2012年 09月 13日
京都市の荒神口にかつてあった「しあんくれーる」というお店について教えて欲しいというご依頼があった。その目的がちょっと面白くて、演劇に関わっておられる方が課題で「昔、京都にあって今はなくなったもの」をテーマに発表をするのだという。何だか積極的に協力したくなった。「野球チームの監督と映画の監督こそが男のロマンの究極」であると言われることがある。野球の監督の方の夢は、プロチームというわけにはいかず草野球であるが、正監督に用事がある時の臨時ながら何度かその夢は叶えた。しかも村山実氏ぐらいしか言えなかった「リリーフ、俺!」というセリフや野村克也氏か古田敦也氏ぐらいしか言えなかった「代打、俺!」なんていうセリフを審判に告げることができた。同じく、劇場映画というわけにはいかないが30分ぐらいの映像を編集してYouTube投稿を2分30秒づつ分割して投稿し、それを貼り付ける形での「ブログ上映」ということなら夢であっても夢ではない。もしかしたら、草野球と同じノリではあるけれども「俺は野球チームの監督もやったし映画監督もやった」と近い将来なのか遠い未来なのかはわからないけれども、やがて言えるようになるかもしれない。 『大洗にも星はふるなり』という、回想シーンを除いてほとんどが舞台を真冬の海の家のなかに設定した映画を見て、それは低予算で作成された映画であるということもあるが、そんな夢もどこかで持つようになった。そして「舞台設定」ということに小さな関心を向けることになった。たとえばストーリーの骨子を古典落語から拝借するとして、江戸時代の長屋を再現することは予算的に非常に困難であっても「舞台をキャンプ場のテントのなかに置き換え、ご隠居役と与太郎役とそのおかみさん役をそろえたら、そんななんちゃって映画が撮れるのではないか?」なーんてことも実は密かに考えていたのだ。(今年の夏に4〜5人にそのプランを打ち明けたことがある)そんななか、演劇に携わっている方から「昔、京都にあって今はなくなったもの」について関心を持たれ、もしかしたら舞台設定というものについて私が知っていることがお役に立てるかもしれない。これも巡りあわせだと思った。先方は発表や稽古のスケジュールの関係でお急ぎになっているようだ。なので私も急いで記憶から取り出したものを急いでここに記していく。記憶違いというものがあれば昔の常連客さんなどでもしこれを読まれている方がいれば遠慮なくご指摘いただきたい。それから写真掲載の順序を間違ったが、これは1階のクラシック喫茶しあんくれーるのマッチである。2階建てで、ジャズ喫茶しあんくれーるは2階だった。外見は、今でも居酒屋の「ん」の外装がレンガ色であると思うが、何か申し合わせがあったのか、荒神口交差点付近のお店はレンガ色が並んでいた。 しあんくれーるの店内。 カウンターはあるが、カウンター席というものはない。キャパは最大で30人しか入らなかった。立命館大学が近くにあった頃は盛況だったらしいが、祇園祭や五山の送り火などのイベントがあって人通りが多い時以外はまず満席になることなどなかった。カウンターの前に60センチ×45センチほどの木製の机が4つくっつけられ、周囲に椅子が置かれて8人ぐらいが囲める「シマ」が形成されていたが、あとは鴨川側の壁の方に横並びで座れる備え付け長椅子が設置されていた。ただし、しあんくれーるに来るお客さんの7割ぐらいが「一人」であり、団体はもちろん、カップルが来るということさえ珍しかった。河原町通り側の窓(常にブラインドは降ろされ、ドライフラワーが飾られており、いつも店内はとても暗かった)の下には大きなホーンを付けた改造JBLの巨大スピーカー(その形状からアルテックの劇場用スピーカーだとよく勘違いされていた)が鎮座していた。それを操るのが黒いマッキントッシュ(パソコンのマッキントッシュとは綴りも違い別会社)のプリアンプ。(パワーアンプもマッキントッシュだった)管球式ではなくトランジスタ。ガーランドのアナログプレイヤーの上にレコード盤を乗せ、その大出力アンプを時計の短針でいえば10時から12時の間で再生する。