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2015年 09月 28日

コッヘル286番 ボンゴレ&長ひじき

b0061413_23185613.jpg スパゲッティでいちばん好きなのは、その時の気分にもよるけれどもボンゴレ(アサリなどの二枚貝)である。トマトソースを使うボンゴレ・ロッソ(赤)も好きであるけれども、ボンゴレ・ビアンコ(白)がまたいい。ボンゴレ・ビアンコには白ワインは飲み物としてもニンニクと共に下味としても不可欠といっていいぐらいものであるけれども、その味付けの白ワインを日本酒に替えて水で戻しておいた長ひじきをアサリとともに炒めてみた。そうなると最後にトッピングするのもバジルなどのイタリアンハーブではなくてミツバである。しかしこうやってみると炒めたアサリから出る天然ソースと塩との相性は、当たり前のようだがバッチリであって長ひじきのような素材も包括してくれる。これも当たり前といえば当たり前か。私としてはこういうボンゴレもしっくりくるのであるが、ボンゴレ・ビアンコとして白ワインを飲むか日本酒を飲むかの迷いが生じる。結果、ビールを飲むのであるから関係ないのだが。

マーヒー加藤

コッヘルバックナンバー
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by kaneniwa | 2015-09-28 23:35 | 草外道
2015年 09月 24日

草仏教掲示板(86) 映画監督小津安二郎の言葉

b0061413_23185929.jpg 映画というのは実は力のある脇役が主役なんだ というこの(写真の)小津安二郎監督の言葉を掲示板にはり出したのはつい4日前なのである。ちょうどイングランドで開催中のラグビーのワールドカップの日本vs南アフリカのゲームがあって日本代表が二転三転の末、さらには同点の時間帯もあってさらに四転して劣勢のままロスタイムという場面で五転しての劇的な勝利。その劇的具合はというと『ハリー・ポッター』の作者であるJ・K・ローリングさんが「こんなストーリーは書けない」とTwitterに記したぐらいだ。一試合の重みが違うワールドカップとはいえイングランド戦でもなくスコットランド戦でもない日本戦をテレビだったとしても展開をよく見ながら観戦していたことがよくわかる短文にJ・K・ローリングさんがラグビーファンであったということも何となく分かって嬉しくなるとともに、同じ監督でもエディー・ジョーンズ監督(ヘッドコーチ)ではなくて映画の方の小津安二郎監督の言葉が自分のなかでクローズアップされてきた。ラグビー日本代表の南アフリカ戦のダイジェストはニュースをはじめスコットランド戦までの間、何度も繰り返し流れたけれども結果が分かっているのに興奮してしまう。結果が分かっているのに感動できるということは、いい映画や舞台は何度見ても痛快に思えたり感情が動くということに似ているというか、脳や心の同じ部分でそれを味わっているということに違いない。 スポーツニュースでのリフレインで何度も名前を連呼される選手の得点シーンを作るために体を張った選手たちがいる。さらにネットで選手名鑑を見てみれば帯同しているチームドクターの髙澤祐治順天堂大学准教授は自ら順天堂大学時代にラグビー選手であることがわかったり、コンディショニングなどを担当するトレーナースタッフが何人もいたり、分析の専門家がいたり、通訳、広報、さらには新設された役割としてバゲッジマスター(遠征時の用具輸送と管理)までスタッフに居る。こういう脇役もまたいい仕事をしたのではないかなぁ。 

マーヒー加藤(書・ブログ本文)
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by kaneniwa | 2015-09-24 23:59 | 草仏教
2015年 09月 19日

安全保障関連法案

ナチが共産主義者を襲つたとき、自分はやや不安になつた。
けれども結局自分は共産主義者でなかつたので何もしなかつた。
それからナチは社会主義者を攻撃した。自分の不安はやや増大した。
けれども自分は依然として社会主義者ではなかつた。そこでやはり何もしなかつた。
それから学校が、新聞が、ユダヤ人が、というふうに次々と攻撃の手が加わり、
そのたびに自分の不安は増したが、なおも何事も行わなかつた。
さてそれからナチは教会を攻撃した。そうして自分はまさに教会の人間であつた。
そこで自分は何事かをした。しかしそのときにはすでに手遅れであつた。

