなり語彙も豊富であるらしい。

ネットでの付け焼き刃学習をしてみると、そのトンパ文字で
「女」をあらわす文字は同時に「大きい」という意味であり、
「男」をあらわす文字は同時に「小さい」という意味である。
そして予想どおりというか、ナシ族は母系社会なのであった。

「洗練された象形文字」である漢字と、
スムーズに音を表現するためにそれを崩してひらがなが生まれ、
しかもひらがなの方は紀貫之なんかを除いて男はあまり使わずにきた日本の文学は、
紫式部や清少納言の平安時代から、平成時代の直木賞も芥川賞も受賞者はほとんど女性という
ところに至るまで、
「実は本来、文字を駆使するのは女性の能力であり、
 男の権力が異様に強い時代だけそれが発揮されにくかった」
のではないかとさえ思えてきた。

仮説の説としてもまとまらないなぁ。
ただの直感なのであるが、
「そもそも、文字の原型である象形文字を作ったのは女性である」
というヒラメキだけはあたためておきたい。

長い時を経て、そのヒラメキを実証してくれるような学者がこれから出てくれるかもしれない。
その学者が、男なのか女なのかは、わからない。

マーヒー加藤
[PR]

by kaneniwa | 2014-03-20 00:34 | 草評
2014年 03月 18日

イメージ黙読で、ジャパネットたかたの高田社長の声を聞く(3)

というわけで、
「もしもジャパネットたかたの高田社長が三帰依文を音読したら、どこにいちばん力が入るか?」
という問題(別にクイズではないけれども…)であるが、
私はおそらく
百千万劫(ごう)にも遭遇(あいあ)うこと難し
の部分にもっとも力を入れて声は甲高くなることに間違いはないとイメージしている。

まず、商魂という魂を込めて
「具体的な数字を語る時に力が入る」
という高田社長の習性についてはすでに言及した。

したがって、もしも高田社長が宮沢賢治の「雨ニモマケズ」を朗読したならば
いちばん力が入るのは
「一日に玄米四合」
の箇所である。

「三帰依文」の場合であれば、
「百千万劫」という時の長さをあらわす数字の恐ろしく大きすぎるスケールにしたがって、
その声は大きくなる。

さて、「百千万劫は一劫の百千万倍」ということとして、
この「劫」という単位はどんなものであろうか?

大乗仏教の論書である『大智度論』に出てくる説に基いて説明したい。
高さが20キロの巨大な固い岩でできた山がある。
つまりチョモランマ(エベレスト)の高さの軽く倍以上の高さで、固い。
そこに100年に1回だけ天女が舞い降りてくる。
その天女の超軽量の羽衣の先端が山の先端に触れるか触れないか、軽いタッチをして、
すぐに天女は天に舞い戻ってしまう。
それを繰り返しつつ、その巨大な固い岩が完全に擦り切れてしまう時間が「一劫」という時間。

どんなスーパーコンピューターをしても、客観的にカウントし得る数字に置き換えるには
「計算不能!」
という答えが待っているはずだ。
つまり、人間が想像できるものはすべて存在する可能性がある、とは想像しつつも、
これは人間の想像力の限界に近いような比喩である。
「一劫」でも果てしなく、「正信偈」に「五劫」と出てくればその5倍!
「三帰依文」には「百千万劫」と出てくる。

「29800円!」あたりを中心に、さまざまな数字を口にしてきた高田社長であるが、
そのスケール感が違いすぎるので、もはや初めて商魂という魂を離れた魂を傾けて、
「百千万劫!」を発音するかもしれない。
ただし
「千載一遇のチャンスですよ!」
ということについては高田社長は言い慣れているということも、
その箇所にもっとも力が入るであろうことをイメージする時の明確な根拠である。

マーヒー加藤
[PR]

by kaneniwa | 2014-03-18 22:12 | 草評
2014年 03月 16日

イメージ黙読で、ジャパネットたかたの高田社長の声を聞く(2)

