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2014年 11月 29日

響きが呼び寄せてくれたもの

b0061413_2332998.jpg いよいよ明日の11月30日に第432回、真宗大谷派善良寺報恩講(親鸞聖人ご命日の衆会)のご法話担当の講師として北海道よりやって来てくださる阿知波一道先生。そして善良寺での弾き語りと当日の午後5時よりご近所の食彩酒房ぼだいじゅさんにてアコーステックライブも決定した。 阿知波一道先生と初めてお会いできたのは2012年の5月13日(日曜日)である。京都であったが本山である東本願寺ではなくその関係の寺院でもない。それを思い返すと、改めて不思議さのようなものが湧き上がってくる。当日も講師紹介をするのだが、少しでもそれをスムーズにできるように、あるいは「詳しくはブログで」と言えるようにここに記しておきたい。 2012年の2月に京都市左京区一乗寺の「いちなん」という焼肉屋さんに行って、1階と2階が焼肉屋さんで3階がライブハウスで屋上がビアガーデンにもなる大文字山を斜め45度で眺められるスペースであり、店主である恵文兄さんが「うちは出会い系焼肉店だ、がはははは」というその場所をいきなり好きになった。まだ知り合ったばかりだったのだが恵文兄さんは「おいマーヒー、5月にボーズライブというイベントをやるから来てくれよ!」と言われて、なぜか私は「行く!行く!」と即答していたのだった。それは「行けたら行く」よりはずっと積極的な参加表明だったが、それでもスケジュールが詰まったら断念せざるを得ないなぁとどこかで考えていた。なんせ5月の週末は法事を希望される方も少なくないので直前まで本当に行けるかどうかは不明確であった。ところが不思議なことにこの年はゴールデンウィーク期間中こそ多忙であったものの、その翌週末となったこの期間は前日の5月12日の土曜日の朝にひとつ要件があっただけで5月13日には何も予定が入ってこずに自家用車にギター等を詰んで新潟県の下越(北部)から自家用車で650キロと少し走って京都に駆けつけることができた。その「ボーズライブ」当日のちょっと前に、Facebookのイベント参加者欄を見て丁珍姉御(ちょうちんあねご)という淡路島在住の川柳作家から私のところに「なんで恵文さん(店主)とまひとさんが知り合いなの!?」という連絡をいただいた。丁珍姉御はキュートなレディにして面白すぎる川柳作家であり、1998年の毎日新聞東京本社で毎日新聞の「万能川柳」のパーティで知り合った。その頃の丁珍姉御さんは「ブルースを歌えば上手そ大仏さん」や「ゴスペルが似合う三十三間堂」という仏教&音楽シリーズで選者の仲畑貴志さんが秀逸(優秀作品賞)を連発していた。 逆に私は「何で恵文兄さんと丁珍ちゃんが知り合いなの?」と思ってしまった。そのつながりは柳名ヒヤケナスさんという大阪の川柳作家の存在であった。何といちなん店主の恵文兄さんと丁珍姉御は、そのヒヤケナスさんのお葬式で知り合ったというのだ。恵文兄さんはヒヤケナスさんに弟のように可愛がられ、焼肉店のオープンの日には大阪からタクシーで駆けつけ、タクシーで帰っていったという。私はボーズライブの直前に何だか夢中で ヒヤケナス先生のブルース というものを作った。当日の客席には、やはり天才川柳作家の坂口チロルも居てくれた。 2013年5月13日のライブ当日、音響チェックのリハーサルを終えた後、阿知波一道さんの隣の席でコーヒーを飲んでいると、リリックノートというのか阿知波一道さんが当日のライブで演じる曲の歌詞カードがふと目に入った。「にごり液」という曲だったのだが、その歌詞の出だしからのあまりの斬新さと抱腹絶倒のオモシロさに思わず私はそれを音読していた。「ダメだよー、これからやる曲なんだからネタばらしをしちゃ!」と笑いながらだったけれども怒られたのが最初の出会いだった。 私の出番が来て前述の「ヒヤケナス先生のブルース」を演る前に「アメリカ南部牛追い唄」という曲を私(マーヒー加藤)はやった。すると、1番を歌い終わったところで何と客席から、正確に言うと3階のライブハウスから屋上につながる階段に座りながら阿知波一道さんはブルースハープ(10穴ハーモニカ)でその曲に見事な間奏を付けたのだ。形から言えば「乱入」であるけれども、それにしてもお見事すぎた。いくらE→C♯m7→Fm7→B7→A7という、ブルースの定形に(やや変則とはいっても)あるといえばあるコード進行であるといっても、1番を聴いただけで間奏をまるで予定調和であるかのように即興で入れてこれるとはスゴいとステージ上で弾き語りをしていながら心底驚いた。ちなみに「アメリカ南部牛追い唄」は、その時が世界初発表、文字通りの初演であったのだが、それは阿知波一道さんとの初共演であった。