反ナチ運動組織告白教会の指導者マルティン・ニーメラーの言葉に由来する詩(丸山眞男訳)



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by kaneniwa | 2015-09-19 23:53 | 草評
2015年 09月 16日

日産スタジアムで「地球の果てまで走る会」が始動

b0061413_12495211.jpg 「一昨日来やがれ!」と一昨日は日産スタジアム(横浜国際総合競技場)が私を呼んでいた。一昨日(9月14日)の午後5時から9時までは、めったにない「一般競技者への開放日」であるということを新横浜のWi-Fi付きの部屋に泊まっていて確認した。うまい具合に履き心地が極めていいので最近はどこに行くのにも自分の足に合ったランニングシューズを履いている。寝巻き代わりとしてTシャツに加えて短パンもある。これはめぐり合わせとして「来やがれ!」ということだろうなぁとスタジアムに向かって歩き出していた。新横浜駅前で「日産スタジアムまで1600メートル」という看板を見かけた。横浜アリーナはイーグルスのライブで足を運んだことがあったけれど日産スタジアムは初めてだったので巨大スタジアムは見えているものの土地鑑もなく道を間違えたようで複数の医療センターや病院の前などを通って遠回りをしつつ2キロ以上はグルグル歩いて取りあえずは日産スタジアムの敷地内へ。「柱番号277の奥の事務所で受付」とあったが日産の車にはAビラーとBピラー合わせて4本ほどしか柱がないというのに日産スタジアムにはいったい何本の柱が建っているのか?スタジアムに着いてからがけっこう歩いた気がする。 とにかく事務所にたどり着く。受付でまずは本名と住所を記載する。次に「団体名」という項目があった。前の記載者をチラッと見れば企業名や学校名や地域クラブや走友会の名が多く記されていた。「真宗大谷派」と書こうかなぁと思ったがその場で「地球の果てまで走る会」というのが浮かんでそのまま記載する。旅行家のシェルパ齋藤さんがテントをはる時に管理者事務所などで団体名を書かねばならぬ時に「地球のどこでもテントをはる会」と記載していることに習ったつもりだ。自分で陸上競技者と名乗れば誰でもそうだが定期的なジョギングさえも今はしていない私が国際大会も開催するフィールドのトラックを走っていいのだろうか?とも思ったが、1レーンから9レーンあるなかで2レーンと3レーンが「ジョギング用」と設定されていたのでちょっと安心した。私の場合はウォーミングアップを入念にしてそれだけで終わるのだが、そこをゆっくりと走りつつスタジアム内部を観察させてもらう。ゆっくり走るが途中で歩くという失態だけはしてはいけない。美しいフォームの女性ランナーが小学校低学年ぐらいの(たぶん)二人の息子さんたちを引き連れてジョギングをしている。何でもない光景のようでいてけっこう心に刻まれるいい絵だと思った。 テレビで見ていて日産スタジアムの芝はてっきり人工芝だと思っていたら「人工芝みたいに整えられた天然芝」だということに気がついた。すごい技術だ。新国立競技場に屋根はやはり要らないのではないかと思った。 数百円は使用料を払わねばと思っていたら無料だった。その後の夕食は、最初は贅沢するつもりだったが運動後の爽快な気分そのままで新横浜駅近くの立ち食いそばの「小諸そば」の系列の「そば茶屋 小諸」に入る。隣が丸亀製麺なので、この両店舗の前で蕎麦にするかうどんにするかでケンカして別れたカップルがいたとかいなかったとか。とにかく「小諸そば」のもりそばを注文すると310円であるという。そのクオリティの高さに「300円そこそこでこんなに満足していいんかい?スタジアム内部を走ることを楽しんで無料でいいんかい?」と思いつつ、どこからか自らを首肯せしめる川平慈英の「いいんです!」という声を聞いたような聞かなかったような。 これは正直な気持ちとして、インターネットで日産スタジアムが次に利用可能な日を調べて、次回はこのためだけに横浜を訪ねて新横浜に宿泊してもいいと思った。 とにかく私は「地球の果てまで走る会」というものを創設した。帰宅してシャラポア(妻・日本人)に「俺について来い!」と言うと、シャラポアは「ついて行くけど、あんたは何処に行くのか?」と言ったとか言わなかったとか。