というわけで、
今回は 「もしもジャパネットたかたの高田社長が、三帰依文を音読したらどうなるか?」
ということがテーマである。
実際には高田社長がそれを音読するということはなかなかないと思う。
黙読しつつイメージの世界で高田社長の声を頭のなかで響かせるしかない。
しかし、高田社長の声というものは聞き慣れている、
というか聞きたくもないのに耳に入ってくる声であるので、
イメージの世界で私には容易に響かすことができる。

その前に、三帰依文というものがどういうものであるのかということについて解説したい。
まずは、その三帰依文というものの本文である。

人身(にんじん)受け難し、いますでに受く。仏法聞き難し、いますでに聞く。
この身今生(こんじょう)において度せずんば、
さらにいずれの生(しょう)においてかこの身を度せん。
大衆(だいしゅう)もろともに、至心に三宝(さんぼう)に帰依し奉るべし。

自ら仏に帰依したてまつる。
まさに願わくは衆生とともに、
大道(たいどう)を体解(たいげ)して、無上意(むじょうい)を発(おこ)さん。
自ら法に帰依したてまつる。
まさに願わくは衆生とともに、深く経蔵(きょうぞう)に入りて、
智慧(ちえ)海(うみ)のごとくならん。
自ら僧に帰依したてまつる。
まさに願わくは衆生とともに、大衆を統理(とうり)して、
一切無碍(いっさいむげ)ならん。

無上甚深(じんじん)微妙(みみょう)の法は、
百千万劫(ごう)にも遭遇(あいあ)うこと難し。
我いま見聞(けんもん)し受持(じゅじ)することを得たり。
願わくは如来の真実義を解(げ)したてまつらん。


この文章は日本国内の多くの宗派の多くの出版物で使われている。
出版物のなかには各宗派の聖典や勤行本も含まれる。
「ジャパネットたかた社長がこれを音読するとどうなるか?」
というイメージ黙読が今回のブログ記事の主題であるので、
そのついでに解説するには、やや気が引けるというか躊躇する面もあるのだが、
案外とこの文章の由緒について解説されたものが
特にネット上(ジャパネットのことではないよ…)ではなかなか見つからないので、
マーヒー加藤が知り得たこの文章に関する由緒をここに記しておきたい。

まず、文章を書かれたのは 大内青巒(おおうちせいらん)という人である。
江戸時代の弘化2年に生まれた仙台出身の仏教学者である。
1914年(大正3年)に東洋大学の学長に就任されていて、
なおかつ大日本仏教会(現在の全日本仏教会)の会長をつとめられている。
その時に東京大学の仏教青年会(現在もあります)から大内会長にある要望が出される。
東京大学は東京大学であったのだが、明治30年に名称が東京帝国大学になり、
昭和22年にはまた東京大学となっていて、実にややこしいのであり、
正確には東京帝国大学時代のことなのであるが、話をすすめていきたい。
その要望とは、
当時、全国から学生が集まる大学といえば東京大学であった。
その東京大学で仏教青年会が結成される数年前という時期があった。
しかし、同じ仏教徒学生といっても宗派もちがえば地域性も違うものが集うこととなり
「宗派が違ったとしても仏教徒として共に読むことができる文章はないか?」
という要望を大日本仏教会に出した。
大内会長(同時に東洋大学学長)は「禅浄一味」
(坐禅を中心に華厳、念仏、真言などが融合した世界を目指す)
という運動も展開されていたことからの学生の期待があったのかもしれない。

間違っていたらご指摘いただきたいのであるが、
『華厳経』の入法界品のなかにある文を中心にしつつ、
後半部分は『無量義経』の説法品のなかの「開経偈」を取り入れた文章を書く。
そして『法句経』や『法華経』からのエッセンスもこの短い文章のなかに
巧みに取り入れられているということも聞いたことがあるものの、
エッセンスの話にまでなると、どこがどうなっているのかは私にはわからない。

この「三帰依文」という文章をひとつの旗印として
東京大学仏教青年会は1919年(大正8年)に結成される。
現在も多くの仏教セミナー、講座を運営しつつ活躍中である。
「本郷三丁目の日本信販ビルの7階」がその活動の拠点である。
東京大学仏教青年会のかつての活動拠点である会館がそこにあり、
その一等地を日本信販が買い取ってビルを建てた時に
「7階のフロアは仏教青年会が従来どおりにお使いください」
という約束があったのであろう。
日本信販のニコスカードも現在は資本が三菱UFJニコスという複雑な複合体となり、
まさに生き馬の目を抜くような金融業界の荒波を感じるビルであるけれども
この東京大学仏教青年会は存続していくことであろう。
もちろん、そこではその伝統や経緯からこの「三帰依文」は重要視されている。