そうするとほとんどの音が「生演奏の音よりも大きい」という異様な世界に入っていった。それを長時間耳にしていると、どうも異様を通り越す世界に入っていった。 書きながら思い出した。「店内に公衆電話ボックス」があった。アメリカンモダンな木枠が入った透明な電話ボックスである。それはまさに公衆電話がボックスごと店のなかにあると同時に、それがしあんくれーるの電話であり、お客さんが道を尋ねてくる他に経営者などからもたびたび電話がかかってきてボックスのドアを開けて電話に出るのである。ピアノ・トリオぐらいなら電話がかかってきたことがわかるのだが、ホーン・セクションの大音響が改造JBLから流れている時などは、なかなか電話が鳴っていること自体がわからなった。それぐらいの大音響。5000枚以上のレコード(LP)はボーカルものだけは鴨川側の、経営者とマイルス・ディビスがツーショットで写っている壁の棚に入っており、あとは巨大な棚に整理されていた。書きながら思い出したが「ボーカルものは昼間はかけない」というお店のルールがあった。その影響で、今でもジャズ・ボーカルを耳にすると「夜だなぁ」と感じるぐらいだ。巨大な棚の材質は木で、「使い込んだカリモク製」みたいな質感だった。5000枚以上のレコードがどのように整理されていたかというと、オリベッティのタイプライターで打たれた演奏家のアルファベット順に整理された非常に分厚いファイルが12冊以上あった。お客さんのリクエストには「定番」や「法則性」のようなものがあったので慣れたが、有名なジャズ演奏者の名演アルバムでも、必ずしもそのアルバムでリーダーを努めているわけではなく、正直、慣れるまでは大変だった。 メニューの主流はコーヒー。keycoffeeのオリジナルブレンド。これをペーパーフィルターでホーローのポットに落としておき、注文分をティーカップで測ってホーローの手つき鍋に入れ、カウンター内のガスコンロで温めて出すという、喫茶店としては乱暴なホットコーヒーの出し方。しかし、濃い目ではあった。そのコーヒーを「美味しい」というお客さんが、当時は信じられなかったが、今では「味があった」と言える。少なくともあの空間の異様さと呼応していたのだ。時々、このやり方でkeycoffeeのオリジナルブレンドを飲んでみれば、ちょっとあの大音量の異様な空間を懐かしく思い出せたりする。私が居た1982年〜85年あたりは、ホットコーヒー1杯が360円から380円の時代だったと思う。ただ、お店には大音量のジャズが流れている。話などをすることは隣の人とも容易ではないぐらいだ。コーヒー、紅茶、ココア、すべて「こ」の音から始まるから、注文をよく聞き違えた。そのうち自然と読唇術というか、唇の動きをよく確認するようにして間違いは少なくなった。いちばんの聞き間違いは「ジャム・セッションをたのむよ」(レコードのリクエスト)と言われてジャムトーストを作っちゃったことだろうか。結構な分量のバンホーテンココアを少しづつ熱した牛乳を入れて丁寧に溶いて砂糖を投入し、それを氷を山盛りにしたグラスに一気に注いでかき混ぜ、その上からフェレッシュミルクを渦巻状に注ぐアイスココアは、今でも時々作っていて、これは家族にも好評。それからシナモントーストも作った。その他、サンドイッチやカレーというメニューもあったが、この二つは、カウンターの内側に一階との「秘密のハシゴ通路」があり、注文が入った時には一階から手渡ししてもらっていた。 しあんくれーるはお酒も出した。キリンビールの小瓶。そしてウイスキーはサントリーのホワイトと角。ロック、ストレート(リクエストにこじつけてストレート・ノー・チェイサーと言う客がいた)、水割りの他、ハイボール、それからこれは時代を感じるけどコーク・ハイがメニューにあった。夜になるとカウンター内のスイッチを入れて店の外の大きな電飾に明かりをともした。これは電飾看板の縁取りが緑で平仮名で「しあんくれーる」の文字。