マーヒー加藤
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by kaneniwa | 2015-09-16 14:19 | 草走
2015年 09月 11日

マイナンバーによる定率減税還付制度よりも台湾式宝くじ付きレシート(統一發票)の導入を望む

突然だが
「お得です、お得です」
と言われたものに喜びや幸せを感じた経験は、まずない。
むしろ、それに飛び付いた己への挫折感でいっぱいになることが多い。

大型ショッピングモールで複数の専門店をまわる人なら
必ずや似た経験をみんなしていると思うが
たとえばフードコートでたこ焼きと餃子と長崎ちゃんぽんを食べる場合でも、
その3店舗で「うちの店のポイントカードはお持ちですか?」と尋ねられると
何だか消費すること自体が面倒くさくなってくる。
そのうち食欲もなくなる。
しかもそのフードコートの食事の後にTOWER RECORDでCDを買い、
本屋で本を買い、サンダルを買ってジーンズを買って台所用品を買って帰るまでに
「あと何度それを聞かれるのか?」
と、買い物という本来はウキウキとワクワクが伴うはずの行為が、楽しくない。


「お得」のためには、それぐらい(何枚ものカード類を持ち歩く)
は我慢しなくてはいけないと言われそうだが
私は人間の「面倒くささに対する感覚」をなめてはいけないと思う。
先日も、椅子を10脚ほど寺の本堂に運ばねばならない機会に、
普通なら2脚づつ5回の往復で運ぶべきところを
「めんどくさいパワー」が沸き起こってきて2往復で運んだ。
自分にそんなめんどくさいパワーが秘められていることに驚いた。
人間て、そんなものではないか。

しかもショッピングや外食というのは念仏と同じく
「ふと思いがけずに沸き起こった気持ち」
というものが運んできてくれる縁を喜べるところに感動というものがある。
予定していて、その予定どおりにことが運んだら
「ああ、それは良かったですね」止まりで、感動までは行かない。

実際にポイントカードを導入してから行かなくなった外食店がある。
それまでたまに試作品を一品付けてくれたり、
宴会などの時に席の便宜をはかってくれていたことが充分に感動のサービスだったのだが、
私は感動するものに出会うために生きているとはいえても
ポイントを稼ぐために生きているわけではないので、何だか自然と行かなくなってしまった。

むしろ外食などはクレジットカードもポイントカードもないところが
「効率よく原材料の良さに重きを置いた画期的な在り方」
と思うようになった。
覚えがめでたく財布を忘れてもツケがきく関係などになれば、
これはゴールドカードやブラックカードを所有している以上のステイタスだ。

「よし、クレジットカードから電子マネー、ひいてはすべての店舗のポイントを統一しよう!」
などという戦国大名のような政治家が現れたとしても、それは難しすぎる。
航空会社のクレジットカードが買い物のポイントを
「マイルに換算する」
というのは距離感でもって訴えてくる優れたアイデアであったが、
全国統一などまず無理だ。

マイナンバー制度の導入で脱税の防止に役立つことはいいとして
「上限を4000円として定率減税は消費の後の還付とする、
面倒くさいだろうけれど、食料品と外食はマイナンバーカードを持ってね。」
というのは、めんどくさいパワーが沸き起こってくると同時に
「そんな運転免許証や保険証ぐらい大事なカードを日常の買い物で持ち歩いてどうする?」
という感触をもつ。

しかし、代案も出さずに批判ばかりはいけないので
私は内閣や財務省をはじめ税金を聴取しなければならない方の立場も考慮して、
プランを建てたい。

(1) そもそも国産の食料品とその素材を使っての国産加工品は無税とする。
    理由は国産の食料品がなければそもそもこの国は成り立たなくなるし、
    国民の生命と財産も維持できなくなる。
    それに、後から税金で生産者に細かい補助を出したりするよりも
    「そもそも無税」というシンプルさでその産業を後押しするのが
    めんどくさくなくていい。
    寿司屋さんなどで「米は国産だがネタの魚は外国産」などという場合は
    どうしたらいいか?という場合、困っちゃうと思うけれども、
    ここはひとつ「全体で純国産であること」と限定しておきたい。

