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2013年 09月 17日

『歎異抄』千本ノック(3) 所留耳底(3)

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iPadとかキンドルのようなタブレット形式のものやあるいはスマートフォンで読書をする人も多くなってきた。そういった場合、公共交通機関のなかなどで読書をするというケースも多いこともあって、右手の人差し指をシュッシュしながら音読をしていると周囲からキモチワルい存在として見られてしまうだろう。本質的に黙読というのは情報処理である。黙読というものは今では当たり前のことになっているが、逆に西洋でも中世の時代などは「悪魔の所業」などと言われていたそうな。たとえば修道院の院長さんなどが本を黙読している修道士などを見つけると、今なら「よく勉強をしているね」とほめられることはあっても「お、お前は何ということをしているのか!」と気持ち悪がれて怒られるなんていうことは想像しにくいと思う。ただ、次のことを想像してもらったら、その気持ち悪さは少しはわかってもらえると思う。僧侶が自宅のお内仏(仏壇)の前で法事をつとめにやって来たとする。ところが、その僧侶は読経せずにひたすらみんなの前で経典や偈文だけをひろげて黙読をしている。これではお布施はいただけないだろう。そして、そういう僧侶がいたらキモいと言われるだけであろう。逆に言うと、どんなに喉の調子が悪い時でも、扁桃腺をはらしていて声を出すと痛いような時でも、何とか音読をする形でお経や偈文というものとは対峙しなければならない。お経は、釈尊が語った言葉で阿難などの仏弟子の耳底にのこった言葉を中国語訳というフィルターを通しているけれども訳した人も可能な限り原音の響きを残せる漢字を選びぬいたということもある。『歎異抄』の前半には唯円という人の耳底に残った親鸞の言葉がある。そこにはサウンドもあればリズムもあるだろう。『歎異抄』はお経でもなければ偈文でもないけれども、なるべく黙読ではなく音読で読みたいと思っている。

マーヒー加藤

by kaneniwa | 2013-09-17 00:50 | 『歎異抄』千本ノック


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