この三帰依文を、いろいろな宗派のいろいろな出版物で見かけたが
正直に言って「印刷はしてあるけれども音読されることはほとんどない」という宗派と、
「法話会、研修会の冒頭において積極的に音読する」という宗派に分かれる気がしている。
真宗大谷派という私にとってもっともご縁のある浄土真宗の宗派は積極派であろう。
これは曽我量深先生という仏教学者が三帰依文を大絶賛して
実際に講義や法話の冒頭で読まれていたということも聞いたことがあるし、
東京大学出身の方が特に指導する大学教授を中心に少なくないということもあろう。
まったく不肖の弟子すぎる存在であったのだが、私も恩師に
「加藤くんはふざけ過ぎることがあるので法話の機会には冒頭に三帰依文を読んだ方がいい」
とのありがたいアドバイスをいただいたことがある。
その恩師というのは、やはり東大出身であった。

さて、今回もブログの投稿記事として分量が増えすぎたので、
またまた後日続編を書くことにする。
私はジャパネットたかたの高田社長が、
もしもこの三帰依文(ブログ本文中の青色部分)を大きな声で音読したとすれば
「ひときわ声が大きくなって甲高くなる箇所はどこか?」
という問題を考えていただきたいと思う。
高田社長の声をイメージしつつ、頭のなかでその声を響かせたならば
「明確に声が大きくなり、甲高くなる部分がある」
ということが私にはわかった。

その明確な答えを、読んでくださった方々の納得がいくように続編として書きたい。

マーヒー加藤
[PR]

by kaneniwa | 2014-03-16 02:03 | 草評
2014年 03月 13日

3月13日 ミラクル2連発

どうしても今日の日付のうちに書いておきたいことが2つ。
中学3年生の長女と小学6年生の長男が起こしたミラクルについて。

まず、長男の周囲に起こったミラクル。
11日前に全校生徒の前での劇中劇で
完成度の高いヲタ芸を披露して
すでにちょっとしたミラクルを起こしていた長男ら5人の仲間だった。
今日は、そのクラスでのお別れ会バージョンで新たなレジェンドを作ったらしい。
うちの長男を含む5人の仲良しヲタ芸仲間は
うちの寺の境内で遊びまくるグループでもあるのだが、
何とメンバー中にサッカーの全日本U−13(13歳以下)の全日本代表が2名いるのだ。
この二人は5月にはイタリアのローマで行われる世界戦に飛び立つのだ。
そんなメンバーが躍動するヲタ芸であったのだが、
それをKくんという少年が11日前にはただ見つめているだけであった。
Kくんもまた、寺によく遊びに来るメンバーであるのだが
ニンテンドー3DSをやっているだけで、境内草サッカーや鬼ごっこタイムなど
激しい運動には参加せずにひらすらニンテンドー3DSをやっているだけ。
小学生ながら風貌は「相棒」の鑑識の米沢さん(六角精児)に似ていて、
温厚で優しい人柄で人気があるもののマクドナルドに行けば
「マックシェイクを3杯飲みつつビッグマックを含むハンバーガーを三つ食べる」
というのが普通らしく、したがって体型も米沢さんであった。
そのKくんが
「オレもヲタ芸ってできるのかなぁ?」
と言っそうだ。
そのつぶやきを長男を含む境内遊び仲間が耳にして
「やろうよ!やろうよ!Kもヲタ芸仲間になろうよ!」
と強くすすめた。
正直言って、長男はKくんにとって放課後の秘密のヲタ芸特訓は熾烈を極めるので
三日目ぐらいにギブアップすることも想定していたらしい。
しかし10日間の厳しいヲタ芸稽古にKくんは汗だくになりつつも何とかついてきたそうだ。