マーヒー加藤
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by kaneniwa | 2014-11-29 00:07 | 草音
2014年 11月 25日

草仏教掲示板(75) 阿知波一道先生の言葉

b0061413_22511386.jpg 毎月ペースで貼り替える法語掲示板をこのブログにも「中継」する感じで転載し、ブログ用にも文章を書き加えていることは恒例である。今回、はじめてのパターンであるといっていいのは「一週間後にご法話をしていただく先生の言葉を掲載しておき、その先生が去られた後も2週間か3週間は掲示をしておく」ということである。その余韻のようなものから、また新たな響きあいが生まれてくるかもしれない。阿知波一道先生は作家としての著作というよりは、シンガーソングライターとして『器』というCDアルバムを出していらっしゃるので、そのなかから勝手ながら言葉を選ばせていただいた。「まだかね今金」という楽曲のなかからスペースの関係でワンフレーズだけを抜き書きさせていただいたのだが、せめてブログでは、その「まだかね今金」の2番の歌詞を記しておきたい。 疲れた靴ひもがせせら笑ってる ガラスに映る見たくもない顔 何処まで行ってもついてきた けだるい自分という荷物 別に選んだ訳でもないのに 捨てられぬ訳でもなかろうに 車掌さん汽笛をどうぞ まだかね まだかね 今金 という歌詞のなかから抜粋させていただいた。「まだかね今金」はGのキーではじまる軽快なメジャー調の曲であり、CDの音源がライブであることもあってタイトルにもなっている「まだかね今金」の部分ではお客さんの笑い声も入っている。そのために一種のおもしろソング(コミックソング)としての印象も最初はあったけれども、何度も聞いても深みがあるのは、メロディーやリズムや歌声や演奏もさることながら、引用させていただいた部分の歌詞の存在が私にとって大きい。 「自分探しの旅」というような肩に力が入ったものではなく、目的ある旅というでもなく、かといって帰る場所さえ定まらない放浪というものでもなく、しいて言うならば「自分忘れというものをしたいなぁ」という願望で目的なくふらついた記憶がよみがえる。最近、自分の姿を見つめるような乗り物に乗っていないなぁ。

マーヒー加藤
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by kaneniwa | 2014-11-25 23:50 | 草仏教
2014年 11月 22日