(2) 台湾ですでに導入されている「統一發票」という宝くじ付きのレシートを
    日本でも導入して普及させ、消費することへの感動を復活させて
    細々したポイント計算によって萎縮している景気を活性化させる。
    無論、その活性化によって配当金を差し引いても余分に得られた利益は
    消費税導入の本来の目的であった高齢化社会を支えるための公共福祉を中心に
    使うこととする。

(2)の方について、宝くじ付きであることで台湾の場合は2ヶ月に1回の
   一等4000万円(1000万台湾元)を中心とした当選番号の発表まで
   保存しておくということがめんどくさいといえばめんどくさいが、
   「お得感」なんか超えちゃうぐらいの「夢」があれば全然めんどうくさくない。

これによって「オンラインによって営業主がレシートを発券する」ということになり、
財務省としては脱税の防止という目的は達成できる。
実際に台湾でもそれを目的として「統一發票」の制度を導入して成功しているようだ。


カード自体を持つことの喜びは、アウドドアメーカーの
チタン素材でできたカードを持った時を最後にもうないなぁ。
しかしこのカードも、飛行機に乗る時は凶器にもなる危険なものと判断されて
取り上げられてはかなわないので持ち歩けない。



マーヒー加藤



   

    
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by kaneniwa | 2015-09-11 00:10 | 草評
2015年 09月 09日

草仏教掲示板(85) ココ・シャネルの言葉と『阿弥陀経』

b0061413_0274143.jpg 『阿弥陀経』という経典は毎日のように読誦していて、おそらくこの30年間に一日平均3回は読誦しているだろうから、3万回以上読んでいることになる。(計算は合っているかな?)それなのに経典の内容の方は今ひとつ頭に入っていない。浄土三部経のひとつとして親鸞聖人も重きをおいていた経典のはずなのに『教行信証』などの著作での言及がとても少ない。『阿弥陀経』を説かれる釈尊は何度も「舎利弗よ」と、舎利弗(しゃりほつ・Śāriputra ・シャーリプトラ)という仏弟子の名を何度も呼びつつ教えを説かれるのだが、この経典のなかでは舎利弗の応答がない。能弁な舎利弗をも完璧に黙らせる内容であるという解釈を聞いたこともあるのだが、読誦していて「舎利弗、ちょっとは応答せよ!」というような気持ちになってきてストレスというほどではないけれども、昔から何だかモヤモヤする。それでも昔から「青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光」という箇所が好きだ。漢文訳でラップ調の力強い韻をふんでいることもあって、同じ光に照らされても青いものは青く輝き、黄色いものは黄色く輝く。たとえば最近では「花はそれぞれ嫉妬しあっていない」 という言葉を掲載させてもらったが、この「青色青光 黄色黄光」を思わせてくれる言葉にはとても惹かれる。そう思っていたら、ココ・シャネルという人が「世界で一番美しい色は自分に似合う色」という至言を残していた。「ココ・シャネルというのは、あのシャネラーのシャネルなのか?」とシャラポア(妻・日本人)に問えば、いかにもそのシャネルさんらしい。 それからこれは余談となるけれどお笑いのドランクドラゴンの塚地武雅は「共感覚」(シナスタジア、synesthesia)というものを持っているらしい。これは塚地が「人を見るとその人に応じた色が頭に浮かぶ」ということで、東京大学の大学院人文社会系研究科の工学博士・横澤一彦教授が検査してみると、塚地は人や言葉(文字)に色をイメージして認識する「共感覚の持ち主だった」ということらしい。これは超能力というよりは主観的な知覚現象 (クオリア) として本人が生々しく感じるということなので「だからどうした?」とツッコめばそれまでだが、共感覚の持ち主と言われる人には不思議なことに絵画のアーティストよりも音楽家や文学者がずらりと並ぶ。たとえばバイオリニストのイツァーク・パールマンは「G線でBフラットを弾くときは深緑色、E線でAを弾くときは赤を感じる」などと言っているが、私は共感覚を持っていないので「白鍵は白で黒鍵は黒」ぐらいの認識しかない。あっ、でもブルー・ノート(JAZZやブルース特有の音階)なんていうのもあるなぁ。あっ、「黄色い歓声」なんていう表現も昔からあるなぁ。余談も長くなってしまったけれど「私は何色なんでしょう?」と、塚地武雅に聞いてみたい気がする。 自分自身の色もわからないし、自分に似合う色が何なのかも自分自身ではよくわからないなぁ。とりあえず実感するのは、自分で選んだ服を着ている時よりもシャラポアや高校生の長女が選んだ服を着ている時の方が「似合う」と言われる確率が高いということ。