そして今日のクラスお別れ会。
今回は私は学校行事ではなくてクラス会なのでそれを見ることはできなかったが、
長男らの証言をまとめると
若干、芋洗坂係長であるとかジョン・ベルーシ(当然小学生にはわからないだろうが…)の
ような、コミカル要素はあったにしろ、
激しい動きをするところがなかなかイメージになかったKくんが
サプライズ的にヲタ芸に参加しつつ高度な動きをこなすという場面は、
それこそヲタ芸の真髄である
「こんなヲタ芸と対面しつつアイドルとして歌ってみたい」
と想起せしめるパフォーマンスをもって
特に女の子たちの心をその意外性もともなってガッチリつかみ、
拍手喝采を浴びたであろう光景を容易に想像できたわけである。
ミラクルは連鎖していく。

今日は、長女もまたすごいミラクルを起こした。
本当はこっちを先に書きたかったのだが、ちょっと冷静になるために
長男とその仲間に関する話を先に書いた。
3月11日、東日本大震災から3年目の日に行われた公立高校の入学試験で
合格の知らせを届けてくれた。
娘の努力の積み重ねを信じていなかったわけではないけれども、
色々なミラクルを感じないわけにはいかないほどの知らせだった。

秋のコンクールやイベントまで吹奏楽部でアルト・サックスをやっていた長女は、
なかなか志望校を定められずに周囲をヤキモキさせていた。
夏休みの最後半に、長女はシャラポア(妻・日本人)といっしょに
県内のいろいろな高校を正門付近だけでも見てくるという旅に出た。
その結果、娘が第一志望校として選んだのは周囲がビックリする名門校であり、
娘の成績やそれまでの模擬試験の結果からするとビックリする難関校であった。
願書の提出の最終締め切り寸前まで、婉曲表現ながら志望校の変更も示唆されつつ
「あそこに入るためでないと本気の勉強ができない」
と何度も言い張った。まったく誰に似たんだか?
正直言って成績は伸びてはきたものの年末の模擬試験でも合格確率判定は20%であった。

試験前日、福島県二本松市の幼稚園を併設している真宗寺院の
かつて東本願寺で研修をともにしたことがある仲間の
お連れ合いのFacebookを見た。
ご長男さんの素晴らしい笑顔の写真とともに、

明日の県立高校入試を控え緊張気味の長男に、
お父ちゃんから励ましの一言。
「落ちてもいいからな!」
で、爆笑です!


と記してあった。
福島県の公立高校の入試は新潟県よりも一日早かったようだ。
3月11日という日に重ねるわけにはいかなったのだろう。
その「お父ちゃん」は、僧侶であるとともに
理事長をつとめる幼稚園の除染作業をひたすら黙々とやり続けてきた。

それを見た次の日の軽い緊張がある試験前日の食卓で、
それは単なるモノマネであるのだけれども、
しかし、ナチュラルに私も
「落ちてもいいからな!」
と口にしていた。
うちも爆笑だった。
シャラポアが笑いながら娘に
「ね、うちのお父さんはスゴいことを言うお父さんでしょ!」
と言った。
ついさっき妻や娘に白状したけれども、本当にスゴいのは私ではありませんでした。

3月11日、試験日であり震災から3年目の日。
夕方6時45分のNHKの県内版ニュースに
「新潟県の公立高校入試の日」のタイトルで、
これから受験する受験生へのインタビューに、何とNHKから取材を受けていた長女登場!
そして正門まで送った後に帰ったシャラポアも
「受験生の母親」
としてインタビューを受けていたものも続けて地方版のNHKニュースに登場!
シャラポアは
「今どきの高校受験は必ず親がついてくるんですよね」
とテレビのコメンテーターにコメントされるかもしれないと妙な心配をしていた。
その心配はなく、娘もシャラポアも普通に風物詩としての入試場面のニュースとして
取り上げられていたが、放映直後に
「今、テレビを見ていましたよ!」
という電話が何本もかかってきた。
先入観かもしれないけれども、そのなかに
「あんな名門校を受験していたんですね」
というニュアンスがあるような気がしてならなかった。