来年は「第433回報恩講法要開催」と、案内に書いてみようかな

b0061413_6302242.jpg 次のNHK紅白歌合戦が第66回となるそうだ。長い歴史があるなぁ。でも、考えたら第25回あたりを夢中になって見ていたわけだなぁ。甲子園で行われた夏の全国高校野球選手権大会が第96回だった。これも100年近い伝統があるけれども56回大会あたりから夢中になって見ていたかな?ちなみに写真はちょうど7年前の今日(11月22日)の本堂改築工事中の様子である。スピルバーグという馬が勝ったこの前の中央競馬の天皇賞は「第150回」と書いてあった。えっ?150年も続いてるの?とも思ったが、第1回は1937年で、天皇賞は春の天皇賞(京都競馬場3200メートル)と秋の天皇賞(東京競馬場2000メートル)の年に2回の開催となっているので第150回ということだが、それにしても伝統あるレースということだ。 さて、実は今日の午後は、43名の建築士の方々が学習のためにうちの寺にお越しになる。寺院の歴史などを解説するための資料を何とかA4の紙一枚にまとめた。善良寺という浄土真宗の寺院は関が原の合戦前の天正10(1582)年という中世の時代に「加賀国より移る」ということになったらしい。なぜか開基の道西という方は、その加賀の国から一休さんの師匠にして「一休」という号の名付け親でもある華痩(かそう)禅師の書をもってきた。漢の武帝が作った漢詩「秋風の辞」なのだが、なぜかそれが前半部分だけ。歴史ロマンを含んだ願望的な見解でもあるけれども、どうも後半の半分は今でも加賀の国のどこかの寺院に現存しているのではないか?そして、一休さんの師であり名付け親である華痩宗雲禅師の書が真宗寺院の当山善良寺にあるということは、本願寺第八代の蓮如上人と一休禅師が宗派をこえてたいへんに親しい友人であった史実と関係しているのではないか? などと思っている。近い将来、この謎の解明につながるのであれば私はテレビ東京の「開運!なんでも鑑定団」に出て石坂浩二にツッコまれ、今田耕司にいじられてもいいと思っている。 さて、形の上では初代から引き継がれる血脈ではなく養子であることもあって「子孫として開基を仰ぐ」という感覚には正直いって遠いのだけれども、430年以上の歴史ということの重みは感じる機縁は多い。そのなかで今月の末に厳修(ごんしゅう)される報恩講(親鸞聖人ご命日を機縁とする衆会)は、戦争中も含むどのような大変な時期でも勤めてこられたはずである。それが「面々と受け継がれてきて続いているのですよ」という思いもこめて、来年の案内状には「第433回報恩講」という文字を入れてもいいかもしれないと、そのA4の板書代わりの資料を用意していてふと思った。 写真はちょうど7年前の11月22日の本堂修復の時の様子。

マーヒー加藤(善良寺第17代目住職)
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by kaneniwa | 2014-11-22 07:45 | 草評
2014年 11月 19日

なぜ私はワイフのことをブログ上ではシャラポアと呼ぶのか?

というわけで、前回のブログ記事は一応「草仏教ブログ10周年記念」という趣旨趣向があった。

そういうわけで、いまさらながら
「ところでなぜシャラポアなのか?」
「シャラポア(妻・日本人)という表記はいかにして生まれたのか?」
というご質問が二人の方から寄せられた。
そのお一人はFacebookで質問を寄せてくださり、私もFacebook上で回答させていただいたので、
あとはGメールで質問をくださった方にやはりGメールで返信すれば
一応のブログ主としての対応は済んだのも同然である。
しかし、もしかしたら他にもその疑問をもっている方がいらっしゃるかもしれないので、
少々長くなるけれども説明責任を無責任に果たしたいと思う。

かつて、私とシャラポア(妻・日本人)は確かに草テニス仲間でもあった。
いや、まだマリア・シャラポアのデビューのずっと前のことでもあり、
紛らわしいので本ブログ記事に関しては単に妻と書いておこう。

結婚前の妻とはお互いの貴重な休みには
板橋区と練馬区を中心に東京都内のどこかでテニスをした。
主に他のテニス好きな仲間も誘ってのミックスダブルの草試合などが中心だ。
その頃に私が使っていた硬式テニス用のラケットは
プリンスの「マイケル・チャンのシグニチャーモデル」であった。
大柄である私には似合わないラケットだとも言われたが
野球でも福本豊や大石大二郎のように自分にはない機敏さをもつ選手のファンであったように
私は当時のテニス界ではマイケル・チャンが格上の選手とあたる試合がずば抜けて面白かった。
つまりはマイケル・チャンのファンであった。
ご承知の通り錦織圭選手は今年に入ってからランキングと実績をともなった大躍進をした。
元々から積み重ねてきたものの開花期でもあったのかもしれないけれども、
やはり専任コーチにマイケル・チャン氏を招聘したことがその躍進の大きなきっかけとなった
ことは間違いない。
マイケル・チャンのシグニチャーモデル以降はラケットを購入していない。