ブログ文章・書 マーヒー加藤
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by kaneniwa | 2015-09-09 08:25 | 草仏教
2015年 09月 04日

コッヘル285番 釣れたて鯵(アジ)の押し寿司

b0061413_2328756.jpg 10日以上前の話にはなるけれども、中学2年生の息子の友達のお父さんが「鯵(アジ)が釣れ過ぎちゃったので貰っていただけませんか」と、けっこう大きな鯵をちょうど10尾おすそ分けしてくれた。こんないいものをいただくのに「いただけませんか」などと言われては恐縮してしまう。ただし自分で魚屋さんから購入する場合はこの大きさ(けっこう大きなサイズ)ならまず5尾までだろうなぁとは思った。その倍の分量をいただいたわけだ。いったいどれくらい釣れたのだろうか?小さなサイズの豆鯵であればけっこう迷わずに上げて南蛮漬けにするのだが刺身、タタキ、なめろう、塩焼…あるいはそれらを折衷にするか?と、色々と迷ったのだけれども以前に鯖(サバ)の押し寿司をこれでもか、という分量を作ったけれども息子を中心に家族中の大好物なので夕食だけでキレイになくなったことを思い出した。色んな種類を作って鯵尽くしというのもいいけれども調理は大変になるので、鯵の押し寿司でいくことにした。

b0061413_23282328.jpg 鯵を三枚におろさなければならない。三条市製の鯵切り専門の鯵包丁というのもかつては愛用していたし、同じ三条市のアウトドアメーカーのsnowpeakがかつて作っていた釣った魚をその場で捌くための小形ナイフも持っているのだが、ともに倉庫の奥に仕舞いこんでいる。したがって最近は普段に使っている新潟県三条市のライバルである岐阜県の関市のメーカーがドイツのヘンケルと共同開発した万能包丁で10尾をおろしていくことにした。やはり鯵切り専用包丁のようにはいかないけれど、偉そうに言えば鯵という魚はまだ捌くのが楽な方ではないかと思う。写真のまな板の上、左側のステンレスボウルに酢を入れておろしてから小骨を取った鯵の身を漬け込んでいく。写真のまな板の上、右側のボウル型チタンコッヘルには小骨を取るのが面倒くさい部分や骨の間の身などをみじん切りにして酢ではなくて白だしに漬け込んで、いわゆるヅケの状態にしておいて翌日の鯵茶漬けの主材料となっていった。

b0061413_23284497.jpg というわけで、なぜか三種類も持っている押し寿司や箱寿司を作るための木箱に詰めて押して、食卓に鯵の押し寿司がずらっと並んだ。写真は一部分というか、これで半分ぐらい。食卓には他にシャラポア(妻・日本人)が作ってくれた煮物なども置かれているが、なかなか食べ応えがある分量の鯵の押し寿司が並べられた。押し寿司のために酢で締めてあっても、やはり一度も冷凍していない新鮮さというものは一口ごとに伝わってきた。鯖の押し寿司と同様に青魚特有の「頼もしい味」という感覚もあった。それでも鯖とはまた違った歯ごたえ(やや柔らかい)と風味であった。翌朝の朝食分ぐらいが残ったけれども好評であった。後日、鯵を釣ったお父さんの息子さん、つまりは私の息子の友達が遊びに来た時に「君の家では鯵をどうやって食べた?」と聞くと「カルパッチョにしてもらいました」と答えた。なるほどイタリアンは思い浮かばなかった。ただ洋風と和風の違いはあるけれども、この鯵を貰った日の暑さを考えると「酸味がある鯵で体が喜ぶ感じ」ということはどうも共通していたようだった。


マーヒー加藤

コッヘルバックナンバー
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by kaneniwa | 2015-09-04 23:06 | 草外道
2015年 09月 02日

オリジナルってなんだっけ?

