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2008年 10月 02日

超訳徒然草・吉田くんのブログ(第226段)

後鳥羽院の御時、信濃前司行長、稽古の譽ありけるが、
樂府の御論議の番に召されて、七徳の舞を二つ忘れたりければ、
五徳の冠者と異名をつきにけるを、心憂き事にして、
學問を捨てて遁世したりけるを、慈鎭和尚、
一藝ある者をば下部までも召しおきて、不便にせさせ給ひければ、
此の信濃入道を扶持し給ひけり。

此の行長入道、平家物語を作りて、生佛といひける盲目に教へて語らせけり。
さて山門のことを、殊にゆゆしく書けり。
九郎判官の事は、くはしく知りて書きのせたり。
蒲冠者の事は、よく知らざりけるにや、多くの事どもをしるしもらせり。
武士の事、弓馬のわざは、生佛、東國の者にて、武士に問ひ聞きて書かせけり。
かの生佛が生れつきの聲を、今の琵琶法師は學びたるなり。

(吉田兼好法師 『徒然草』 第226段)

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後鳥羽上皇の時代、前長野県知事の行長は
よく古典を勉強していると評判が高く、
天皇の前で漢詩の論議をする学習会のコメンテーターとして
招集されたが、その席上で 「七徳の舞」 というスタンダードのうちの
二つをど忘れしてしまったので 「五徳野郎」 という情けない
ニックネームをつけられたことに羞恥心を感じ、学問を捨てて出家した。
師匠となった慈円大僧正は、一芸に秀でた者はそばに置いて自分の
世話係として目をかけてやっていたので、この五徳野郎のことも
珍重してめんどうをみた。

さて、その後の五徳野郎は平家物語を創作し、
目が見えなかったがミュージシャンとして生仏(しょうぶつ)と呼ばれた
綾小路資時(あやのこうじ・すけとき)に教えて節をつけて語らせた。
であるからして、平家物語は比叡山延暦寺の描写が実に緻密に書かれている。
そして、なんせ古典の研究家だったから源義経のデータは詳しく知っていて、
それをこと細かく書いている。
でも源範頼のことはよく知らなかったのかな、すいぶん多くの記載もれがある。
武士のこととか、馬を使った弓道のこととかは、ミュージシャン・生仏が
関東の出身だったから、実際に生仏が武士にインタビューしておいたものを
五徳野郎に書いてまとめさせたのだ。
この、生仏の喉仏から出される特徴的な地声と調子を、
今の平家物語を弾き語るミュージシャンたちも真似しているんだ。

超訳BYマーヒー

by kaneniwa | 2008-10-02 23:01 | 徒然草


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