錦織圭の活躍によって新しくラケットを購入する人(やっぱりウォルソンが売れているらしい)
や、久しぶりに愛用ラケットのガットを張り替えるという人が急増しているそうだ。
私もガットを張り替えたくなったけれども、それがマイケル・チャンモデルであると
「渋い!」
と思ってくれる職人さんもいるかもしれないけれども
「いかにも錦織効果!」
とも思われるなぁと感じて難しいところだ。

さてさて、結婚してからだいぶ遠ざかったとはいえ、私がいいたいことは
「まずはテニスを通じての交流があった」
という一行のみが今まで書いたところでの要諦である。


妻は高校時代までバレーボールをやっていたこともあって、
女子としては肩の回転が良くてなかなかいいサーブとスマッシュを打っていたけれど、
その時にマリア・シャラポアは生まれてはいたもののウインブルドンをはじめとする
世界の桧舞台にはまだまだデビューをしていない。
もちろん、プレースタイルなどは真似のしようもない。

話はそこからいきなり10年経過して
2004年7月のテニスの全英オープン、ウインブルドン決勝戦で
17歳2ヶ月のマリア・シャラポアがセリーナ・ウィリアムズとの激戦を制して
見事な優勝を飾った時の話になる。
この草仏教ブログを始める数ヶ月前のことだ。

その歴史的な試合を二人の子ども(当時)が寝た後にともにテレビ観戦をしていた。
テニスは遠ざかっていたものの、やはり共通の楽しみとしてどこかで残っていた。
マリア・シャラポアは17歳の頃からショットの時に発する声はうるさかったけれど
ウインブルドンの芝生を白いテニスウェア(全英オープンは白基調のウェア着用が鉄則)で
躍動する姿に私も妻も
「美しい!」
「まるで妖精だ!」
「こんな美女系トップアスリートがいるのか!」
などの賞賛の声が思わず上がったものであった。

さてさて、その翌日の話。

私は自作パソコン(マザーボードの音源に真空管を搭載)であるWindowsのXPの
ディスクトップパソコンで何らかの作業をしていた時に、
(たぶん、こういうブログとかホームページではなくて仕事関係だった)
妻の本名のファーストネームを呼びながら
「なあ、何か飲みものをもって来てくれないか?」
と声をかけたけれども、返事がなかった。

妻は7歳年下であることもあって、長女が生まれるまでは亭主関白気味であった。
結婚したばかりの頃はダビスタ(ダービースタリオンという競走馬育成ゲーム)を
やっている最中であったとしても
「なあ、何か飲むものはないかな?」
と言うと
「コーヒーがいい?お茶がいい?」
というような返事が優しい声で返ってきたものであった。

新婚時代のダビスタ98の頃はそういう時代であったが、
子どもができて以降は自分の飲み物のリクエストどころかミルクを欲しがる子どもの
リクエストを叶えることに協力せねばならない立場となり、
子どもが複数となったダビスタ2004の頃になると
致し方ないことではあるが、私のそうしたリクエストには快く応えてもらえなくなった。

本名のファーストネームで呼んでも返事がなかった時に、ちょっとさびしかった。
「もう、自分でやってよ〜!」
という文句でもいいから、返事が欲しかった。

その時に、不意に
「おーい、シャラポア!シャラポア!お前のことだぞ!おーい、シャラポア、お茶!」
という声が出ていた。
今から考えるとシャラポアというのはファーストネームではなく苗字であり、
メチャクチャな話ではある。

するってえと、
「はーい!」
といういい声での返事が返ってきて、お茶が来た。
おそるべし、マリア・シャラポア効果。

その時のインパクトの強さをずっとひきずっており、
この草仏教ブログでは初出はいつかは定かではないものの、
かなりの初期から妻のことをシャラポア(妻・日本人)と表記し続けている。

