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2009年 07月 21日

南無阿弥陀仏とアメイジング・グレイス(10) 試訳編(3) once

Amazing grace how sweet the sound
That saved a wretch like me.
I once was lost but now am found,
Was blind but now I see.

試訳の完成系を出すまでの最後のキーワードとして once をとりあげたい。
once って now に対して、いったいいつの話なんだ?
ということである。




now という時を、作詞者のジョン・ニュートンがこの 「アメイジング・グレイス」 を
書き上げた時と限定してみたい。

それに対する once については 「非神話化」 と逆の作用をもつ 「神話化」 が
はたらいている。

つまり、これまで多く参照してきた 「アメイジング・グレイス」 という歌についての
資料が

ジョン・ニュートンは奴隷船の船長をしていた時に嵐に遭い、
遭難しかけたところ奇跡的に生還し、牧師に転職して
「アメイジング・グレイス」 の詩を書いた


というようになっている。
これは、全部が間違っているというわけではないし、
その漂流体験がジョン・ニュートンという人にとって非常に大きな、
欠かせざる出来事であったことであったことは間違いないが、
この上の青字のような認識は 「神話化」 されている。
もっとも私も1年前までその認識だった。

事実として、死の危機を感じつつ漂流したグレイ・ハウンド号(Greyhound)は、
奴隷船ではなく普通の商船であった。

そして、事実として、そこから奇跡的に生還した後に乗り込み
一等航海士から船長となったブラウンロー号(the Brownlow)こそ
奴隷貿易船であり、その後に船長を勤めたアーガイル号(The Duke of Argyll)もまた、
奴隷貿易船であった。

つまり、グレイ・ハウンド号で奇跡的に生還を果たしたからジョン・ニュートンは
キリスト教に帰依したというのではなく、キリスト教に帰依したからこそそれまでの
歩み全体が懺悔(ざんげ)すべきものになったのだ。

やはり、信仰が奇跡を呼ぶのであって、奇跡が信仰を呼ぶのではないと思う。
どのような奇跡も 「懺悔しそうもない人間が懺悔をした」 という奇跡の前には
かすんでしまう気がするのだ。

ジョン・ニュートンは、ほとんど死を覚悟したに違いないグレイ・ハウンド号からの
生還も奇跡であろうが、福音伝道家であり英国教会の執事であった
ジョージ・ホイットフィールド(George Whitefield 1714-1770)との出会いこそ
奇跡であったと言うような気がするのだ。
その教えにより、自分のような者を救う存在があるという奇跡にたどりついたのだと
考える。

したがって、あえて限定的に書けば、once という時は
グレイ・ハウンド号で嵐に遭う前までの時をあらわすのではなく、
ジョージ・ホイットフィールドに会う前の時を示しているのだろう。

非常に長い連載となったが、
南無阿弥陀仏 というお念仏には懺悔と感謝の両方が溶け合ってこもっている。
懺悔の文字を仏教では 「さんげ」 と読むのであるが、
(というよりも翻訳の際に読み方を変えなければ仏教色が強すぎると考えたのだろう)
五体を投地するほどの深い回心懺悔(えしんさんげ)と、
その回心懺悔するものを救おうという阿弥陀仏への報恩謝徳(ほうおんしゃとく)
の心が込められてきた言葉が南無阿弥陀仏である。

もう少し素朴な言葉で言えば、南無阿弥陀仏は
「ごめんなさい」 と 「ありがとう」 がこもって溶け合った言葉である。

そして、私は 「アメイジング・グレイス」 ほど、
「ごめんなさい」 と 「ありがとう」 が溶け合った歌を他に知らないのだ。

次回、いくつかのブログ記事をはさんで、 試訳編のみならず、
「アメイジング・グレイス」 の1番の歌詞の訳文を出そうと思っているが、
親鸞聖人の 『和讃』  (わさん) の形式によって日本語訳を書こうと思っている。
その形式によって書けば、声明(しょうみょう)として勤行をすることもできる。

私ひとりぐらいしかそれを声明の形式でよむ者はいないだろうが、
その訳を完成することができれば、声明という方法よって、南無阿弥陀仏の響きと
ともに、「アメイジング・グレイス」 にこめられた懺悔と感謝の心を味わうことが
できるのだ。

マーヒー加藤

by kaneniwa | 2009-07-21 23:55 | 草仏教


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