翌朝、新聞と深夜の放映を録画しておいた進学塾提供の問題解説のテレビ番組を見ながら
答え合わせをしていく。

国語、英語の点数がなかなかいい感じ。
正解を的確に答えていたことを一問ごとに確認するたびにガッツポーズ。
ここまでのところ、ちょっとミラクルの予感がした。

しかし、次の数学の答え合わせ。
前半の問題で何問か単純な計算ちがいをしていたことに長女が気づいて表情が曇る。
後半の問題は難しすぎて何を書いたかも、どこまで考えられたかも思い出せないという。
そこで急に雰囲気が急に暗転してしまった。

数学を飛ばし、理科と社会の答え合わせをする。
まずまずはよくネバっていたという感触はあったが、
どうしても数学の前半の間違いショックで答え合わせができなかった。
数学は長女にとってのいちばんの苦手科目であり、
それだけに前半の
「とれるところだけは確実に取りにいく」
という作戦のなかでの単純な計算ミスがあまりにも精神的に痛かった。
そこで答え合わせは終わり。
何となくだけれども「善戦」だとか「ナイスチャレンジ!」という
前向きだけれども否定的な言葉が思い浮かんだ。

そして今日の午後2時、
その高校の合格発表があった。
長女とシャラポアが見に行った。
もしもミラクルが起こったならば、その受験番号の3桁の数字を
買ったばかりのスーツケースの鍵の暗証番号にする約束をした。

前後の番号の多くが飛んでいるなかで、
シャラポアが長女の受験番号を見つけて駆け寄ったという。
長女の受験番号が、そこにあった。
私は二軒のお宅へのお参りの途中、車のなかの携帯電話に送られてきた
「あった!涙とまらない」
という短いメールで、ミラクルが起こったことを知った。

実際にシャラポアは恥ずかしいぐらいに涙が出たそうだ。
彼女は15歳の時に第一志望の都立高校に入れなかった経験があるからだ。
泣きながら
「合格だよ!合格だよ!」
と長女に声をかけたシャラポアに
「私を信じてずっと見守ってサポートしてくれたお母さんも、お母さんとして合格だよ!」
と言ったらしい。
お父さんは?お父さんは?お父さんは?
と言いたい気持ちもちょっとあるが(ちょっとなら3回も言うな)、
こんなことを言えるようになった長女が、合格だ。

マーヒー加藤
[PR]

by kaneniwa | 2014-03-13 23:10 | 草評
2014年 03月 11日

2011年3月12日の空

b0061413_23354187.jpg 3年前の今日の日付のことを思い出そうとしていた。主にこのブログのためであるけれどもRICOHのコンパクトカメラだけを使っていて日常の写真を撮っていたが、3月9日付けで茶碗蒸しの写真を撮ってからしばらく写真を撮っていないようだった。2011年の冬は厳しかった。一週間語後のお彼岸のために墓地に残っている雪を片付けていたと思う。昼ごはんを食べた後もその作業を続け、ちょっとひと休みをしていた。地震発生時刻は14時46分18秒というけれども、飼っていたインコが鳥カゴのなかで激しく羽をぶつけながら今までにない騒ぎ方をしていたのが異変の最初であった。それからしばらくしてから緊急地震速報が鳴ったと思う。私の住むところでは震度5の手前ぐらいだったと思うのだが3分以上の揺れがずっと続いた不気味さは初めてであった。正直言って「中越地震や中越沖地震のように、また新潟県のどこかが震源地なのか?」と思った。しかしラジオとテレビから震源地は太平洋であると知らされ自分が感じた揺れに比して震源地が遠いことでかえって「大変なことが起こる」という予感だけがした。

b0061413_23355878.jpg それからブログ用ということもあって一日に一枚ぐらいは撮っていた写真は途切れていて、3月の24日になって長女が中学の入学式に合わせて制服を試着した写真を撮るまで、ほとんどそれまでの期間に写真の撮影はない。ただ、ふと見てみると、自分のなかでの記憶も曖昧であるけれども、震災の日の翌日の3月12日の17時59分という、ほとんど午後6時頃の空の写真を2枚撮っていた。自分でもよく記憶していない。「奇妙な雲がある」ということとほとんど撮っていない時期だったがカメラは持っていたということでほぼ無意識的にシャッターを切ったようだ。震源周辺から発生する電磁波が雲の生成に影響を与えた形での地震雲というものなのか?あるいは近くの自衛隊駐屯地(新発田市)から東北へ飛び立っていった自衛隊機のひこうき雲なのか?あるいはひこうき雲というよりはそれまであまり使われることがなかった輸送機などからのケム・トレイル (chem trail) というものなのか?私にはよくわからない。よくわからないどころか、この写真を撮ったこと自体さえ覚えていない。ただ、なぜか残っているこのよくわからない空模様が、その時の私の心模様となっている気もしている。