それから10年、17歳のマリア・シャラポアは当然ながら27歳となった。
27歳であるのでもう「妖精」とは呼ばれないけれども、妖精的な美貌を保ち、
第一線級のトップ選手であり続けている。
亡くなられた高倉健さんが、私の生まれるずっと前から
ずっと第一線級の俳優であり続けていたこともすごいことで、
まったく分野も何もかもが違うことなので比較などしようもないことだけれども、
やはりすごいことだと思う。
私より年上の世代のなかにはおつれあいや恋人に、本名とはまったく違うのに
「なあ、俺のことを健さんと呼んでくれ」
という男性がいたとかいなかったとか。こりゃ、いたな。

最後になるけれども、マリア・シャラポアは
ロシアの西シベリアに位置するチュメニ州ハンティ・マンシ自治管区・ニャガン市に生まれ、
すでに7歳の時に父親とともに渡米してフロリダ州のニック・ボロテリー・テニスアカデミーに
入学している。
今回のブログ記事を書くためについでにマリア・シャラポアの歩みを確認させてもらって
衝撃を受けたけれども、マリア・シャラポアの両親が西シベリアに移住して生活するように
なったきっかけは、マリア・シャラポアが生まれる前年に起きたあのチェルノブイリ原発事故
からの避難がきっかけであった。

マーヒー加藤
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by kaneniwa | 2014-11-19 01:22 | 雑草
2014年 11月 17日

いつの間にかブログ歴10年以上になっていました

このエキサイトブログでブログを始めてから10年以上が経つ。
この秋にエキサイトブログ10周年というものをやっていたので、
私はエキサイトブログのなかのほぼ最古参ということになる。
先月末に中越大震災から丸10年だったということで
併せて記憶がつながった。

紙の日記は文字通りの「三日坊主」であったクセに、
途中で長期休養はあったにせよ10年以上もはじめることになった
最初のきっかけは中越地震だったのだ。
もともと今世紀に入って2001年9月11日の同時多発テロ事件まで
Blog(ブログ)という言葉自体を知っている人がまれであった記憶がある。

私なんかが今世紀に入ってからのネット史を一括りにしちゃうのは不遜だけれども、
人と人とのつながりが希薄であることがいろんなところで意識されたり問題になっていた
時代の空気のなかで、大都会そのものをあらわす比喩になっているといえるニューヨークの、
そのなかでの象徴ともいっていい貿易センタービルが崩れ落ちるという衝撃のなか
「何かでつながらなければ」という大衆的共同潜在意識というようなものが
このようにブログというものをあっという間に世界に広めたような気がしている。

10年前からのブログに書かれていることは、
地震そのものについてのことはほとんどなく
日常と、妄想と、たまにはお勉強したことなどをただ書いているだけだ。
震災そのもので当時のブログは今のSNSと比べたら直接的に役に立ったとは思えない。

たとえば震災直後に出入りをしていた県の国際交流協会で
「日系ブラジル人の被災者向けのラジオ放送のためのポルトガル語の通訳がいない」
という話になった時、
私は当時はマリンガという都市の駐在開教師をされていたT先生に国際電話をかけ
「新潟県内で日本語とポルトガル語の両方に堪能な方の名簿をFAX送信願います」
と依頼すると
「よし、わかった、ちょっと待て!」
という返事の後ですぐにあった連絡は名簿ではなくT先生のお願いを受けた
Mさんという県内在住の日系2世の方からの電話連絡で
「マリンガのT先生からのご依頼ですから、喜んで通訳のボランティアをいたします」
という言葉であったのだ。

このことをはじめとして、10年前は
「やっぱりネットでのつながりよりも、結局は直接のつながりと信頼関係だよなぁ」
ということを実感することが実に多かった。

それでも、10年以上、コツコツというよりはダラダラとではあるけれども
これを続けてきて良かったなぁとも実感をする。
「この人はブログがなかったら会えなかった人だよなぁ」
とジワジワと実感する人が何人も現れることとなり、
その人がまた新たに人を連れてきてくれるということが起こっている。