オリジナルっていったい何だろう?
という根本的な問題がある。
いろんなアートがあるなかで世界最小の短詩系文学である
「俳句」とか「川柳」のような、音にすればわずか17音の文芸がある。
しかも俳句の方には季語が必ず入ることになり、
川柳の方も季語はなくてもその時代や時期の旬(時事用語、流行語など)はある。
しかも両方ともに句会や大会や新聞や雑誌の公募などで「テーマ」が設定されることもある。
そうすると似た発想の作品はもちろん、まったく同一の作品というのもあるのではないか?
それは実際に時々あることのようだ。
新聞などでは
「同一の作品がある場合は先に到着した方を優先」
と選者などが明記する場合があるから、実際にそういうケースもあるのだろう。
また、すでに世に出ている作品と一字一句違わぬ同一作品を掲載してしまった場合は
俳句などでは「選者の勉強不足」という扱いとなる伝統があるようだ。
しかし、実際に大賞とか特選とか秀逸の称号を与えられる作品は
この17音の限定世界のなかで
「こんな世界があったのか」「何で今まで気がつかなかったのか」
「どうやったらこんな発想ができるのか」
というような驚きを感じるものが必ず選ばれてくるような気がしている。
オリジナリティとは何か?定義は難しすぎるけれども、
そこには大なり小なり、驚きのようなものが備わって成り立つ気がする。
Wonder(不思議)がWonderful(スンバラシイ)となるような感じ。

音楽の世界も似ている。
普通の人が無理をせずに歌唱可能な音域は「個人差あるけど1オクターブ半程度」とすれば
1オクターブが黒鍵を含めて12音であるから、この17音に近い。
そのなかで最初の音からの流れはある程度人の耳に心地よい組み合わせのようなものは
けっこう限定的であるような気もしているし、ジャンルによって形式や定石もしっかりある。
そのなかで○○風というのではなくて
「こんな世界があったのか」
などと感じてもらう音楽の創作にプロのミュージシャンは日々勤しんでいるのであろう。


ちょうどパソコン画面上でのGoogleのマークが変更された。
Googleであれば様々なOSのコンピュータから、あるいは端末から操作される
ものであるし
「小さな端末からもしっかりとGoogleであることが認識される」
ということを主眼としてデザインされたようだ。

Googleであれば当然「G」の文字がモチーフとなり、
親しまれてきた赤、黄、青、緑と白という配色を使うこととなる。
したがって
「スマートフォン上でもわかりやすいように変わったなぁ」
というだけの感想しかありえない。
たとえ素人の私がGoogleという大きなグループから依頼されたとして、
(そういうことはありえないとしても…)
素人なりに真面目であればあるほどにおそらく似たデザインを提出するだろう。

東京オリンピックで、TOKYOの「T」の文字をモチーフとしてデザインする限りは
どこかのロゴやシンボルやエンブレムや商標で似たものはあると考えていた。
ベルギーの美術館のロゴと似ているとはいっても、
東京オリンピックと間違えてベルギーの美術館に駆けつける人はいないと思うし
そんな大きな問題にはならないと思っていた。

その後、いろいろな過去作品についての指摘が相次いで、
サントリーの景品のトートバックのデザイン盗用と
羽田空港とフランスパンの写真の個人ブログ写真からの無断拝借が
明らかになって、
これは羽田空港やフランスパンの写真を撮ってくる自身の意欲や撮影スタッフもいないという、
そういうことになっちゃうので、やはりプロとしてお粗末であるなぁと感じた。
(それにしても最初に指摘した人はよく見つけたなぁ)

ただひとつ思うのは、これは佐野研二郎氏を擁護するわけではないけれども、
オリンピックのエンブレム問題としてばかりマスコミでも取り上げられていて
「パラリンピックのエンブレムデザインもセットである」
という視点が最初からどうも弱い気がしている。

パラリンピックのエンブレムの方もデザインは同じで配色が異なるために
違うデザインに見えてくるというものであるけれども、
これがもしも隙間なくオリンピックとパラリンピックのエンブレムを並べて
両方を併せたもので一つのデザインであることを強調しつつ
「これがまさしくオリンピックとパラリンピックが両輪となったエンブレムでございござい」
とプレゼンテーションをしていたならば、結果は違っていたようにも思える。


マーヒー加藤
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by kaneniwa | 2015-09-02 16:57 | 草評