2011年 12月 09日
お亡くなりになられた坂東性純先生とは面識があった。まず学生時代に単位をいただいた。坂東先生には「どんなヘボ答案を書いても、どんな珍妙で幼稚なレポートを書いても絶対に単位をくださる摂取不捨(せっしゅふしゃ)の仏である」という噂があったからだ。それで単位登録をしてろくに授業に出ず単位をいただいたのだが、なんせそんなものだから坂東先生の実際のお顔を拝見することは単位をいただいてからずっと後のことになった。 ところがその後、ご縁はめぐりめぐって東京大学仏教青年会会館ホール(文京区本郷三丁目 三菱UFJニコス本郷ビル)での「親鸞聖人の和讃を読む」という坂東先生の講座の助手をこのマーヒー加藤が6年間つとめていたことがある。 その坂東先生がお亡くなりになり、 今、新たに吟味しているのがこの言葉である。 今年の『BE-PAL』(アウトドア雑誌)9月号は「お遍路さん特集」であり、 もっとも伝統のあるロング・トレッキングとしてお遍路を見直してみる というような企画であった。 その旅の行程のすべてに弘法大師(空海)と共にあるという意味での 「同行二人」(どうぎょうににん) というお遍路の旗印に、 一人居て喜ばは二人と思うべし、 二人居て喜ばは三人と思うべし、 その一人は親鸞なり (親鸞聖人『御臨末の書』) という言葉も連想しつつ ふと雑誌の表題の 『BE-PAL』 という文字に目をやると、 これはなかなか意味深だなぁと思った。 PAL(パル) という言葉は仲間、友、相棒をさす言葉であるが、 BE という動詞が前に置かれていることによって、 まさに動的な用(はたら)きを感じることができる。 久々に難しいことを考えて自らの思考回路がショートしそうだが、 たとえば「命」という言葉を名詞でつきつけられても、 現代社会の「命」に関する諸問題が多すぎて多岐にわたりすぎて、 はたらきのようなものにつながりにくい。 それが「帰命(南無)」という動詞となった時に、 ちょっと違う。 本当はちょっとではなくて、かなり違うはずなのだが、 今の私には「とにかく違う」とだけしか言えない。 阿弥陀仏が名詞ではなくて動詞であるとはどういうことか? なかなか草仏教流にはいかないが、 時に「光」とか「光明」に喩えられる阿弥陀仏は、 「光」という名詞に比喩がたくされることよりも、 「照らす」というはたらきが託される「何か」に、 より重きが置かれるということか…みたいな マーヒー加藤
by kaneniwa
| 2011-12-09 23:13
| 草仏教
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