マーヒー加藤
[PR]

by kaneniwa | 2014-03-11 00:37 | 草評
2014年 03月 09日

イメージ黙読で、ジャパネットたかたの高田社長の声を聞く

姜尚中(カン・サンジュン)氏の文章を読むと、姜尚中氏の声がする。
姜尚中氏の声の吸引力はジョアン・ジルベルトに通底する
というようなことを3年以上前にここでも書いたことがあるが、
たとえばベストセラーになった『悩む力』(集英社新書)などを読むと、
姜尚中氏の声の吸引力に気がついていた出版社がそれを充分に引き出す編集をしたようにも思う。

たとえば現在でも角川文庫で読むことができる
『 成りあがり How to be BIG―矢沢永吉激論集 』
は、ライターとして糸井重里氏のメジャーデビュー作でもあって、
糸井重里氏がインタビューを重ねながらの「聞き書き」という手法をとっているので
(しかし、この本以前にタレント本というものはほとんどなかったように思う)
当然のことながら「矢沢永吉の声が聞こえてくる」ように書かれている。

『歎異抄』は唯円が親鸞聖人の言葉を聞き書きした書物であるから、
親鸞聖人の声が聞こえてくるべきはずなのであるが
私は親鸞聖人の声質を知らない。
イメージの世界でしかわからない。
警視庁や検察庁などの政府機関の調査協力でも有名な日本音響研究所が
古今東西の歴史上の人物を残っている写真や肖像画での骨格から判断して
仮想の声を出すということをやっていた。
しかもNTTドコモのiモード時代には、その声を90円で着メロに出来るという
(しかもジャンルはJ-POPって、日本音響研究所がよくわらなくなりました)
そういうことがあったのだ。その歴史上の人物のなかに「親鸞」もあったのだけれども、
ドコモは使っていなかったのでその声は聞けなかった。

なので、黙読では色々な人の声のイメージで「その声」を聞くということがある。
『歎異抄』に限るならば、昔、故・三國連太郎さんが朗読されていたこともあるので
その声のイメージが出てくることもあるけれども、
あえて、言論の自由は完全に保証されなくとも「想像の自由」というものを駆使して
いろいろな人の声を頭のなかで響かせながら色々な本を読む。

ある日、付けていたテレビのスイッチを切ってから経典や聖典の類を読みだした。
そのスイッチを切る直前に耳にしていたジャパネットたかたの高田御大(髙田明社長)の
声がやけに耳に残っているままに黙読をはじめた。
ジャパネットたかたのテレビショッピングの収録は長崎県の佐世保本社で行われている。
調べてみると高田社長は同じ長崎県の平戸のご出身である。
ほとんどの人は高田社長の宣伝トークに「方言」とか「訛り」の要素はあまり感じないように
思うかもしれない。
しかし、私の母親が長崎県の佐世保出身なので、あの全体のトーンの甲高さを含めて
肥筑方言(ひちくほうげん)を感じてしまう。

最初からあまり広く知られていない文章を取り上げるのはやめて、
「もしも高田社長が有名な文学作品を朗読したらどうなるか?」
ということをイメージしていただきたい。
ビューティーこくぶや栗田貫一などがモノマネ芸として高田社長を演じることが
あると思うが、もしかしたらそういう芸としてもイケるかもしれない。
その文学作品のサンプルとして取り上げたいのが 
宮沢賢治の「雨ニモマケズ」という詩である。
これをもしも、高田社長が朗読したら、どうなるのか?
宮沢賢治作品を愛している方々、ごめんなさい。でも、色々な愛し方があるのです。