マーヒー加藤
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by kaneniwa | 2014-11-17 00:22 | 雑草
2014年 11月 15日

コッヘル253番 とん汁

b0061413_2346527.jpg 学生時代は知り合いがいる店に入ると「う〜寒い寒い、あっ、アイスコーヒーをひとつ下さい」などということがあった。ギャクとしてというか、ウケ狙いもあったけれども若さゆえの冷え知らずというのか、けっこう本気で晩秋や冬でもアイスコーヒーを好んでいた時代もあったのだ。今は、冷たいビールだけはこれだけは例外で年中好んでいるけれども、それ以外は「冷たい飲み物をゴクゴク」ということは非常に少なくなってきている。(ゴクゴクではなくてチビチビなら、例外はまだまだある) その代わり、温かいものへの感動というものが年々高まってきている。寒いなかを帰宅してとん汁があるという時の感激度も年々高まりを見せている。秋冬シーズンの食卓は温かいものということでいえば中華や洋食だって大概は温かいし、和食は鍋物をはじめ汁物はほとんど熱々である。カロリーという概念までを含めた総熱量のようなものはチーズフォンデュの方が熱い(なんせアルコールの沸点は水よりも高い)はずなのだが感覚的な温まり具合に関してはとん汁の右に出てくるものはいない。今、思いついたが「右に出るものはいない」というのはインドで左手よりも右手に優位性をもたせるところから来ているとか、右に優位性をもたせる中国(漢朝)の文化の影響であるとか学術的に語られているようだけれども、確か左大臣の方が右大臣よりも偉かったはずなので、これはきっと言い回しとしてはけっこう新しくて相撲の番付表とか歌舞伎や寄席などのエンターテイメントの演者表なり名札から来ているように思った。「左遷」という言葉も、たぶんこれとセットだな。 ともかく、右も左も分からないけれども「とん汁は温かい!」ということだけはわかる。特にうちの家族の場合はシャラポア(妻・日本人)と長女をはじめ生姜が大好きな者が揃っているので、生姜がたっぷりと入り内側からジワジワと温まる。

マーヒー加藤

コッヘルバックナンバー
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by kaneniwa | 2014-11-15 23:24 | 草外道
2014年 11月 13日

替え歌(2) 世界でひとつだけの肉(この身の好み)

肉屋の店先に並んだ  いろんな肉を見ていた  
ひとそれぞれ好みはあるけど  どれもみんな奇麗だね 
この中でどれが一番だなんて 争うこともしないで 
ケースの中 誇らしげに しゃんと胸肉をはっている 

それなのに僕ら人間は
どうしてこんなにも比べたがる
ナンバー・ワンにはなれないと
お得感が最優先

そうさ僕らは 東京湾に身投げなくていい
それぞれが奇跡のホールインワン

マーヒー加藤作
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by kaneniwa | 2014-11-13 20:19 | 草音
2014年 11月 11日