河原町通りを走っていていい目印になっていたと思うし、今でも荒神口周辺の方々のなかには小さな店としては大きなこの電飾看板を覚えている方も少なくないと思う。それは私が学生生活を終え、しかしながら時々仕事などで京都を訪れた時に目にして「まだあるな」と思っていたが、いつの間にかその灯りは消え、しばらくあった店の跡もやがて駐車場となり、そしてまたそこには別な建物があった。閉店の経緯はよくわからないが、ジャズの文化そのものが、たとえばバブル期(ただ、私自身は日本がバブル期と言われた頃は外国に居たのだが)には生演奏があるライブハウスや、ジャズがBGMとして使われるデートに最適な小洒落たお店は随分ともてはやされたように思うが、文庫本を片手に独りでやってきてコーヒー一杯で長時間そこに居て、文庫本に読み疲れると目を閉じて大音量のなかで不思議な瞑想をしているような客が主流のジャズ喫茶は、文化の主流からどんどん外れていっていることだけは予感していた。 しあんくれーるというお店は1956年、私が生まれる7年前からそこにあった。オーナー(女性・故人)のお父さんは有名な数学者、数学教育者であり、数研(学習参考書出版社)の「チャート式」というものの創始者であった。その印税がしあんくれーる創設の資金にもなったのかなぁという穿った見方よりも、今思えば、女性オーナーが改造JBLをはじめ当時の最先端オーディオを導入していたことといい、アルバイト学生が打っていたり訂正していったりということはあったにしろタイプライターというものを使って非常にデジタル的に5000枚以上のレコードコレクションを整理していた手法といい、何だかアルバイトに入っていた当時は気がつかなかったが、亡くなられた女性オーナーの理系的センスをしみじみと感じることができる。ただ、それは経営の数字合わせにはあまりつながらず、1980年代は夜11時頃の閉店時間近くに伝票を整理しながら「きょうも思ったほど客が来なかったのね」とため息をついていたのであった。夜のしあんくれーるでは「ニューヨークのため息」と言われたヘレン・メリルのボーカルと、オーナーのため息とがクロスオーバーする。 私がしあんくれーるでバイトしていた1982年はフュージョン全盛期で、当時からジャズ喫茶の存在自体が自然とレトロなものになりつつあった。客も「たまには忙しい時がある」という感じで、まばらだった。ただ、レコード会社などから見本盤が郵送されて来て、特にCBS音源のマイルス・ディビスやウェザーリポートの新譜は日本でももっとも早く耳にできるという役得もあった。 お客さんについて書くとキリがないなぁ。今回は二つのエピソードだけ。一人は『スイングジャーナル(Swing Journal)』誌の執筆陣であったK氏。月に1回、しあんくれーるでレコードコンサートとカルトクイズを合わせたような集いをされていた。そのクイズに正解すると『スイングジャーナル』の最新号他の景品をもらえるのだが、そのマニアックなジャズクイズに正解して景品を勝ち取っていく人が毎回同じ人。その月に1回の集いの時以外には、店内でそのお客さんの姿を見かけたことはあんまりなく、何だか「オタクの独り占めだなぁ」と思っていた。 それから、近くの京都府立医大病院から抜けだしてジャズを聴きに来ていた強者のお客さんが居た。なぜ分かったかというと、パジャマに「京都府立医大」と印字されたスリッパを履いて来ていた。実に美味そうにコーヒーを飲み、どんなジャンルのジャズであろうと実に楽しそうに腕を組みつつ目を閉じて聞き入っていた。1ヶ月ぐらいしてその姿を見かけなくなった。病気(何だかわからない)が重くなったのではなくて無事に退院されていればいいな、と思った。 マーヒー加藤 ※ JAZZの大音響ばかりを思い出し、その記憶のなかの大音響にかき消される形で、 おそらく演劇にもっとも参考になるであろう、会話や言葉はさっぱりと 思い出せません。
by kaneniwa
| 2012-09-13 00:24
| 草京都
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