冒頭の
「雨にも負けず 風にも負けず」
ディレクターのキューサイン直後から
高田社長は甲高い声で突っ込んでくるはずだ。
多くの商品を甲高い声をはりあげて布教精神に近い宣伝を行ってきた体験から、
まずこの冒頭のフレーズは表題であり、キモであることを熟知している。
そして酷使に耐えうる商品の「耐久性」を訴えてきた積み重ねをもって
まずは冒頭のフレーズに魂をこめてくる。
ま、商魂という魂ではあるけれど。

しばらくこの日本文学史上においても五本の指には入る有名な詩を
高田社長が朗読していくイメージを、どうか私と共有していただきたい。

「一日に玄米四合」
この箇所で、甲高い高田社長の声がひときわ甲高くなり、音声レベルも上がることを
感じていただけるだろうか?
少なくとも私はビンビン感じる。
「具体的な数字が出てくると高田社長は商魂という魂を込めて声のトーンが上がり強くなる」
という習性が発露されるにちがいないと感じた。
しかも「一日に」という、その数字が参照される期間において、
もっとも言い慣れていて生活実感があるフレーズが付いている。
最後の
「そういうものに わたしはなりたい」
という言葉も、かなりの甲高さをもって締めてくるようには感じられるが、
それにも負けないほどの音声レベルで
「一日に玄米四合」
には声が張り上げられるだろうとイメージする。

ブログ記事としては長くなってきたので続編を別の日に書くことにするが、
次回は
「もしもジャパネットたかたの高田社長が真宗聖典を音読したら…」
ということをテーマにしてみたい。
その時に、この高田社長の
「具体的数字にはひときわ気持ちが入って声は甲高くなる」
という習性を是非とも念頭に置いておいていただければと思う。

マーヒー加藤
[PR]

by kaneniwa | 2014-03-09 00:24 | 草評
2014年 03月 07日

草仏教掲示板(63) 林修氏の言葉

b0061413_620764.jpg たまたま受験シーズン(私立大学の大半はもう終わったかな?)の掲示となった言葉は東進予備校というよりも全国でもっとも有名な予備校講師となった林修氏の「人生は一つ勝てる事があればあとは全部負けていい」という言葉。「決して負けない 強い力を 僕は一つだけ持つ」(THE BLUE HEARTS リンダリンダの歌詞より)と、どちらを掲示しようかちょっと迷った。こういうことの「一つ」ということには重みがあり、リンダリンダの詞が「強い力を僕はたくさん持つ」では歌にならなかった。願いが一つだけという人がいたとすれば、その願いは叶いやすいような気もする。たとえば、アラジンの魔法のランプだって願いは三つまでであるのに結婚相手を求める真剣さは解っても相手に求める条件が五つや六つも言われるとあきれ果ててしまう。「容姿端麗」でも「若さ」でも「優しさ」でも「経済力」でも何でもいいけれども、願いが一つだけなら何となく上手くいきそうな気がするのだ。 林修氏が深夜のテレビで喋っていた。今、検索で調べたら昨年の12月14日の「SWITCHインタビュー 達人達」(NHK・Eテレ)であることがわかったけれども(私が見たのはたぶん深夜の再放送だ)林修氏がライフネット生命保険の代表取締役社長である岩瀬大輔氏のための特別授業をしているなかで「現代文天丼理論」というものが頭に残った。林修氏が言うには入試に出てくる国語の現代文というのは「安い定食屋さんの天丼」であるそうだ。つまり、海老に分厚いコロモを付けて「海老はどこだ?」というぐらいにしてあり、一読ではなかなか筆者の言いたいことの核心がわかりにくい文章というものが出題されるので、文章のなかの「海老」を見出すということがいちばんのエビ、もとい、キモであるそうだ。反省も込めてであるが、私も自分のなかの「エビ」をもっていたいと思った。そうでなくては「僧侶だけにコロモ(衣)しかない」という嫌なオチがついてしまう。