阿知波一道先生 11月30日ご登壇&ご出演

b0061413_14305198.jpg 11月30日の日曜日に、この草仏教ブログの主が住職を勤めている真宗大谷派善良寺にて報恩講(親鸞聖人ご命日の集い)の法要が厳修(ごんしゅう)され、法要の後のご法話の講師として北海道から阿知波一道(あちわ・いちどう)先生をお招きすることができました。お斎(とき)という伝統的な手作り報恩講料理の後、午後1時30分から2時30分終了予定でギターでの「弾き語り」の時間を本年度は予定させていただいております。さらに(現在チラシを鋭意作成中でありますが…)11月30日当日に善良寺から徒歩5分のところにある食彩酒房「ぼだいじゅ」(胎内市本町2-32熊野若宮神社鳥居正面)さんにて、午後5時から7時までの予定でアコーステックライブの実施が決まりました。ぼだいじゅさんでは特にチャージ料はありませんが、ドリンク&お食事をご注文ください。食彩酒房ぼだいじゅさんにはかつて楠木しんいち&宮本はつ菜さんもご出演されましたが、その楠木しんいちさん(from京都)が阿知波一道さんのファーストアルバム『器』のコーディネーターを務めておられます。阿知波先生と初めてお目にかかったのは京都ですが東本願寺ではなくその関係の寺院でも大学でもなく、一階と二階が焼き肉屋さんで三階がライブハウスという「いちなん」さんというお店です。抱腹絶倒の替え歌でお腹がよじれるほどに笑いつつ、気がついたらギターとブルースハープの魅力と、歌詞と歌声の力でお客さんたちがほとんど泣いていました。 先日も、いっしょに演奏したいというよりは「あの時の歌の歌詞が知りたいなぁ」ということでコード(和音)付きの歌詞をファクシミリで送信していただいた日に私も改めて感化して「寺中の輩」という替え歌を作ってある程度のウケはとれたけれども、この分野ひとつにしてもまだまだ阿知波先生の足元にも及ばないなぁ。

マーヒー加藤
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by kaneniwa | 2014-11-11 15:14 | 草音
2014年 11月 08日

草仏教掲示板(74) 寺田寅彦の言葉

b0061413_2331845.jpg 心の窓はできるだけたくさん そして広く開けておきたい とは物理学者寺田寅彦の言葉である。夏目漱石の教え子であったことや寅日子、牛頓(ニュートン)、藪柑子(やぶこうじ)などのペンネームで文章を書いていたこと、俳句などの短詩文学をされていたこともあって世に残った言葉も多い。いちばん有名なものは何といっても関東大震災の時期の「天災は忘れた頃にやってくる」という名句(フレーズ)であるが、こちらは文集などの記録には残っておらず、言行録の方に残っている言葉ではあるがちゃんと五七五になっている。ただし「天災」は季語ではないので俳句とはいえない。 冬になると締め切ることも多くなってくる窓であるが、まだ秋のうちの今はできるだけたくさん開けて風を取り込んでおきたいと思う。

マーヒー加藤(ブログ文)
日本人シャラポア(書)
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by kaneniwa | 2014-11-08 23:41 | 草仏教
2014年 11月 06日

コッヘル252番 おでんのジャガイモ(男爵いも新じゃがバージョン)

b0061413_1754112.jpg おでんの具の野菜部門のなかで思い浮かぶのはまず「大根」であるとして、それに異存のある人はほとんどいないと思う。大根がメニューにないおでん屋さんはまずないと思うし、コンビニのレジ前のおでんでも大根が完売してたまたま切らしているということはあったとしても、大根を置いていないというところはないと断言していい。さて、大根に次ぐ「2番手の野菜」ということになると、一番手の大根の時のような統一見解はなかなか出てこないような気がする。(ただし、こんにゃくは野菜には分類していない) ジャガイモをおでんに入れる入れないか?という問題については「入れる派」のシャラポア(妻・日本人)と「入れない派」の私とで、新婚時代に軽い意見の対立があった。まあ対立といっても可愛い方に入るか。 折衷案として小ぶりのタマネギを丸ごと何個か入れることでその問題は解消した。このたび、今金だんしゃくという男爵いものブランドを頂いたことで「すごく久しぶりにおでんにジャガイモを入れてみるか?」という意見を私の方から提唱し、シャラポアは想像以上に喜んだ。そして、私自身としても、おでん観もジャガイモ観も変わった。従来は「荷崩れしにくい」という定評があるためにおでんに限らずシチューなどで煮込む調理の時には男爵いもではなくてメークイーンを使ってきたのだが、この今金だんしゃくは和食としてのおでんの鍋のなかに違和感なく溶け込み、そして「ジャガイモ、お汁、ジャガイモ、お汁、ジャガイモ」という口に運ぶ順序がヘビーローテーションとなっていったのだ。

マーヒー加藤

コッヘルバックナンバー
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by kaneniwa | 2014-11-06 18:12 | 草外道