マーヒー加藤 (文)
日本人のシャラポア (書)
[PR]

by kaneniwa | 2014-03-07 06:54 | 草仏教
2014年 03月 04日

追悼記事(31) ビル・ロビンソン

プロレス界のスーパースターだったビル・ロビンソンの訃報が入った。

4年ほど前に
「スピッツのロビンソンという曲の歌詞は、ビル・ロビンソンのことを歌っていると思えてならない」
という趣旨のブログ記事を書いたことがある。
実際は作詞・作曲を手がけた草野正宗(スピッツ)がタイを訪問した時にロビンソン百貨店に
インスピレーションを得たらしいのだが
「ロビンソン」のタイトルは「人間風車」でもいいと思うぐらいだ。

ウィキペディアで、亡くなられた日付が入り、情報(書き込み)も更新されているのだが
懐かしい名前がたくさん出てくる。
以下、懐かしい名前には 「」(カギカッコ)を付けておきたい。


1999年から2008年まではUWFスネークピットジャパンのヘッドコーチとして
ずっと東京の高円寺に在住(そして大浴場とサウナは荻窪のゆーとぴあの常連愛好者)
であったのであるが、本人がプロレスラーを引退した後は「ルー・テーズ」のオファーで
UWFインターナショナルに来日して「ニック・ボックウィンクル」との
エキシビションマッチを行うまで、ラスベガスのホテルのガードマンをやっていたそうだ。
ビル・ロビンソンほどの大物、スーパースターをガードマンとして雇っていたのは
一体ラスベガスの何というホテルだ?と思うとともに、
改めてプロレスの世界の厳しさを引退後ということも含めて感じる。

ビル・ロビンソンは私が生まれる以前からプロレスラーとして活躍していた。
初来日は1968年で日本レスリング協会の会長で
国際プロレスの発起人でもあった「八田一朗」の仲介であったそうだ。
さらに1970年のハワイ滞在中、同じ英国出身の「ロード・ブレアース」の紹介で
「バーン・ガニア」と出会いう。
日本の国際プロレスが、ガニア主宰のAWAと提携していてたことが大きな縁となる。
その国際プロレスで「寺西勇」「マイティ井上」「アニマル浜口」らを指導している。
国際プロレス時代の好敵手は「グレート草津」「チーフ・ホワイト・ウルフ」
「スタン・ステイジャック」「ラッシャー木村」「ストロング小林」「サンダー杉山」など。
さらには「カール・ゴッチ」や「モンスターロシモフ」と名のっていた時代の
「アンドレ・ザ・ジャイアント」などとも試合をしている。

記憶に鮮明なのは1975年の新日本プロレスに所属を変えての初来日。
12月11日に蔵前国技館で「アントニオ猪木」のNWFヘビー級王座に挑戦した。
60分3本勝負でそれぞれが1本ずつを取った後
(劣勢の猪木が試合の最終盤にコブラツイストをかけてビル・ロビンソンから一本を取る)
60分時間切れ引き分けとなったこの試合は、プロレス史に残る不朽の名勝負とされている
のであるが、ゴールデンタイムに好視聴率をもって放映されていた(テレビ朝日系列)
放送を見つつ、さらに後年にこの試合のVHSビデオを手に入れて何度見たことだろうか。

1976年に「ドリー・ファンク・ジュニア」の仲介のもと全日本プロレスと契約した。
「ジャイアント馬場」と対戦しているが、馬場さんが
「ビル・ロビンソンのワンハンド・バックブリーカーを喰らったら便所にも座れなくなった」
というコメントをなぜかよく覚えている。
洋式便所だったか、和式便所であったかまでは覚えていない。
そのせいか、その後で社長でもあった馬場との対戦はなかったか、少なかったと思うが、
売り出し中の「ジャンボ鶴田」とは「試練の10番勝負」の10人のなかの一人としての
対決以降、実によくマッチが組まれた。
タッグパートナーはドイツ(当時は西ドイツ)の「ホースト・ホフマン」と
ヨーロッパコンビを組んでいたが、タッグではそのホースト・ホフマンがフォールされる
シーンがやたら多かったような記憶がある。

もっともっと詳しくビル・ロビンソンの歩みをふり返っていけば、
日本のプロレス史の半分ぐらいがカバーできそうなぐらいである。

マーヒー加藤
[PR]

by kaneniwa | 2014-03-04 23:06 | 草評